17.夫婦、考えを話す【謎解き回】
今回は【謎解き回】です。
謎解きから読みたい!という方以外は、お気を付けください……。
協会へ向かう道は、昨日の夕方に歩いた道を逆にたどるだけだった。それなのに、千尋には初めて通る道のように見えた。朝の通りでは、井戸端に桶を提げた女たちが集まって話し込み、荷車を引く男が石畳の上でごとごとと車輪を鳴らしている。昨日の自分はこの通りをどんな顔をして歩いたのだったか。
宿に着いて、女将さんに挨拶して、ご飯を食べて、眠った。昨夜のことで千尋が覚えているのは、それくらいだった。女将さんと話したことは覚えている、湯気の立つ器が目の前に並んだのも確かだ。けれど、何を言われて何と返したのか、器の中に何が入っていて、どんな味がしたのかは、ほとんど思い出せない。今日の朝のことばかりが頭の中を回っていて、目に入るものも口に入るものも、みんなその外側を素通りしていった。
「ねぇ、昨日の晩ごはん、何だったか覚えてる?」
隣を歩く真琴が、首から下げた札を指先でいじりながら言った。
「……煮込み、だったかな。たぶん」
「私も、たぶん煮込み。お肉が入ってた気がする。……もったいないことをしたなぁ」
「今日の夜は、ちゃんと味わって食べようね」
「うん、今日の夜は」
真琴はそう繰り返して、札を服の内側へしまった。千尋はバッグの肩紐を握り直した。一番奥の小さな包みは、昨日からまだ一度も出していない。
協会の奥の部屋には、椅子がいくつか運び込まれていた。机の向こうにディルクが座り、男が二人、少し間を空けて腰掛けている。千尋と真琴が入っていくと、二人は揃って顔を上げた。
「ヨアンと、ガルドだ。ティモはまだ来ていない」
ディルクが短く言い、それから二人の方へ顎を向けた。
「森で、野営跡とあの男を見つけた二人だ」
ヨアンは、すぐに立ち上がって頭を下げた。細身で、襟元のボタンを一番上まできちんと留めている。座り直した後も、両手を膝の上にきれいに揃えていて、千尋はあのまっすぐな行の並んだ手帳を思い出した。この人が書いたのだ、と自然に思えた。
ガルドは立ち上がらず、座ったまま軽く会釈した。肩幅のある、がっしりとした男で、短く刈った顎髭には白いものが混じっている。三人の中では一番年かさなのだろう。背もたれに体を預けたまま、落ち着いた目で二人を眺めていた。その腰のベルトから、灰色の毛に覆われた獣の前足が一本、紐で吊るされている。乾いて黒ずんだ爪が、椅子の脚のそばで小さく揺れた。
真琴の視線が、一度だけそこで止まった。止まって、すぐに離れた。
ティモが来たのは、二人が腰を下ろしてしばらく経ってからだった。扉が勢いよく開き、まだ少年の面影を残した若い男が、肩で息をしながら飛び込んできた。
「す、すみません。遅れました」
「座れ」
ディルクに言われ、ティモは空いていた端の椅子に小さくなって座った。走ってきたのか、額にうっすらと汗が浮いている。誰とも目を合わせようとせず、胸元の服の上を片手で押さえるようにして、じっと床を見ていた。
全員が揃ったのを確かめてから、ディルクが千尋を見た。千尋は小さく頷き、口を開いた。
昨日ディルクに話したことを、もう一度、順を追って話していく。
遺跡の裏手で野営跡を見つけたこと。荷物には手を付けず、手帳だけを預かったこと。翌日、沢で男が亡くなっているのを見つけ、布を掛けて、石で押さえつけてきたこと。見たことだけを、余計な言葉を挟まずに並べた。ヨアンは途中で何度か目を閉じ、ティモは膝の上で両手を握りしめていた。ガルドだけが、表情を変えずに聞いていた。
話し終えると、ディルクが机の端に置いていた手帳を、千尋の方へ押しやった。
「お前さんから返してやれ」
千尋は手帳を手に取り、ヨアンの前へ差し出した。
「中を、読ませていただきました。持ち主へお返しするための手がかりを探すつもりで。……勝手をして、申し訳ありません」
「いや……」
ヨアンは両手で手帳を受け取り、表紙をそっと撫でた。何か言おうとして、言葉にならなかったらしい。小さく首を振ってから、手帳を胸に抱えるようにして頭を下げた。
「わざわざ、すまなかったな」
口を開いたのは、ガルドだった。
「あんなに奥まで入って、手帳まで届けてくれるとはな。俺たちは、あの男を置いて逃げてきたようなもんだ。礼を言う」
穏やかな、よく通る声だった。年長者が若いものを労う時の、角の取れた言い方だった。千尋は黙って頭を下げた。
「ここからは、私たちの推測が混じります」
顔を上げて、千尋は言った。
「なので、そう思った理由も一緒にお話しします。間違っているところがあれば、遠慮なく言ってください」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。ディルクは腕を組み、黙って先を促した。
「私は魔力の痕跡のようなものを感じ取ることができます。見える、というより、感じる、に近いのですが」
ディルクの眉が、ほんの少し動いた。
「森で、私たちは灰牙狼と戦ったことがあります。その場所を、三日経ってからもう一度見に行きました。灰牙狼が跳んだところ、踏ん張ったところに、はっきりと残っていました。三日経っても、ほとんど薄れていなかったんです。ですが、沢の足跡の上にも、亡くなっていた方の周りにも、それが全くありませんでした」
「……痕跡が分かるのか」
ディルクが低く言った。
「そういう奴は、たまにいる。多くはないがな。森へ出る人間には、重宝される力だ」
少し間を置いて、ディルクは千尋の顔を見直した。
「自分で知らなかったのか」
「はい。珍しいものだとは、知りませんでした」
嘘ではなかった。森で暮らしていた間、二人にとって、それはただ千尋にできることの一つでしかなかった。この世界の人にとっても珍しいのだと、千尋は今、初めて知った。隣で真琴が、ほんのわずかに目を見開いたのが分かった。
「ただ、痕跡がないというだけで、獣ではないと決めることはできません。私が比べられたのは灰牙狼だけですし、痕跡を残さない獣がいないとは言い切れませんから」
ディルクは何も言わなかったが、組んだ腕の上で、指が一度だけ小さく動いた。
「それから、地面に残っていた足跡です。大きさは私たちが戦った灰牙狼より、指一本分ほど大きかったと思います」
「あの辺りで灰牙狼よりでかいとなると、群れの長ぐらいだな」
ディルクが言うと、ガルドがゆっくりと頷いた。
「ああ。俺も、あの時そう思った」
千尋は次へ移る前に、隣を見た。真琴は小さく頷き、左の袖を肘までまくり上げた。腕の外側に、白んだ三本の線が浮かんでいる。
「これ、森で灰牙狼にやられた傷です」
真琴は右手の指を揃え、傷の上を宙でなぞって見せた。
「跳んできた勢いのまま引っかかれたので、三本とも斜めに流れて居るのが分かると思います。真ん中だけ少し深くて、端は途中でかすれてて。でもあの人の背中の傷は、三本とも間隔も深さも揃いすぎていました。最初から最後まで同じ太さで、まっすぐで」
真琴はそこで袖を下ろした。それ以上は言わなかった。
「亡くなっていた方は、獣に荒らされていませんでした。何日も経っていたのに、食べられた跡も、引きずられた跡もありません」
千尋はそこで、ヨアンの方を見た。
「それと、ヨアンさんの手帳に、『遠吠えは聞こえなかった』と書いてありました」
ヨアンの手が、手帳の表紙の上でぎゅっと握られた。
しばらく、誰も口を利かなかった。窓の外から、通りを行く荷車の音が遠く聞こえてくる。
「なるほどな」
沈黙を破ったのは、またガルドだった。否定するでもなく、顔をしかめるでもなく、ガルドは深く息を吐いて、膝の上で手を組んだ。
「獣でないなら、人だ。……筋は通っている」
ガルドはしばらく床の一点を見つめていた。それから、気の進まない話を切り出すときの顔で、隣のヨアンへ目を向けた。
「……言いたくはないが、確かめないわけにもいかんだろう。ヨアン、お前も見たんだったな」
ヨアンの肩が、びくりと揺れた。手帳を抱えたまま、何度か唇を開きかけては閉じる。やがて、絞り出すように言った。
「……ティモが、夜中に寝床を抜け出していくのを、見ました。私の見張りの晩の夜に」
ティモの身体が、目に見えて縮こまった。胸元を押さえた手に、ぎゅっと力がこもる。
ディルクは腕を組んだまま、黙ってティモを見ていた。誰も声を荒げはしなかった。けれど、部屋の中の目という目が、少しずつ端の椅子へ寄っていくのが、千尋にははっきりと感じ取れた。
千尋も、ティモの方へ向き直った。
「ティモさん。あの夜、どこにいましたか」
問い詰めるつもりのない、静かな声だった。ティモは顔を上げかけて、また伏せた。口が動いたが、声にならない。
「ティモ」
ガルドが身を乗り出し、諭すように言った。
「正直に言った方がいい。今ならまだ……」
ティモの肩が、小刻みに震え始めた。膝の上で握りしめていた拳がほどけ、さっきからずっと押さえていた胸元へ入っていく。取り出されたのは、二つに折った紙だった。ティモは震える手でそれを机の上に置き、ようやく顔を上げた。
「……これ、です」
ディルクが紙を引き寄せて広げた。品物の名前と、その横に数字が並んでいる。一番下には店の印らしいものが押してあった。
「夜に、一人で、薬草を取ってました」
ティモの声はかすれていたが、一度口を開くと、止まらなかった。
「森の、夜にしか取れないやつです。昼間に採れるものなら、皆で採ってる時にこっそり籠に入れればいい。でもあれは夜にしか咲かないから……抜け出すしかなかったんです。それを皆の分に入れないで、自分で売りました。家の者の薬を買うのに、どうしてもお金が要って……
言葉が途切れ、ティモは唇を嚙んだ。
「なくなった素材も、魔核も、そこには一つも書いてありません。俺が売ったのはその薬草だけです。森特有のものだから、値をつけるのに何日もかかるって言われて……今朝やっと受け取ってきたところで」
だから遅れたのだ、とは、ティモは言わなかった。言わなくても、部屋の誰もが分かった。
「《三つ釜の店》……ヘルガの婆さんのところか」
紙の下の印を見て、ディルクが言った。
「あそこなら帳面も残ってる。誰から何をいくらで買ったか、全部な。すぐに調べが付く」
ティモは小さく頷き、それから、力なく笑ったような顔をした。
「ヘルガさんにも、夜の森に一人で入るなんて、って、こっぴどく叱られました。死にたいのかって」
「……叱ってくれる人がいて、よかったですね」
真琴が静かに言った。ティモは驚いたように真琴を見て、それから、くしゃりと顔をゆがめてうつむいた。張り詰めていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ヨアンは手帳を開いていた。紙の上に指を這わせ、頁をめくり、また戻る。その指が、ある頁で止まった。
「……違う」
ヨアンの声が震えた。
「ティモが抜け出したのは、私の晩の夜だ。素材がなくなっていたのは……日が違う。一度も重なってない」
ヨアンは手帳を閉じ、ティモの方へ向き直った。
「すまなかった、ティモ。私はお前を……」
「いえ……俺が、規則を破ってたのは本当ですから」
ティモは首を振った。ヨアンはそれでも、もう一度深く頭を下げた。
そして、部屋が静かになった。
誰もが同じことに気が付いたのだと思う。ティモでないなら、では誰なのか。その問いだけが、部屋の真ん中にぶら下がっているようだった。
「ヨアンさん、確かめさせてください。足跡が最初に出た朝の、前の晩。見張りに立っていたのは、どなたでしたか」
ヨアンは手帳を開き、指で行を辿った。
「……ガルドさん」
「二度目に素材が消えた朝の、前の晩は」
「……ガルド」
「荷を漁る人が出た、最後の夜は」
ヨアンの指が、最後の頁の上で止まった。顔から、すっと血の気が引いていく。
「……全部、ガルドだ。なんでこのことに気が付かなかったんだ」
ヨアンは手帳を見下ろしたまま、かすれた声で言った。毎晩、自分の手で書き添えてきた名前だった。千尋に言われた夜の頁を、何度も見直す。前へ戻っても、先へ送っても、そこに並んでいるのは自分の字で書いた同じ名前だった。自分で書いたものを、いまさら見間違いだとは言えなかった。
「気が付けなくて、当然だと思います」
千尋は、静かに言った。
「同じ火を囲んで、同じものを食べて、森で背中を預け合ってきた仲間です。疑う理由が、何処にもありませんから。そこへ、ティモの行動も重なって、見えなくなってしまったのでしょう……それに、ヨアンさんが毎晩の順番まで残していてくださらなければ、私たちにも分かりませんでした」
ヨアンは何も答えなかった。ただ、手帳を握る指に力がこもった。ガルドは、表情を変えなかった。組んでいた手をほどき、背もたれに体を戻す。
「見張りの順番を決めていたのは俺だ。俺の晩が多くて当然だろう。夜の一番きつい時は、年かさの年長者が引き受けるもんだ」
その答えには、迷いがなかった。言われてみれば、もっともな話でもあった。ヨアンが何か言いかけて、口をつぐむ。
「……ガルドさん」
真琴が口を開いた。座ったまま、まっすぐガルドの腰あたりを見ている。
「その腰のもの、見せてもらっていいですか」
ガルドの目が、初めて真琴の方へ動いた。部屋の視線が、つられるようにガルドの腰へ集まる。乾いた灰色の毛と、黒ずんだ爪。ティモが、不思議そうに真琴とその前足とを見比べた。なぜ今それなのか、分からないという顔だった。
ガルドは腰の前足に手をやり、紐の上からそれを軽く押さえた。
「魔除けだ。灰牙狼の脚を提げてる奴なんて、村にはいくらでもいる」
口調は落ち着いていた。真琴はそれ以上何も言わず、隣の千尋を見た。千尋は小さく頷いた。
「足跡のことで、ひとつ、まだお話していないことがあります」
千尋は、ヨアンの方へ向き直った。
「ヨアンさん、森で、灰牙狼の足跡はたくさん見てこられたと思います。走った跡、立ち止まった跡、獲物に飛び掛かった跡。その中に、全く同じものはありましたか」
ヨアンは戸惑ったように瞬きをした。それから、採取人として長く森を歩いてきた人間の顔になって、ゆっくりと首を振った。
「……ない。踏み込めば足が開くし、ぬかるみなら爪が深く沈む。走っていれば前の方ばかり深くなる。同じ獣の脚でも、一歩ごとに形が違う」
「生きてる獣の足跡が全部同じなんてことは、まずない」
ディルクが、低く言い添えた。元探索者の言葉だった。
千尋は、ゆっくりと口を開いた。
「沢の足跡は、全部同じ形でした」
部屋の中が、しんと静まった。
「指の開き方も、爪の食い込む位置も、深さも。亡くなった方の周りをぐるりと囲んでいた足跡は、ひとつ残らず同じでした。まるで、同じ判を何度も押したように」
ヨアンの口が、わずかに開いた。ティモが、はっとしたように顔を上げる。その目が、ゆっくりと、ガルドの腰へ向かっていた。
「乾かした脚は、指が開かないんです」
真琴が言った。
「森で灰牙狼を何頭か解体したから知っています。生きてる脚は、体重がかかるとぐっと指が開く。でも乾いた脚は、何処に押し付けても、ずっと同じ形のまま。……それに、その足、普通の灰牙狼より大きいですよね。ディルクさんの言った、群れの長ぐらい。
真琴は千尋を見た。
「それから、もう生きていない脚なら、千尋の言っていた気配も残らないと思う」
千尋は、ガルドの腰の前足へ意識を向けた。そこにはあの森の戦闘跡に残っていたような荒々しいものは、何も感じられなかった。
「……うん。生き物が自分で動いた跡じゃないなら、残らなくてもおかしくない」
気配のない足跡。灰牙狼より大きな脚。判で押したように同じ形。さっきまでばらばらに並べられていた話が、たった一つのものの上で、静かに重なっていった。ヨアンもティモも、ディルクも、腰から下がったお守りから目が離せなくなっていた。
ちゃんと見てから言う。森で真琴はそう言った。今、真琴はちゃんと見ていた。
ガルドの手が、腰の前足の上で止まっていた。押さえた指の節が、白くなっている。
「……そんなもの、何の証拠になる」
声は低く、さっきまでの穏やかさが、わずかに削れていた。
「足跡がたまたまそろっただけかもしれん。お前さんたちの話は、全部、そう見える、ってだけのことだろう」
それも間違いではなかった。どれほど筋が通っていても、ここまでに出てきたものは、まだ、そう考えれば説明がつく、というだけのことだ。千尋は、バッグの肩紐にかけた手を、そこから動かさなかった。
「ガルドさん」
千尋はまっすぐガルドを見た。
「今ならまだ間に合います。お願いだから、ご自分の口から話してください」
ガルドは答えなかった。
「ガルド」
ディルクが、低く言った。
「……俺からも頼む」
短い言葉だった。ガルドの目が、一瞬だけディルクの方へ動いた。けれど、すぐに戻った。
「話すことなんて、何もない」
千尋は、ゆっくりと息を吐いた。
バッグの一番奥へ手を入れ、二重にくるんだ包みを取り出す。外側の布を解き、油の染みた布ごと、机の上へ置いた。
「なくなっていた方の靴の中に、これがありました」
布を開き、二つ折りの紙を広げる。一番上の宛名が、全員の目に入った。
『ベネトへ』
「…ベネト」
ヨアンが、その名前を小さく繰り返した。ずっと盗人とだけ呼ばれていた男の名前だった。ガルドは、紙を見なかった。
「差出人の名前は、書いてありません」
千尋は言った。
「ただ、自分が見張りに立つ夜、焚き火に生木をくべて煙を上げるから、それを見たら来い、とあります。物は野営地のはずれの倒木の陰に出しておく、と」
ヨアンが手帳を開いた。手紙と頁とを、何度も見比べる。素材が消えた朝。その前の晩の見張り。手紙の言う、見張りに立つ夜。どれもきれいに重なっていた。
それから、ヨアンの目が手紙の文字そのものに止まった。右肩の上がった、角ばった、癖の強い字。三人で森を出るたび、ヨアンはこの字を見ながら帳面をつけてきたのだ。
「……ガルドの字だ」
ヨアンの声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
ディルクは何も言わなかった。昨日、この手紙を読んだ時と同じ顔で、ただガルドを見ていた。
ガルドは長いこと黙っていた。やがて、目を閉じ、深く深く息を吐いた。腰の前脚を押さえていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……最初は、ほんの少しのつもりだった」
まるで、他人の話でもするような声だった。
採ったものを、少しずつ抜いて、ベネトに渡す。ベネトがそれを遠くの街で売り、金を分ける。獣に盗まれたことにすれば、誰も深くは調べない。何度か、うまくいった。
「あいつは、分け前を変えろと言ってきた。でなきゃ全部ばらす、とな。……あの夜、言い合いになって」
ガルドはそこで言葉を切り、膝の上の手を見下ろした。
「殺した」
ティモが、息を呑む音が聞こえた。
「埋める暇なんかなかった。叫び声でヨアンが起きてるはずだと思ったからな。……それに、盗人が死んでくれりゃ、消えたものの行方も、それで全部片が付く。きれいになくなってるより、このほうがいいだろうと思ったのさ。
ヨアンの肩が、小さく震えた。あの夜、叫び声で飛び起きた自分の元へ、しばらくしてガルドが戻ってきたのだ。見知らぬ男が荷を漁っていたから、怒鳴りつけて追い払った。逃げた男を追いかけたが、闇の向こうで獣に襲われたようだった。ガルドはそう言い、ヨアンはその言葉を疑いもせずに、手帳へ書きつけた。
夜が明けてから、三人で沢へ降り、倒れている男を見つけた時も、灰牙狼だといったのはガルドだった。
「だから、こいつで足跡をつけて回った。背中の傷も、こいつの爪だ」
ガルドは腰の紐をほどき、乾いた前脚を机の上へ置いた。それから、端の椅子の方へ、本のわずかだけ目を向けた。
「ティモが夜に抜けているのは、前から知ってた。……ちょうどいいと思った」
ティモは何も言わなかった。言えなかったのだろう。ヨアンが、手帳を抱えたまま顔を覆った。
ディルクが立ち上がった。
「行くぞ、ガルド」
ガルドは逆らわなかった。ゆっくりと立ち上がり、扉の方へ向かう。その背中は、来た時と同じようにまっすぐだったが、一回り小さく見えた。ディルクは机の上の手紙と前脚を布で包み、脇に抱えた。
「ベネトを……」
ヨアンが顔を上げた。
「ベネトを、ちゃんと埋めてやりたいんです」
「ああ、人をやる」
ディルクは扉の手前で振り返り、千尋と真琴の方を見た。
「こいつらが縄を結んで、道順まで置いてってくれた。迷わずに行ける」
千尋は黙って頭を下げた。ティモがおずおずと頭を上げ、ディルクを見る。
「あの、俺は……」
「規則破りは規則破りだ。だが、それはまた別の話だ」
ディルクはそれだけ言って、ガルドを連れて部屋を出ていった。足音が遠ざかり、やがて表の扉の開く音がした。治安官のところへ向かったのだろう。話の続きは、またあちらで、改めて聞かれることになる。
残された部屋で、ヨアンが立ち上がり、二人の前で深く頭を下げた。ティモも慌ててそれに倣った。何を言えばいいのか分からない。千尋も何を言えばいいのか分からなかった。だから、黙って頭を下げ返した。
宿に戻ったのは、日がずいぶん傾いてからだった。
ヨアンとティモを見送り、ミナに声を掛けられて、協会を出て、広場を抜けて。どの道をどう歩いてきたのか、千尋はよく覚えていない。ただ、軒先に大きな鹿の角が掛かっているのを見上げた時、ああ、ここだった、と思った。
昨日もこの角の下をくぐったはずだった。枝分かれした角は、夕日を受けて白っぽく光っている。扉を開けると、食堂の方から、煮込みののいい匂いと、焼けたパンの香ばしい匂いが流れてきた。卓をいくつも並べた広い部屋に、探索者らしい男たちが何人か座っていて、木の器のぶつかる音と、笑い声が聞こえる。奥の壁際には、濡れた外套がずらりと掛けられた部屋の入り口が見えた。こんな宿だったのか、と千尋は思った。
「おや、帰ってきたね」
奥から出てきたのは、大柄な女性だった。袖をまくり上げた腕は、千尋の腕より太いかもしれない。赤褐色の髪を頭の後ろで無造作にまとめていて、声は食堂の喧騒を軽々と越えて届いた。
「朝飯もそこそこに飛び出していくから、どうしたもんかと思ってたんだよ。……それにしても、あんたたち、その服で森を歩いてきたのかい?」
真琴が、あ、という顔をした。
「それ、昨日も言われた気がします」
「言ったよ。あんたら、うわの空で、肺はいって頷くばっかりだったじゃないか」
ベルタはからからと笑い、二人の背中をばんと叩いた。
「風呂は沸いてるよ。先に入ってきな。上がったら、飯にしよう」
風呂は、宿の奥にあった。石で囲った湯船に、なみなみと湯が貼ってある。湯に肩まで沈んだ瞬間、千尋の喉から、自分でも驚くほど長い息がこぼれた。十日以上、川の水で身体を拭うばかりだった。熱が、指先から、足の裏から、ゆっくりと体の中へ染み込んでくる。今日一日、ずっと肩のどこかに入っていた力が、湯の中へほどけていった。
食堂へ戻ると、真琴が先に卓についていた。洗った髪がまだ少し湿っていて、頬がほんのりと赤い。
「千尋、遅い。もう少しで先に食べるところだった」
「ごめんごめん、出られなくなってた」
「まぁ、分かる。私も危なかった」
ふふふ、と笑った真琴は久しぶりにゆったりとした眩しい笑顔だった。
ベルタが運んできたのは、大きな丸パンと、深い器になみなみと盛られた肉と根菜の煮込み、柔らかく煮た豆、それから湯気の立つお茶だった。
真琴が匙で煮込みをすくい、口へ運んだ。そして、そのまま止まった。
「……おいしい」
千尋も一口食べた。肉はほろりと崩れるほど柔らかく、根菜は甘く、塩気のきいた汁が舌の上にじんわりと広がった。パンをちぎって汁に浸すと、外側の硬い皮が、香ばしい匂いを立てた。
昨日も、同じものを食べたはずだった。それなのに、千尋は今、初めてこの味を知った気がした。
「昨日、これ食べてたんだね、私たち」
「食べてたね。……もったいないことしたな」
「ほんとにね」
二人は顔を見合わせて、それからしばらく、何も話さずに食べた。真琴は器の底に残った汁まで、パンで綺麗に拭い取った。ベルタが通りがかりにそれを見て、満足そうに鼻を鳴らし、何も言わずに二人の器へお代わりを注いでいった。
部屋へ上がり、扉を閉めると、ようやく二人きりになった。
小さな窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。通りの向こうの家々に、ぽつぽつと明かりが灯っている。千尋は寝台の端に腰を下ろし、そのまま後ろへ倒れ込んだ。天井の梁を見上げたまま、長く息を吐く。
「……終わったね」
「うん。終わった」
真琴が隣に腰を下ろし、千尋の顔を覗き込んだ。
「千尋、今日、一回も笑ってなかったよ」
「笑える場面、なかったでしょ」
「そうだけどさ」
真琴は千尋の頬を指先でつまんで、軽く引っ張った。千尋はされるがままになって、それから、ふっと笑った。協会でも広場でも見せなかった顔だった。目じりが下がり、口元がほどけて、ずっと張っていた何かが、そこでようやく緩んだ。
「お疲れさま、真琴。……今日の真琴、かっこよかったよ」
「でしょ?ちゃんと見てから言ったからね」
「うん。ちゃんと見てた」
真琴は満足そうに笑って、千尋の隣へごろりと横になった。肩と肩が触れる。窓の外から、どこかの家の笑い声と、食器を片付ける音が小さく聞こえてくる。
森の夜は、焚き火の爆ぜる音と、虫の声と、交代の見張りだった。ここには、人の暮らす音がある。風呂があって、温かいご飯があって、明日の朝もきっと、ベルタの大きな声がする。
ここで、暮らしていくのだ。
千尋は目を閉じた。今夜は、見張りに立たなくてよかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
最初の謎解きが、終わりました。
ここからしばらくは、魔法、剣、ギルド……異世界に慣れていきます。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




