↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
答えは、ふたりで〜四十歳夫婦、若返って異世界転生。クラフト&ミステリな暮らし〜  作者: 翠川しおり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/20

17.夫婦、考えを話す【謎解き回】

今回は【謎解き回】です。

謎解きから読みたい!という方以外は、お気を付けください……。

 協会へ向かう道は、昨日の夕方に歩いた道を逆にたどるだけだった。それなのに、千尋には初めて通る道のように見えた。朝の通りでは、井戸端に桶を提げた女たちが集まって話し込み、荷車を引く男が石畳の上でごとごとと車輪を鳴らしている。昨日の自分はこの通りをどんな顔をして歩いたのだったか。


 宿に着いて、女将さんに挨拶して、ご飯を食べて、眠った。昨夜のことで千尋が覚えているのは、それくらいだった。女将さんと話したことは覚えている、湯気の立つ器が目の前に並んだのも確かだ。けれど、何を言われて何と返したのか、器の中に何が入っていて、どんな味がしたのかは、ほとんど思い出せない。今日の朝のことばかりが頭の中を回っていて、目に入るものも口に入るものも、みんなその外側を素通りしていった。


「ねぇ、昨日の晩ごはん、何だったか覚えてる?」


 隣を歩く真琴が、首から下げた札を指先でいじりながら言った。


「……煮込み、だったかな。たぶん」

「私も、たぶん煮込み。お肉が入ってた気がする。……もったいないことをしたなぁ」

「今日の夜は、ちゃんと味わって食べようね」

「うん、今日の夜は」


 真琴はそう繰り返して、札を服の内側へしまった。千尋はバッグの肩紐を握り直した。一番奥の小さな包みは、昨日からまだ一度も出していない。

 協会の奥の部屋には、椅子がいくつか運び込まれていた。机の向こうにディルクが座り、男が二人、少し間を空けて腰掛けている。千尋と真琴が入っていくと、二人は揃って顔を上げた。


「ヨアンと、ガルドだ。ティモはまだ来ていない」


 ディルクが短く言い、それから二人の方へ顎を向けた。


「森で、野営跡とあの男を見つけた二人だ」


 ヨアンは、すぐに立ち上がって頭を下げた。細身で、襟元のボタンを一番上まできちんと留めている。座り直した後も、両手を膝の上にきれいに揃えていて、千尋はあのまっすぐな行の並んだ手帳を思い出した。この人が書いたのだ、と自然に思えた。


 ガルドは立ち上がらず、座ったまま軽く会釈した。肩幅のある、がっしりとした男で、短く刈った顎髭には白いものが混じっている。三人の中では一番年かさなのだろう。背もたれに体を預けたまま、落ち着いた目で二人を眺めていた。その腰のベルトから、灰色の毛に覆われた獣の前足が一本、紐で吊るされている。乾いて黒ずんだ爪が、椅子の脚のそばで小さく揺れた。


 真琴の視線が、一度だけそこで止まった。止まって、すぐに離れた。


 ティモが来たのは、二人が腰を下ろしてしばらく経ってからだった。扉が勢いよく開き、まだ少年の面影を残した若い男が、肩で息をしながら飛び込んできた。


「す、すみません。遅れました」

「座れ」


 ディルクに言われ、ティモは空いていた端の椅子に小さくなって座った。走ってきたのか、額にうっすらと汗が浮いている。誰とも目を合わせようとせず、胸元の服の上を片手で押さえるようにして、じっと床を見ていた。


 全員が揃ったのを確かめてから、ディルクが千尋を見た。千尋は小さく頷き、口を開いた。


 昨日ディルクに話したことを、もう一度、順を追って話していく。


 遺跡の裏手で野営跡を見つけたこと。荷物には手を付けず、手帳だけを預かったこと。翌日、沢で男が亡くなっているのを見つけ、布を掛けて、石で押さえつけてきたこと。見たことだけを、余計な言葉を挟まずに並べた。ヨアンは途中で何度か目を閉じ、ティモは膝の上で両手を握りしめていた。ガルドだけが、表情を変えずに聞いていた。


 話し終えると、ディルクが机の端に置いていた手帳を、千尋の方へ押しやった。


「お前さんから返してやれ」


 千尋は手帳を手に取り、ヨアンの前へ差し出した。


「中を、読ませていただきました。持ち主へお返しするための手がかりを探すつもりで。……勝手をして、申し訳ありません」

「いや……」


 ヨアンは両手で手帳を受け取り、表紙をそっと撫でた。何か言おうとして、言葉にならなかったらしい。小さく首を振ってから、手帳を胸に抱えるようにして頭を下げた。


「わざわざ、すまなかったな」


 口を開いたのは、ガルドだった。


「あんなに奥まで入って、手帳まで届けてくれるとはな。俺たちは、あの男を置いて逃げてきたようなもんだ。礼を言う」


 穏やかな、よく通る声だった。年長者が若いものを労う時の、角の取れた言い方だった。千尋は黙って頭を下げた。


「ここからは、私たちの推測が混じります」


 顔を上げて、千尋は言った。


「なので、そう思った理由も一緒にお話しします。間違っているところがあれば、遠慮なく言ってください」


 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。ディルクは腕を組み、黙って先を促した。


「私は魔力の痕跡のようなものを感じ取ることができます。見える、というより、感じる、に近いのですが」


ディルクの眉が、ほんの少し動いた。


「森で、私たちは灰牙狼と戦ったことがあります。その場所を、三日経ってからもう一度見に行きました。灰牙狼が跳んだところ、踏ん張ったところに、はっきりと残っていました。三日経っても、ほとんど薄れていなかったんです。ですが、沢の足跡の上にも、亡くなっていた方の周りにも、それが全くありませんでした」

「……痕跡が分かるのか」


 ディルクが低く言った。


「そういう奴は、たまにいる。多くはないがな。森へ出る人間には、重宝される力だ」


 少し間を置いて、ディルクは千尋の顔を見直した。


「自分で知らなかったのか」

「はい。珍しいものだとは、知りませんでした」


 嘘ではなかった。森で暮らしていた間、二人にとって、それはただ千尋にできることの一つでしかなかった。この世界の人にとっても珍しいのだと、千尋は今、初めて知った。隣で真琴が、ほんのわずかに目を見開いたのが分かった。


「ただ、痕跡がないというだけで、獣ではないと決めることはできません。私が比べられたのは灰牙狼だけですし、痕跡を残さない獣がいないとは言い切れませんから」


 ディルクは何も言わなかったが、組んだ腕の上で、指が一度だけ小さく動いた。


「それから、地面に残っていた足跡です。大きさは私たちが戦った灰牙狼より、指一本分ほど大きかったと思います」

「あの辺りで灰牙狼よりでかいとなると、群れの長ぐらいだな」


 ディルクが言うと、ガルドがゆっくりと頷いた。


「ああ。俺も、あの時そう思った」


 千尋は次へ移る前に、隣を見た。真琴は小さく頷き、左の袖を肘までまくり上げた。腕の外側に、白んだ三本の線が浮かんでいる。


「これ、森で灰牙狼にやられた傷です」


 真琴は右手の指を揃え、傷の上を宙でなぞって見せた。


「跳んできた勢いのまま引っかかれたので、三本とも斜めに流れて居るのが分かると思います。真ん中だけ少し深くて、端は途中でかすれてて。でもあの人の背中の傷は、三本とも間隔も深さも揃いすぎていました。最初から最後まで同じ太さで、まっすぐで」


 真琴はそこで袖を下ろした。それ以上は言わなかった。


「亡くなっていた方は、獣に荒らされていませんでした。何日も経っていたのに、食べられた跡も、引きずられた跡もありません」


 千尋はそこで、ヨアンの方を見た。


「それと、ヨアンさんの手帳に、『遠吠えは聞こえなかった』と書いてありました」


 ヨアンの手が、手帳の表紙の上でぎゅっと握られた。


 しばらく、誰も口を利かなかった。窓の外から、通りを行く荷車の音が遠く聞こえてくる。


「なるほどな」


 沈黙を破ったのは、またガルドだった。否定するでもなく、顔をしかめるでもなく、ガルドは深く息を吐いて、膝の上で手を組んだ。


「獣でないなら、人だ。……筋は通っている」


 ガルドはしばらく床の一点を見つめていた。それから、気の進まない話を切り出すときの顔で、隣のヨアンへ目を向けた。


「……言いたくはないが、確かめないわけにもいかんだろう。ヨアン、お前も見たんだったな」


 ヨアンの肩が、びくりと揺れた。手帳を抱えたまま、何度か唇を開きかけては閉じる。やがて、絞り出すように言った。


「……ティモが、夜中に寝床を抜け出していくのを、見ました。私の見張りの晩の夜に」


 ティモの身体が、目に見えて縮こまった。胸元を押さえた手に、ぎゅっと力がこもる。

 ディルクは腕を組んだまま、黙ってティモを見ていた。誰も声を荒げはしなかった。けれど、部屋の中の目という目が、少しずつ端の椅子へ寄っていくのが、千尋にははっきりと感じ取れた。


 千尋も、ティモの方へ向き直った。


「ティモさん。あの夜、どこにいましたか」


 問い詰めるつもりのない、静かな声だった。ティモは顔を上げかけて、また伏せた。口が動いたが、声にならない。


「ティモ」


 ガルドが身を乗り出し、諭すように言った。


「正直に言った方がいい。今ならまだ……」


 ティモの肩が、小刻みに震え始めた。膝の上で握りしめていた拳がほどけ、さっきからずっと押さえていた胸元へ入っていく。取り出されたのは、二つに折った紙だった。ティモは震える手でそれを机の上に置き、ようやく顔を上げた。


「……これ、です」


 ディルクが紙を引き寄せて広げた。品物の名前と、その横に数字が並んでいる。一番下には店の印らしいものが押してあった。


「夜に、一人で、薬草を取ってました」


 ティモの声はかすれていたが、一度口を開くと、止まらなかった。


「森の、夜にしか取れないやつです。昼間に採れるものなら、皆で採ってる時にこっそり籠に入れればいい。でもあれは夜にしか咲かないから……抜け出すしかなかったんです。それを皆の分に入れないで、自分で売りました。家の者の薬を買うのに、どうしてもお金が要って……


 言葉が途切れ、ティモは唇を嚙んだ。


「なくなった素材も、魔核も、そこには一つも書いてありません。俺が売ったのはその薬草だけです。森特有のものだから、値をつけるのに何日もかかるって言われて……今朝やっと受け取ってきたところで」


 だから遅れたのだ、とは、ティモは言わなかった。言わなくても、部屋の誰もが分かった。


「《三つ釜の店》……ヘルガの婆さんのところか」


 紙の下の印を見て、ディルクが言った。


「あそこなら帳面も残ってる。誰から何をいくらで買ったか、全部な。すぐに調べが付く」


 ティモは小さく頷き、それから、力なく笑ったような顔をした。


「ヘルガさんにも、夜の森に一人で入るなんて、って、こっぴどく叱られました。死にたいのかって」

「……叱ってくれる人がいて、よかったですね」


 真琴が静かに言った。ティモは驚いたように真琴を見て、それから、くしゃりと顔をゆがめてうつむいた。張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 ヨアンは手帳を開いていた。紙の上に指を這わせ、頁をめくり、また戻る。その指が、ある頁で止まった。


「……違う」


 ヨアンの声が震えた。


「ティモが抜け出したのは、私の晩の夜だ。素材がなくなっていたのは……日が違う。一度も重なってない」


 ヨアンは手帳を閉じ、ティモの方へ向き直った。


「すまなかった、ティモ。私はお前を……」

「いえ……俺が、規則を破ってたのは本当ですから」


 ティモは首を振った。ヨアンはそれでも、もう一度深く頭を下げた。

 そして、部屋が静かになった。


 誰もが同じことに気が付いたのだと思う。ティモでないなら、では誰なのか。その問いだけが、部屋の真ん中にぶら下がっているようだった。


「ヨアンさん、確かめさせてください。足跡が最初に出た朝の、前の晩。見張りに立っていたのは、どなたでしたか」


 ヨアンは手帳を開き、指で行を辿った。


「……ガルドさん」

「二度目に素材が消えた朝の、前の晩は」

「……ガルド」

「荷を漁る人が出た、最後の夜は」


 ヨアンの指が、最後の頁の上で止まった。顔から、すっと血の気が引いていく。


「……全部、ガルドだ。なんでこのことに気が付かなかったんだ」


 ヨアンは手帳を見下ろしたまま、かすれた声で言った。毎晩、自分の手で書き添えてきた名前だった。千尋に言われた夜の頁を、何度も見直す。前へ戻っても、先へ送っても、そこに並んでいるのは自分の字で書いた同じ名前だった。自分で書いたものを、いまさら見間違いだとは言えなかった。


「気が付けなくて、当然だと思います」


 千尋は、静かに言った。


「同じ火を囲んで、同じものを食べて、森で背中を預け合ってきた仲間です。疑う理由が、何処にもありませんから。そこへ、ティモの行動も重なって、見えなくなってしまったのでしょう……それに、ヨアンさんが毎晩の順番まで残していてくださらなければ、私たちにも分かりませんでした」


 ヨアンは何も答えなかった。ただ、手帳を握る指に力がこもった。ガルドは、表情を変えなかった。組んでいた手をほどき、背もたれに体を戻す。


「見張りの順番を決めていたのは俺だ。俺の晩が多くて当然だろう。夜の一番きつい時は、年かさの年長者が引き受けるもんだ」


 その答えには、迷いがなかった。言われてみれば、もっともな話でもあった。ヨアンが何か言いかけて、口をつぐむ。


「……ガルドさん」


 真琴が口を開いた。座ったまま、まっすぐガルドの腰あたりを見ている。


「その腰のもの、見せてもらっていいですか」


 ガルドの目が、初めて真琴の方へ動いた。部屋の視線が、つられるようにガルドの腰へ集まる。乾いた灰色の毛と、黒ずんだ爪。ティモが、不思議そうに真琴とその前足とを見比べた。なぜ今それなのか、分からないという顔だった。


 ガルドは腰の前足に手をやり、紐の上からそれを軽く押さえた。


「魔除けだ。灰牙狼の脚を提げてる奴なんて、村にはいくらでもいる」


 口調は落ち着いていた。真琴はそれ以上何も言わず、隣の千尋を見た。千尋は小さく頷いた。


「足跡のことで、ひとつ、まだお話していないことがあります」


 千尋は、ヨアンの方へ向き直った。


「ヨアンさん、森で、灰牙狼の足跡はたくさん見てこられたと思います。走った跡、立ち止まった跡、獲物に飛び掛かった跡。その中に、全く同じものはありましたか」


 ヨアンは戸惑ったように瞬きをした。それから、採取人として長く森を歩いてきた人間の顔になって、ゆっくりと首を振った。


「……ない。踏み込めば足が開くし、ぬかるみなら爪が深く沈む。走っていれば前の方ばかり深くなる。同じ獣の脚でも、一歩ごとに形が違う」

「生きてる獣の足跡が全部同じなんてことは、まずない」


 ディルクが、低く言い添えた。元探索者の言葉だった。


 千尋は、ゆっくりと口を開いた。


「沢の足跡は、全部同じ形でした」


 部屋の中が、しんと静まった。


「指の開き方も、爪の食い込む位置も、深さも。亡くなった方の周りをぐるりと囲んでいた足跡は、ひとつ残らず同じでした。まるで、同じ判を何度も押したように」


 ヨアンの口が、わずかに開いた。ティモが、はっとしたように顔を上げる。その目が、ゆっくりと、ガルドの腰へ向かっていた。


「乾かした脚は、指が開かないんです」


 真琴が言った。


「森で灰牙狼を何頭か解体したから知っています。生きてる脚は、体重がかかるとぐっと指が開く。でも乾いた脚は、何処に押し付けても、ずっと同じ形のまま。……それに、その足、普通の灰牙狼より大きいですよね。ディルクさんの言った、群れの長ぐらい。


 真琴は千尋を見た。


「それから、もう生きていない脚なら、千尋の言っていた気配も残らないと思う」


 千尋は、ガルドの腰の前足へ意識を向けた。そこにはあの森の戦闘跡に残っていたような荒々しいものは、何も感じられなかった。


「……うん。生き物が自分で動いた跡じゃないなら、残らなくてもおかしくない」


 気配のない足跡。灰牙狼より大きな脚。判で押したように同じ形。さっきまでばらばらに並べられていた話が、たった一つのものの上で、静かに重なっていった。ヨアンもティモも、ディルクも、腰から下がったお守りから目が離せなくなっていた。


 ちゃんと見てから言う。森で真琴はそう言った。今、真琴はちゃんと見ていた。


 ガルドの手が、腰の前足の上で止まっていた。押さえた指の節が、白くなっている。


「……そんなもの、何の証拠になる」


 声は低く、さっきまでの穏やかさが、わずかに削れていた。


「足跡がたまたまそろっただけかもしれん。お前さんたちの話は、全部、そう見える、ってだけのことだろう」


 それも間違いではなかった。どれほど筋が通っていても、ここまでに出てきたものは、まだ、そう考えれば説明がつく、というだけのことだ。千尋は、バッグの肩紐にかけた手を、そこから動かさなかった。


「ガルドさん」


 千尋はまっすぐガルドを見た。


「今ならまだ間に合います。お願いだから、ご自分の口から話してください」


 ガルドは答えなかった。


「ガルド」


 ディルクが、低く言った。


「……俺からも頼む」


 短い言葉だった。ガルドの目が、一瞬だけディルクの方へ動いた。けれど、すぐに戻った。


「話すことなんて、何もない」


 千尋は、ゆっくりと息を吐いた。


 バッグの一番奥へ手を入れ、二重にくるんだ包みを取り出す。外側の布を解き、油の染みた布ごと、机の上へ置いた。


「なくなっていた方の靴の中に、これがありました」


 布を開き、二つ折りの紙を広げる。一番上の宛名が、全員の目に入った。


『ベネトへ』

「…ベネト」


 ヨアンが、その名前を小さく繰り返した。ずっと盗人とだけ呼ばれていた男の名前だった。ガルドは、紙を見なかった。


「差出人の名前は、書いてありません」


 千尋は言った。


「ただ、自分が見張りに立つ夜、焚き火に生木をくべて煙を上げるから、それを見たら来い、とあります。物は野営地のはずれの倒木の陰に出しておく、と」


 ヨアンが手帳を開いた。手紙と頁とを、何度も見比べる。素材が消えた朝。その前の晩の見張り。手紙の言う、見張りに立つ夜。どれもきれいに重なっていた。

 それから、ヨアンの目が手紙の文字そのものに止まった。右肩の上がった、角ばった、癖の強い字。三人で森を出るたび、ヨアンはこの字を見ながら帳面をつけてきたのだ。


「……ガルドの字だ」


 ヨアンの声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

 ディルクは何も言わなかった。昨日、この手紙を読んだ時と同じ顔で、ただガルドを見ていた。

 ガルドは長いこと黙っていた。やがて、目を閉じ、深く深く息を吐いた。腰の前脚を押さえていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。


「……最初は、ほんの少しのつもりだった」


 まるで、他人の話でもするような声だった。


 採ったものを、少しずつ抜いて、ベネトに渡す。ベネトがそれを遠くの街で売り、金を分ける。獣に盗まれたことにすれば、誰も深くは調べない。何度か、うまくいった。


「あいつは、分け前を変えろと言ってきた。でなきゃ全部ばらす、とな。……あの夜、言い合いになって」


 ガルドはそこで言葉を切り、膝の上の手を見下ろした。


「殺した」


 ティモが、息を呑む音が聞こえた。


「埋める暇なんかなかった。叫び声でヨアンが起きてるはずだと思ったからな。……それに、盗人が死んでくれりゃ、消えたものの行方も、それで全部片が付く。きれいになくなってるより、このほうがいいだろうと思ったのさ。


 ヨアンの肩が、小さく震えた。あの夜、叫び声で飛び起きた自分の元へ、しばらくしてガルドが戻ってきたのだ。見知らぬ男が荷を漁っていたから、怒鳴りつけて追い払った。逃げた男を追いかけたが、闇の向こうで獣に襲われたようだった。ガルドはそう言い、ヨアンはその言葉を疑いもせずに、手帳へ書きつけた。

 夜が明けてから、三人で沢へ降り、倒れている男を見つけた時も、灰牙狼だといったのはガルドだった。


「だから、こいつで足跡をつけて回った。背中の傷も、こいつの爪だ」


 ガルドは腰の紐をほどき、乾いた前脚を机の上へ置いた。それから、端の椅子の方へ、本のわずかだけ目を向けた。


「ティモが夜に抜けているのは、前から知ってた。……ちょうどいいと思った」


 ティモは何も言わなかった。言えなかったのだろう。ヨアンが、手帳を抱えたまま顔を覆った。


 ディルクが立ち上がった。


「行くぞ、ガルド」


 ガルドは逆らわなかった。ゆっくりと立ち上がり、扉の方へ向かう。その背中は、来た時と同じようにまっすぐだったが、一回り小さく見えた。ディルクは机の上の手紙と前脚を布で包み、脇に抱えた。


「ベネトを……」


 ヨアンが顔を上げた。


「ベネトを、ちゃんと埋めてやりたいんです」

「ああ、人をやる」


 ディルクは扉の手前で振り返り、千尋と真琴の方を見た。


「こいつらが縄を結んで、道順まで置いてってくれた。迷わずに行ける」


 千尋は黙って頭を下げた。ティモがおずおずと頭を上げ、ディルクを見る。


「あの、俺は……」

「規則破りは規則破りだ。だが、それはまた別の話だ」


 ディルクはそれだけ言って、ガルドを連れて部屋を出ていった。足音が遠ざかり、やがて表の扉の開く音がした。治安官のところへ向かったのだろう。話の続きは、またあちらで、改めて聞かれることになる。


 残された部屋で、ヨアンが立ち上がり、二人の前で深く頭を下げた。ティモも慌ててそれに倣った。何を言えばいいのか分からない。千尋も何を言えばいいのか分からなかった。だから、黙って頭を下げ返した。


 宿に戻ったのは、日がずいぶん傾いてからだった。


 ヨアンとティモを見送り、ミナに声を掛けられて、協会を出て、広場を抜けて。どの道をどう歩いてきたのか、千尋はよく覚えていない。ただ、軒先に大きな鹿の角が掛かっているのを見上げた時、ああ、ここだった、と思った。


 昨日もこの角の下をくぐったはずだった。枝分かれした角は、夕日を受けて白っぽく光っている。扉を開けると、食堂の方から、煮込みののいい匂いと、焼けたパンの香ばしい匂いが流れてきた。卓をいくつも並べた広い部屋に、探索者らしい男たちが何人か座っていて、木の器のぶつかる音と、笑い声が聞こえる。奥の壁際には、濡れた外套がずらりと掛けられた部屋の入り口が見えた。こんな宿だったのか、と千尋は思った。


「おや、帰ってきたね」


 奥から出てきたのは、大柄な女性だった。袖をまくり上げた腕は、千尋の腕より太いかもしれない。赤褐色の髪を頭の後ろで無造作にまとめていて、声は食堂の喧騒を軽々と越えて届いた。


「朝飯もそこそこに飛び出していくから、どうしたもんかと思ってたんだよ。……それにしても、あんたたち、その服で森を歩いてきたのかい?」


 真琴が、あ、という顔をした。


「それ、昨日も言われた気がします」

「言ったよ。あんたら、うわの空で、肺はいって頷くばっかりだったじゃないか」


 ベルタはからからと笑い、二人の背中をばんと叩いた。


「風呂は沸いてるよ。先に入ってきな。上がったら、飯にしよう」


 風呂は、宿の奥にあった。石で囲った湯船に、なみなみと湯が貼ってある。湯に肩まで沈んだ瞬間、千尋の喉から、自分でも驚くほど長い息がこぼれた。十日以上、川の水で身体を拭うばかりだった。熱が、指先から、足の裏から、ゆっくりと体の中へ染み込んでくる。今日一日、ずっと肩のどこかに入っていた力が、湯の中へほどけていった。


 食堂へ戻ると、真琴が先に卓についていた。洗った髪がまだ少し湿っていて、頬がほんのりと赤い。


「千尋、遅い。もう少しで先に食べるところだった」

「ごめんごめん、出られなくなってた」

「まぁ、分かる。私も危なかった」


 ふふふ、と笑った真琴は久しぶりにゆったりとした眩しい笑顔だった。

 ベルタが運んできたのは、大きな丸パンと、深い器になみなみと盛られた肉と根菜の煮込み、柔らかく煮た豆、それから湯気の立つお茶だった。


 真琴が匙で煮込みをすくい、口へ運んだ。そして、そのまま止まった。


「……おいしい」


 千尋も一口食べた。肉はほろりと崩れるほど柔らかく、根菜は甘く、塩気のきいた汁が舌の上にじんわりと広がった。パンをちぎって汁に浸すと、外側の硬い皮が、香ばしい匂いを立てた。


 昨日も、同じものを食べたはずだった。それなのに、千尋は今、初めてこの味を知った気がした。


「昨日、これ食べてたんだね、私たち」

「食べてたね。……もったいないことしたな」

「ほんとにね」


 二人は顔を見合わせて、それからしばらく、何も話さずに食べた。真琴は器の底に残った汁まで、パンで綺麗に拭い取った。ベルタが通りがかりにそれを見て、満足そうに鼻を鳴らし、何も言わずに二人の器へお代わりを注いでいった。


 部屋へ上がり、扉を閉めると、ようやく二人きりになった。


 小さな窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。通りの向こうの家々に、ぽつぽつと明かりが灯っている。千尋は寝台の端に腰を下ろし、そのまま後ろへ倒れ込んだ。天井の梁を見上げたまま、長く息を吐く。


「……終わったね」

「うん。終わった」


 真琴が隣に腰を下ろし、千尋の顔を覗き込んだ。


「千尋、今日、一回も笑ってなかったよ」

「笑える場面、なかったでしょ」

「そうだけどさ」


 真琴は千尋の頬を指先でつまんで、軽く引っ張った。千尋はされるがままになって、それから、ふっと笑った。協会でも広場でも見せなかった顔だった。目じりが下がり、口元がほどけて、ずっと張っていた何かが、そこでようやく緩んだ。


「お疲れさま、真琴。……今日の真琴、かっこよかったよ」

「でしょ?ちゃんと見てから言ったからね」

「うん。ちゃんと見てた」


 真琴は満足そうに笑って、千尋の隣へごろりと横になった。肩と肩が触れる。窓の外から、どこかの家の笑い声と、食器を片付ける音が小さく聞こえてくる。


 森の夜は、焚き火の爆ぜる音と、虫の声と、交代の見張りだった。ここには、人の暮らす音がある。風呂があって、温かいご飯があって、明日の朝もきっと、ベルタの大きな声がする。


 ここで、暮らしていくのだ。


 千尋は目を閉じた。今夜は、見張りに立たなくてよかった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


最初の謎解きが、終わりました。

ここからしばらくは、魔法、剣、ギルド……異世界に慣れていきます。


楽しんでいただけたら幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。