14.夫婦、森を出る
九日目の朝、空が白み始めるのと同時に、二人は《安息の小屋》を出た。荷物は昨日のうちにまとめてある。干し肉と、沸かして冷ましておいた水と、縄と布。手帳と布にくるんだ手紙は、千尋がバッグの一番奥へ収めた。
炊事場の火が消えているのを確かめてから、真琴が戸を閉める。数歩進んだところで、二人はどちらからともなく振り返った。朝靄の中に、小さな小屋と、その脇に張り出した炊事場の屋根がぼんやりと浮かんでいる。最初の夜を過ごした草地には、何もなかったのだ。
「いってきます、だね」
「うん、留守番、よろしくって感じかな」
「持ち家を置いて出かけるのって、ちょっと心配になるね」
「空き巣が来るような場所じゃないから、大丈夫だと思うよ」
真琴は笑って前を向いた。千尋はもう一度だけ屋根の線を目に収めてから、その後に続いた。
川沿いの古い野営地までは、本当にすぐだった。もう何度も通った道だ。石の並んだ焚き火跡と、鉄釜を掘り出した穴の名残。白い筋の走った岩壁には、今朝も獣が舐めに来た跡が湿って光っている。水音は、いつもと同じように流れていた。
足を止めずに通り過ぎようとして、千尋は一瞬だけ岩壁の方へ目をやった。塩の岩のある古い野営地へは下りるな。靴の底から出てきた紙の、右肩の上がった角ばった字が、頭の中にそのまま浮かぶ。村のものが必ず通る道だから、と書いてあった。そして今、二人はまさにその道を、村へ向かって下ろうとしている。
隣を見ると、真琴も岩壁を見ていた。目が合ったが、どちらも何も言わなかった。続きは村についてから。そう決めたのは、二人だ。
野営地の川下側へ回り込むと、低い枝の先に、見覚えのある切り口があった。釜を見つけた翌日に真琴が見つけたのと同じ、刃物で落としたような平らな断面だ。あの日は森の奥へ向かう方ばかりを追いかけていたが、同じ印は川下の方へも、間を置いて点々と続いていた。
「行きの印と、帰りの印ってところかな」
「たぶんね。村の人が行き来してるなら、両方についてるはずだから、これを辿っていこう」
川に沿って下るにつれ、森は少しづつ表情を変えていった。小屋の周りでは見上げても梢の端が分からないほどだった巨木が、いつの間にか一本、また一本と木々の間か広くなり、その隙間を若い気が埋めるようになる。頭上をふさいでいた枝葉に切れ目ができ、地面まで届く光が増えた。足元の下草は低く、明るい色をしている。昼を過ぎるころには、踏み跡ははっきりと獣道とは違うものになっていた。根の張った段差に足を掛けやすいように土が削られ、ぬかるみには細い横木が渡してある。道の脇には、古い切り株がいくつも並んでいた。斧を入れた後の残る倒木もある。誰かがここで木材を調達し、また来るつもりで道を手入れしているのだ。
「なんか、歩きやすくなってきたね」
「うん、人の世界に近づいてる感じがするね」
途中、獣の気配がなかったわけではない。けれど、どれも足を止めるほどのことにはならなかった。千尋が先に気配を拾い、真琴がさりげなく前へ出る。川向こうの茂みから灰牙狼が二頭、こちらの様子をうかがっていたこともあったが、真琴が槍の穂先を向けたまま正面に立ち、千尋がその半歩後ろで構えると、しばらく睨み合った末に、向こうから森の奥へ退いていった。
道の真ん中で角ウサギが一匹、頑として動かなかった時には、二人で回り道をした。四日目には槍を握る手が震えた獣も、今はどう動くかが少しは読める。視界の端に出したままの《体力》の表示も、戦わない限り大きく減ることはなかった。森で過ごした日々は、確かに二人の身についていた。
日が傾き始めたところで、二人は皮から少し離れた岩陰を今夜の寝場所に決めた。張り出した岩が背中を守り、正面は開けていて見通しがきく。千尋が火を熾し、真琴が干し肉を炙る。小屋のない夜だ。《安息の小屋》のような守りはないから、見張りはいつも以上にしっかり交代でやることになる。
食事を終えて、最初に見張りに立つ前に、千尋は火の前で姿勢を直した。
「明日には、たぶん人に会うと思う。だから、その前に話をそろえておきたいんだ」
「口裏合わせってやつね、いひひ。なんか悪いことしてるみたい」
「嘘をつくための相談じゃないよ。むしろ、嘘をできるだけつかないための相談」
千尋は指を折りながら、一つずつ並べた。遠くから来た。事故にあった。気が付いたら森の中にいた。荷物はほとんどなくした。
「全部、本当のことだよね」
「本当のことだけど、全部じゃないってところかな。言わないでおくことはあっても、無いことを作らないようにしたいんだ。作った話は、どこかで辻褄が合わなくなるから」
真琴は膝を抱えたまま頷いた。
「死んで若返って生まれ変わりました、とは言えないもんね」
「言ったら、たぶん別の意味で心配されると思う」
「こりゃあ、頭打ったなって」
「それで済めばいいけどね。あと、スマホも人前では出さないでおこう。説明できないものを見せると、話が全部そっちへ持ってかれちゃいそうだから。《双創》のことも同じ。作ったものについて聞かれたら、俺が作ったとか、二人で直したとか、そのくらいで」
「二人で作ったのは本当だしね」
「そう、嘘じゃない」
薪が爆ぜて、真琴が火の中へ視線を落とした。
「名前は?」
「そのままでいいと思う。神谷千尋と神谷真琴。苗字が先ってことが通じなかったら、その時に説明すればいいよ」
「私たちの国では、家名が先でって?」
「うん、そうだね。結局、身についてる言い方をついしちゃうだろうしさ」
真琴は納得したように頷いていた。それから、少し声を落として言った。
「……ベネトさんは、どうするの?」
「話すよ。ちゃんと見つけた場所まで案内できるようにしておく。写真は見せられないから、小屋からの方角と、野営跡から沢まで下りた歩数と、沢の形と、目印に結んだ縄の位置。全部、頭に入れておくつもり」
千尋は胸のポケットへ手を当てた。どのみち、画面をつけられる回数はもうそれほど残っていない。昼間の歩きの合間にも、一度だけメモを開いて、覚えたことと照らし合わせておいた。
「手紙は、ちゃんとした立場の人に渡したいんだ。最初にあった人にいきなり見せるのは、やめておこうと思って。誰に渡すのがいいのか、それが分かってからにしよう」
「うん、それがいいと思う。ベネトさんが靴に隠してまで持ってたんだし」
話すべきことは、それで全部だった。千尋が立ち上がりかけたところで、真琴が焚き火を見つめたまま、ぽつりと言った。
「ねぇ、千尋。私ね、なんか、楽しみになってきた」
「楽しみ?」
思わず聞き返すと、真琴は顔を上げてにっと笑った。
「昨日までは、言葉通じなかったらどうしようって、ずっと思ってたんだけどさ。考えてたって分からないものは分からないじゃない?通じなかったら、身振り手振りで頑張ればいいし、通じたらラッキー。どっちにしても、会ってみないと始まらないでしょ?」
「昨日は異世界語講座とか言ってなかった?」
「言ったのは千尋じゃん。でも、もう開き直ったの。この世界の人、どんな格好してるんだろうね。何を食べてるのかな?村ってどのくらいの大きさなんだろう?」
声が弾んでいる。森へ来てから、真琴がこんな顔で『人』の話をするのは初めてだった。腹をくくった時の真琴は、いつもこうだ。迷っている間は結構ぐずぐずしてるくせに、一度決めてしまえば、千尋よりずっと先へ踏み出していく。
「俺は、まだちょっと緊張してるけどね」
「千尋が?」
「最初の一言、なんて言おうか、ずっと考えてる」
「そういうの考えすぎると……噛むよ」
「なにそれ、フラグ?」
「じゃあ、私が挨拶しようか」
「まぁ、その辺は自然の流れでね。勢いで進めるのは危険だけど、決めすぎるのは不自然かも」
「OK、様子を見てね。基本的には千尋に任せるよ」
真琴は素直に頷いて、岩陰に敷いた布の上へ横になった。千尋は火の明かりが届くぎりぎりのところへ腰を下ろし、暗い森の方へ目を向けた。川の音に混じって、虫の声が細く続いている。明日の今頃は、どこにいるのだろう。そう考えると、緊張とは少し違うものが、胸の奥でかすかに動いた。
十日目の朝はよく晴れていた。
夜のうちに何事もなかったことを確かめ合い、火の始末をして、二人はまた川沿いの道を下った。道幅は昨日よりも更に広くなり、ところどころに、刈り取られた草の束が置き去りにされている。新しい切り株もあった。断面の色がまだ白い。
日が高くなりかけた頃、前を歩いていた真琴が、不意に足を止めた。片手をあげて、千尋を制する。耳を澄ますと、木々の向こうから、声が聞こえてきた。男の声だ。何かを言って、短く笑う。少しの間を置いて、もう一つ、低めの女の声が応じた。距離があるせいで、言葉までは聞き取れない。
二人は顔を見合わせた。昨日決めたとおり、すぐには出ていかない。道から外れて、背の高い茂みの影へそっと身を沈める。葉の隙間から、声のする方をうかがった。
少し開けた木立の中に、二人の人影があった。一人は、背中に大きな籠を背負った男性だった。日に焼けた顔に短い髪、腰には刃物を下げている。木の幹に刻みを入れ、その下に小さな器を当てていた。もう一人は男から少し離れた木の根元にしゃがみ込み、何かを摘み取っては腰の袋へ入れている女性だった。
真琴の指が、千尋の袖をキュッと掴んだ。
女性の頭の上に、耳があった。人の耳がある場所ではない。髪の間から、髪と同じ色の毛におおわれた三角の耳が二つ、ピンと立っている。いわゆる犬の耳によく似ていた。
千尋は息をつめたまま、その耳が小さく動くのを見ていた。耳だけではない、女性は手を止め、わずかに顔を上げた。鼻先が、空気を探るように動く。
千尋は、頬に当たる風の向きに気が付いた。背中から、前へ。二人のいる茂みから、あの木立の方へと吹いている。
女性がゆっくりと立ち上がった。こちらを見ている。茂みのちょうど二人がいるあたりを、まっすぐに。声を上げるでもなく、慌てるでもなく、女性は男性の腕にそっと手を置いた。男性が振り返り、女性の視線を追って、籠を背負ったままの身体の向きを変える。
真琴が、千尋を見た。千尋も、真琴を見た。先に気付いたのは向こうだった。
女性が一歩、こちらへ踏み出した。腰の刃物には手を掛けていない。けれど、いつでも退けるように、重心を後ろへ残している。そして、茂みに向かって声を掛けてきた。
「そこにいるの、分かってるよ。……人、だよね?出てきてくれる?」
その言葉は、はっきりと、日本語に聞こえた。
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