↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
答えは、ふたりで〜四十歳夫婦、若返って異世界転生。クラフト&ミステリな暮らし〜  作者: 翠川しおり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/19

15.夫婦、対峙する

「そこにいるの、分かってるよ。……人、だよね? 出てきてくれる?」


 それは間違いなく日本語だった。


 頭の中で確認をして、思わず声が出そうな感情を抑えた。少し低めの、よく通る女性の声で、人、だよね、という語尾のわずかな上がり方まで、近所で道を尋ねられた時と何一つ変わらない。千尋は茂みの陰に膝をついたまま、しばらく息をするのを忘れていた。


 袖をつかんでいた真琴の指に、もう一段強く力がこもった。横を向くと、真琴は目を大きく見開いて千尋を見ている。今の聞こえたよね、とその目が言っていた。千尋は小さく頷いた。聞こえた。けれど、向こうの言葉が分かることと、こちらの言葉が向こうへ届くことは、また別の話だ。


 千尋は真琴の手をそっと袖から外し、あらためて手を握ってから、ゆっくりと立ち上がった。もう片方の手には何も持たず、手を身体の脇へ下ろしたまま、茂みを抜ける。木立の手前まで出たところで、女性の三角の耳がぴくりとこちらを向いた。籠を背負った男性は女性の半歩後ろに立ち、腰の刃物の柄に手を添えている。ただ、抜いてはいなかった。


「驚かせてしまって、すみません。人です。二人とも」


 口に出してから、千尋が自分の声が少しかすれていることに気が付いた。真琴以外の誰かに話しかけるのは、この世界に来て初めてだった。


 女性の眉が僅かに動き、強ばっていた肩が、ほんの少しだけ下がった。


「……うん、そうみたいだね」


 返ってきたその一言に、千尋は胸の奥に詰めていた息を、気づかれないようにそっと吐き出した。


 通じた。


 どういう仕組みなのかは分からない。手帳の文字を初めて読めた時と同じで、分からないまま、とにかく通じている。まだ半分は疑っていたし、考えたいことは山ほどあった。でも、今は通じたという事実だけで十分だった。


 背後で茂みが鳴り、真琴が隣に並んだ。槍は穂先を地面へ向け、肩に立てかけるようにして持っている。千尋を見上げた真琴の目はさっきとはまるで違う意味で見開かれていた。輝いている、と言ってもいい。声には出さず、唇だけがつうじた、と動いた。


 女性は二人を順に眺めてから、すん、と鼻を鳴らした。確かめるように、もう一度ゆっくりと空気を吸い込む。


「煙と血と……それから、いろんな草の匂い。服にも髪にも染みついてる。エド、この人たち、今朝森に入ってきた人じゃないよ。何日も中にいた匂いがする」

「何日も?本当か、リナ」


 エドと呼ばれた男性が、籠の肩紐を握ったまま目を丸くした。リナと呼ばれた女性は、黙って頷く。


「おいおい、それってつまり……閉拓の森の中から、歩いて出てきたってことか?」


 閉拓の森。初めて聞く名前だった。千尋は表情を変えないまま、その名前を頭の中で繰り返した。十日近く暮らしてきたあの森にも、ちゃんと名前があったのだ。


「どうやって……いや、それより、怪我は? 二人とも、どこもやられてないのか」


 何者だ、と問い詰められることを覚悟していた千尋は、少し拍子抜けした。エドの視線は二人の顔より先に、腕や足、泥のこびり付いた服の裾へ向かっている。リナも警戒を解ききってはいないものの、明らかに二人の身体を心配している顔をしていた。


「大きなけがはありません。妻が腕に引っかき傷を作ったくらいで」

「もう、ほとんど治ってるから大丈夫です」


 真琴が袖の上から左腕を軽く叩いてみせ、にこりと笑った。それから、ちょっと困ったように眉を下げてリナの方を向く。


「ごめんなさい。そんなに匂ってるかしら……。何日もまともにお風呂に入れてなくて……。水浴びはしてたんだけど、あんまり、近づかないほうがいいかも」


 リナの耳がぱたりと横へ倒れた。一拍遅れて、エドが吹き出す。


「いや、悪い意味じゃないって。こいつの鼻がよすぎるだけだ」

「こいつって言わないで~」


 リナはエドを横目でにらんだが、口の端は少し緩んでいた。木立の中の空気が、それで目に見えて柔らかくなった。


「神谷千尋と言います。こちらは、妻の真琴です」

「カミヤ……チヒロ?」

「神谷が家の名前で、千尋が名前です。私たちの国では、家名を先に言うので」

「へぇ、逆なのか。じゃあ、チヒロとマコトだな。俺はエド・ラーシュ。こっちはリナ・モル。二人ともルーゼ村で採取をやってる。樹液とか、薬草とか、茸とかな」


 エドはそう言いながら、背中の籠を軽くゆすって見せた。人懐っこい男らしく、名乗り終えるやいなや、身を乗り出してくる。


「で、どこから来たんだ?その服、この辺は見ない作りだな」

「ずいぶん……遠くからです」


 千尋は少しだけ言葉を選んだ。


「旅の途中で事故にあって、気が付いたら森の中にいました。荷物もほとんどなくしてしまって。それで、川沿いに人のいそうな方へ下ってきたところです」

「事故って、馬車でも転げ落ちたのか?」

「乗り物の事故でした。正直に言うと、どうしてあそこにいたのか、自分たちでもまだよく分かっていないんです」

「遠くって、どのあたり?」


 今度はリナだった。声は穏やかだったが、目はまっすぐ千尋の顔を見ている。


「国の名前を言っても、たぶん分からないと思います。地図があっても、指せるかどうか怪しいくらいで」

「そりゃ相当遠いな」


 エドが笑い、リナも、それ以上は聞いてこなかった。


 隣でやり取りを聞きながら、真琴は内心で舌を巻いていた。千尋は嘘を一つもついていない。遠くから来たのも、乗り物の事故も、なぜ森にいたのか分からないのも、全部本当のことだ。それでいて、言わなくていいことは何一つ口にしていないし、言い淀んで相手を不安にさせることもない。

 分からない事を分からないと素直に言われると、人はそれ以上踏み込みにくくなる。千尋はたぶん、それを分かったうえでやっている。会社で取引先と話していた時の千尋も、きっとこんな顔をしていたのだろう。


 惚れ直すって、こういうのを言うんだろうな。真琴はこっそりそう思って、口元が緩みそうになるのをこらえた。


「一つ、お聞きしてもいいですか」


 千尋が切り出した。


「森で迷った人が頼れるような場所は、村にありますか。森のことを取りまとめている組合のようなところがあれば、まずはそこで事情を話したいと思っているんですが」

「ああ、それなら探索者協会だな」


 エドはすぐに答えた。


「村の真ん中にある。ここは森側の端っこだから、ちょうど村を横切って反対側まで行くことになるけど」

「身元のことも、まずは協会に相談するのがいいと思う。森で迷った人を放っておくような人はいないよ、あそこは」

「それに最近、森で人が襲われたって話も聞くし……森から出てきたなら、なおさら顔を出しておいた方がいい」


ほんの一瞬、千尋と真琴の視線が交わった。真琴の目がわずかに細くなり、千尋は瞬きひとつでそれに応える。あの話は、協会で。言葉を交わすまでもなく、それで決まった。エドもリナも、何も気づいた様子はなかった。


「よし、俺たちが連れてってやるよ。今日の分はもう十分採ったし」

「エド、樹液の器、まだ半分しか溜まってないけど」

「明日また来りゃいいさ。こっちの方が大事だろ」


 リナは小さくため息をついたが、反対はしなかった。木の幹に当てていた器を外しに行くエドの背中を、何か言いたげに見送り、それから自分の袋の口を縛り始めた。

 後から聞いた話だが、二人は普通に話していたが、森から人が出てきたということは、村にとっては一大事で、村が出来てから初めての出来事だった。街道を旅する人は少なくなかったが、閉拓の森から怪我一つなく出てきた謎の人を案内しない、となったらこんなもったいない話はなかったと、興奮しながらエドが語った。


 二人が片付けをしている間、千尋と真琴は少し離れた木の陰で待っていた。エドとリナの背中がこちらを向いているのを確かめてから、真琴が千尋の袖を引き、声をひそめた。


「通じたね、千尋!普通に喋れてる!」

「うん、通じたね。ほっとしたよ」


 千尋の顔が、そこでようやく緩んだ。さっきまでの硬い表情が嘘のように、目じりが下がる。


「正直、最初の一言は心臓が口から出るかと思ったよ。噛まなくてよかった」

「いひひ、嚙んでたら面白かったのに」

「いやいや、真琴さんや。そこは頑張ったなと、褒めてほしい」


 真琴は笑いながら、千尋の腕を肘で軽く小突いた。リナの耳がこちらへ少し動いたのが見えて、二人は慌てて口を閉じた。


 森の中を歩いたのは、それからほんのわずかな間だった。エドが先に立ち、リナが最後尾につく。千尋と真琴はその間に挟まれる形になった。道は昨日までよりもさらに踏み固められていて、ところどころに刈り取った下草の束や、薪にするために切りそろえた枝が積んであった。


「チヒロたち、川はどのくらい下ってきたんだ?」


 前を向いたまま、エドが聞いた。


「古い野営地から、一日半ほどです」

「塩の岩のある、あそこか」


 エドの足が止まった。振り返った顔からは、さっきまでの軽さが消えている。


「あそこよりさらに奥にいたってことだよな。……あんたら、よく生きてたな」

「この森ね、村の裏からそのまま続いているんだけど」


 後ろからリナの声がした。


「ある程度奥へ入ると、急に魔物が強くなるの。線でも引いてあるみたいに、いきなり。どうしてそうなるのか、誰にも分からない。だから私たちは日が暮れる前に戻ってこられるあたりまでしか入らないし、あの野営地より先に行くのは、何人も組んで、何日もかけて準備した人たちだけ」

「探索者だって、腕に覚えのある連中が何人も組んで、ようやくってところだ。それを二人で、しかも奥から歩いてきたってんだからな」


 エドは首を振って、また歩き出した。


 千尋は黙ってその後に続きながら、森で過ごした日々を思い返していた。初めて灰牙狼とやり合った日のこと。槍を握る真琴の手が震えていたこと。あれがこの森の当たり前なのだと、ずっと思っていた。隣を見ると、真琴も同じようなことを考えていたらしい。

 二人が『森』だと思って暮らしていた場所は、村人たちにとってはただの『森』ではなく、入ることもためらわれる危険な地域であった。目が合うと、真琴は声を出さずに、うわぁ、という形に口を開けた。千尋は小さく肩をすくめて返した。


 森と村の境目は、拍子抜けするほどあっけなかった。木々の切れ目を一つ抜けると、急に空が広くなる。切り株の残る伐採地の向こうに、積み上げられた丸太と低い柵があり、その先に家々の屋根が並んでいた。


 石を積んだ土台の上に、板張りの壁。屋根は薄い木の板を重ねて葺いてあり、どの家からも細い煙が上がっている。開け放した戸口の奥から、何かを煮込む匂いが流れてきた。焼いたパンのような香ばしい香りも混じっている。どこかで鶏が鳴き、子供たちの笑い声が通りを駆け抜けていった。


「……ゲームの、最初の村みたい」


 真琴が、千尋にだけ聞こえる声でつぶやいた。千尋もちょうど同じことを思っていた。何度も画面越しに眺めてきた景色が、匂いと音と手触りをもって目の前に広がっている。森にいる間ずっと肩のどこかに入っていた力が、少しずつ抜けていくのが分かった。


 通りを行く村人たちは、二人に気付くと、たいてい一度は足を止めた。エドとリナが一緒だからか、近寄って来る者はいない。それでも、すれ違いざまに振り返る視線は幾つもあった。


 村の中ほどへ差し掛かったあたりで、千尋は井戸端に目を留めた。桶を手にした女性が、滑車の縄に手も触れないまま、指先で小さく円を描いている。それに合わせて、井戸の底からするすると上がってきた。女性は水の満ちた桶を受け取ると、何事もなかったように隣の女性とのおしゃべりに戻っていった。


その向かいの家の軒先では、腰の曲がった老人がかまどの前にしゃがみ込み、組んだ薪へ人差し指をむけていた。ぽっ、と指先に小さな火が灯り、乾いた薪へ移っていく。さらに先の材木置き場では、若い男が一抱えもある丸太を肩に担ぎあげていた。その腕周りが、うっすらと淡い光を帯びている。


 真琴の喉が小さく鳴った。わ、と声が出かかって、慌てて飲み込んだらしい。千尋も表情だけは動かさないように気を付けたが、内心は似たようなものだった。魔法がこの世界にあることは、自分の身をもって知っている。けれど、それが水汲みや火おこしで生活に溶け込んでいるのを目にするのは、もちろん初めてだった。


 二人の視線の先に気が付いたのか、リナが首を傾げた。


「珍しい?」

「私たちのいたところでは、こういう使い方はあまり見かけなかったので」


 千尋が答えると、リナはふうんと頷いた。


「だったら、協会で頼んでみるといいよ。魔法の手ほどきをしてもらえるし、そもそも適性があるかどうかも見てもらえるから」

「森の奥から二人で生きて出てきたんだ。何かしらはあるんじゃないか」


 エドは笑いながら言い添えた。


「あそこの責任者は、顔はおっかないけど面倒見はいい。最初はちょっとびびるかもしれないけどな」


 リナが肩にかけていた採取袋を担ぎ直すと、エドは何も言わずにその紐を取り、自分の籠の上へ載せた。


「自分で持てるけど」

「俺が持ってあげたかったの」


 リナはそれ以上何も言わなかった。袋を取り返そうともしない。ただ、リナのしっぽがふわふわといつもより揺れていた。


 真琴が、千尋の脇腹を指先でつついた。にまにましている。若いっていいわよね~と言わんばかりの表情。口に人差し指を当てて、余計なことを言わないように、という顔をして諫めた。


 通りが広くなり、やがて小さな広場に出た。その正面に、ひときわ大きな建物が建っている。一階は石造りで、二階は太い梁の見える木造り。大きく開いた両開きの扉の上には看板が掲げてあり、手帳や手紙と同じ文字で書かれたそれは、千尋の頭にもすんなりと入ってきた。


『探索者協会 ルーゼ村出張所』


「ここだ」


 エドが扉の前で足を止め、振り返った。

 千尋は二人に向き直り、きちんと頭を下げた。


「ここまで案内していただいて、本当に助かりました。ありがとうございます」


 顔を上げた千尋は、そこで、ほんの少しだけ笑った。


 目元がふっと和らぎ、口の端がわずかに上がる。それだけのことだった。けれど、ずっと硬いままだった顔に不意に浮かんだその笑みは、陽の光の下でやけにはっきりと映えた。エドの口が半開きのまま止まる。リナの耳がぴんと真上に立った。広場のざわめきの中で、そこだけ一拍、音が抜け落ちたようだった。


「……お、おう。いや、礼なんていいって」


 ようやくエドが言い、頭をかいた。リナは何か言いかけて、結局そのまま口を閉じた。


 真琴は千尋の斜め後ろで、その一部始終を眺めていた。愛想笑いだ。必要な時だけ出てくる、千尋のよそ行きの顔。それが相手にどう効くのかも、真琴はよく知っている。知ってはいるのだけど、それ、ここで使うんだ、と思わずにはいられなかった。真琴はほんの少しだけ唇を尖らせて、広場の方へ目を逸らした。


「中まで一緒に行くよ。説明するやつがいた方が早いだろ」


 気を取り直したエドが扉を押し開け、四人は建物の中へ入った。


 外の明るさに慣れた目には、中は少し薄暗く感じられた。正面には長い受付台があり、右手の壁一面に、紙が何枚も留められた掲示板が掛かっている。奥の卓では皮の胸当てをつけた男たちが何人か話し込んでいたが、扉の開く音に一斉にこちらを向いた。その視線が、エドとリナを素通りして、後ろの二人の上で止まる。


「ディルクさん、いるか!」


 エドが受付台の向こうへ声を張り上げた。


 少しの間を置いて、奥の扉が開いた。出てきたのは、中背の、がっしりとした体つきの男だった。短く刈った茶色の髪に、無精ひげがうっすらと浮いている。左の眉を一本の古い傷が斜めに横切っていて、それが元から険しい顔つきを、いっそう怖そうに見せていた。


 男はエドとリナに軽く目をやり、それから、二人の後ろに立つ千尋と真琴を、頭のてっぺんから足元までゆっくりと眺めた。泥のこびりついた見慣れない服。真琴の肩の槍。そして、もう一度二人の顔へ。


「エドか。……で、そっちの二人は」


 低く、ぶっきらぼうな声だった。けれど、不思議と相手を威圧する響きはなかった。男は受付台の前まで出てくると、千尋と真琴の正面で足を止めた。


「探索者協会ルーゼ村出張所、責任者のディルク・ハインだ」


ここまでお読みいただきありがとうございます。


探索者協会!登録したい!!


楽しんでいただけたら幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。