13.夫婦、話し合う
真琴の口から細く吐き出された息が、焚き火の熱に紛れて消えた。千尋がスマホを膝の上へ伏せると、真琴は抱えていた膝をほどき、左の袖を肘までまくり上げた。火の明かりの中に、三本の白い線がうっすらと浮かぶ。
「私の気付いたことはさ、こういうことなの」
真琴は右手の指を三本揃え、腕の線から少し浮かせたまま、その上をなぞってみせた。手首の側からひじの方へ、斜めに流れていく。
「飛んできた勢いのまま引っかかれたから、三本とも同じ方へ流れてるでしょ。真ん中のだけちょっと深くて、端の方は途中でかすれてる。爪って、たぶんこういう風に当たるんだと思う。私の腕だって、逃げようとして動いていたし」
「うん、そうだね」
「でも、あの人のは違った。間隔も深さも揃ってて、三本とも最初から最後まで同じ太さで、まっすぐ平行。背中だよ?逃げてる人の背中に、あんなにきれいに入るかな。なんか……上から、なぞったみたいだった」
昼間、沢のほとりで真琴が言いかけて、言葉にできなかったもの。全部ではなさそうだったが、ようやく形になったようだった。千尋は伏せていたスマホを起こし、メモを上まで戻した。
「俺の方は、これ」
画面の文字を目で追いながら、千尋はひとつずつ読み上げた。
「足跡の上にも、あの人の周りにも、魔力の気配がなかった。戦闘跡の方は、三日経っても濃く残ってたのにね。それから足跡。指の開き方も、爪の食い込む位置も、どれも同じ形だった」
「同じこと考えてるって、そういうことだよね」
「うん、そう」
頷きかけて、千尋は少し間を置いた。焚き火に薪を一本足し、炎が落ち着くのを待ってから、もう一度口を開く。
「ただね、気配がないってことだけで、獣はないって決めちゃうのはやめておきたいんだ。俺が見たことあるのって、灰牙狼の跡と、自分の後だけでしょ?手帳にあった、灰牙狼より大きい奴が本当にいたとして、そいつの痕跡が同じように残るかどうかなんて、正直分からない。残らない獣だって、いるかもしれないし」
「……あ、そっか。比べるもの、まだ二つしかないんだ」
「そう。だから気配のことは、いったん脇に置いておこうと思って」
千尋はメモの続きへ指を滑らせた。
「それ以外で、見たことだけを並べてみるね。足跡が全部同じ形。真琴の言う、爪跡が揃いすぎている。それに、あの人、獣に荒らされてなかったよね。三日も経ってるのに、食べられた跡も、引きずられた跡もない。人を襲った獣が、そのまま何もしないで立ち去るって、あるのかなって。で、最後に手帳の『遠吠えは聞こえなかった』」
「ヨアンさん、わざわざ書き足してたもんね」
「一つずつなら、たまたまってこともあると思う。でも、四つ重なると……」
千尋はそこで、言葉を選ぶように少し黙った。
「本物の獣がやったって考えるより、誰かが獣の仕業に見せたって考えた方が、無理がない気がする」
真琴は黙って頷いた。口に出してしまうと、焚き火のまわりの空気がわずかに重くなったように感じられた。誰か、と言ったその先を、千尋は続けなかった。真琴も聞かなかった。そこから先は、今の二人が結論として口にしていいことではない気がする。
真琴は袖を下ろさないまま、腕の三本線をぼんやりと見つめていた。
「全部、同じ形……」
独り言のように小さく繰り返し、そのまま焚き火の奥へ視線を移す。何かを辿っているような目だった。しばらくして、真琴の唇がわずかに開いた。けれど、声は出てこなかった。もう一度口を結び、ゆっくりと息を吐く。強ばっていた横顔が、少しずつほどけていった。何かを思いついて、それを飲み込んだ顔だった。
「……真琴?」
「ううん、なんでもない」
真琴は首を振ってから、少し考えて言い直した。
「なんでもなくは、ないかも。でも、ちゃんと見てから言う。見てないものの話をすると、たぶん間違えるから」
「分かった。言えるようになったら、その時に聞かせて」
千尋はそれ以上聞かなかった。灰牙狼の前では誰よりも早く槍を突き出すくせに、こういう話になると、真琴は二人の中で一番慎重になる。決めつけた一言がどれだけ人を傷つけるかを、たぶん千尋よりよく知っているのだ。
千尋は画面をもう少し下へ送った。手帳から書き写した日付と、その夜ごとの見張りの順番が並んでいる。
「あとは、これも情報として並べておくべきだよね。足跡が最初に出た朝、その前の晩に見張りに立ってたのはガルドさん。荷を漁る人が出たっていう最後の夜も、見張りはガルドさん。ティモさんが寝床を抜け出したのは、ヨアンさんの番の夜」
真琴は火を見つめたまま、黙って聞いていた。
「重なってる、ってことだけ覚えておこう。今は、それ以上は考えないでおきたいんだ」
「うん、会ったこともない人たちだもんね」
「俺たちが知ってるのは、ヨアンさんが書いたことだけだからね。ヨアンさんだって、全部見てたわけじゃないし」
薪が崩れ、小さな火の粉が舞った。真琴は膝を抱えなおし、夜の森の方へ目をやった。
「結局さ、最後に戻ってくるのはそこなんだよね。ヨアンさんが最後に書いてたこと。あの人、本当に盗賊だったのかって」
「うん。あの人が誰なのか分かれば、少しは見えてくるものもあると思うんだけどね」
「でも、持ち物には触らないって決めたもんね」
「そうなんだよね……」
千尋が困ったように眉を下げると、真琴はしばらく黙っていたが、やがて、何かを思い出したように顔を上げた。
「うふふ、そういえば……。前にやったゲームで、被害者の靴の中から鍵が出てきた話があったのさ」
「靴の中から?俺がやったことないってことはシングルプレイのゲームか」
「そうそう、てことはよ。手掛かりってね、靴の中にあるものなんだよ」
真琴はそう言って、にやりと笑った。さっきまでの張りつめた空気が、少しだけほどける。千尋は思わず吹き出しかけて、呆れたように首を振った。
「ゲームの話だよね、それって」
「ゲームの話です。でも、この世界がどの時代かは分からないけど、大事な物を隠す場所にするのはありだと思わない?」
冗談めかした口ぶりだったが、千尋は笑ったまま、気づけば本気で考え始めていた。懐や荷物なら、あの夜の後に誰かがもう探っているかもしれない。けれど、靴となると話は別だ。わざわざ脱がせてまで中を確かめる人は、そう多くないだろう。
「……靴は、確かに見てないね」
「んでしょ?」
「それに、あの人は盗賊ってことになってるんだよね。村の人が見に来たとしても、きちんと調べてもらえるとは限らない。雨が降ったり、獣が来たりしたら、靴の中の物なんて、簡単にダメになるし」
千尋は焚き火の向こうの暗がりへ目をやった。昨日、二人で決めたことを覆すことになる。けれど、触る前と後をきちんと写真に残し、元通りに戻すなら、何も確かめずに失われるよりはずっといい気がした。
「明日の朝、もう一回だけ沢へ行こうか。触る前の様子を撮って、確かめたら元に戻す。それでどうかな」
「うん、それがいい。今からはさすがに行けないしね」
「夜の沢は、俺はごめんだよ」
「私だっていやだよ~」
真琴は笑って立ち上がり、最初の見張りに立つために小屋の前に移った。千尋は火を少し落とし、スマホの画面を消した。バッテリーの残りは、もう心もとない数字になっていた。
八日目の朝は、前の日より霧が薄かった。
縄の目印を辿り、川沿いの古い野営跡を過ぎ、崩れた橋の残骸を越える。今日は戦闘跡へは寄らなかったから、遺跡の裏手へ回り込む頃になっても、日はまだ低かった。野営跡は昨日と同じ様子で、二人はそこで足を止めずに、斜面を沢へと下った。
岸辺の木に結んだ縄は、昨日のまま垂れ下がっていた。布も、四隅を押さえた石も動いていない。二人はその前に立ち、どちらともなく手を合わせた。
「ごめんなさい、少しだけ触らせてもらいますね」
真琴が小さな声でそう言った。千尋は少し離れた位置から布をかけたままの様子を撮り、それから二人で石をどけて、布を足元の方だけそっとめくった。男の足が出てくる。泥の乾いた、使い込まれた皮の靴だった。その姿も、角度を変えて何枚か写真に収める。
「言い出したの私だから、私がやるね」
「うん、お願い。手は直接じゃなくて、これで」
千尋が予備に持ってきた布を差し出すと、真琴はそれを手に巻きつけて、男の足元にしゃがみ込んだ。紐を緩め、まず右の靴をゆっくりと外す。中を覗き込み、手を差し入れて底を探る。しばらくして、真琴は首を振った。
「こっちは、なにもない」
靴を元の向きに戻してから、左に移る。同じように紐をほどき、慎重に外して、底へ指を這わせた。真琴の手が止まった。
「……千尋」
真琴が布ごと指を引き抜くと、その先に平たいものが挟まっていた。靴の底に押し込まれていたせいで、すっかり潰れている。油を染み込ませた布で、何重にも包んであった。濡れないように、という念の入れ方だった。
千尋はその場で包みを開かず、まず靴を元の通りに履かせて結びなおした。真琴と二人で布を戻し、石を元の位置へ置く。最後に、触る前と同じ角度から、もう一度写真を撮った。並べて見比べても、違いは分からなかった。
少し離れた乾いた岩の上で、千尋は包みをほどいた。中から出てきたのは、二つ折りにされた紙が一枚だった。油の染みた布のおかげで、文字はにじんでいない。手帳と同じ、曲線と短い直線の組み合わさった文字が並んでいる。そして、手帳の時と同じように、意味が頭へ流れ込んできた。
一番上に、宛名が書いてあった。
『ベネトへ』
真琴が、紙から目を上げて布の方を見た。
「ベネトさん、っていう人だったんだね……」
ずっと「あの人」としか呼べなかった男に、名前があった。当たり前のことなのに、その名前を知った途端、布の下に横たわっているのが一人の人間なのだということが、急に重みを増した気がした。
手紙に差出人の名前はなかった。右肩の上がった、角ばった癖の強い字が、ぶっきらぼうな筆致で続いている。一字一字の大きさを揃えて書かれた、ヨアンの手帳とは、まるで違う字だった。
『次も前と同じだ。俺が見張りに立つ夜、焚き火に生木をくべて煙を上げる。それを見たら来い。物は野営地のはずれの倒木の陰に出しておく
受け取ったら、何度も言うが、塩の岩のある古い野営地へは下りるな。あそこから川を下ればルーゼ村まで一日半。村の者が必ず通る道だ。前回、俺たちが売り払った分のおかげで品が足りず、重ねて探索に来る可能性がある。物を担いでいるところを見られたら終わりだと思え。
売った分の分け前は、前に決めたとおりだ。余計なことは考えるな』
二人は最後まで読み終えて、顔を見合わせた。
どちらも、何も言わなかった。
千尋は手紙を元の折り目通りに丁寧にたたみ、油の染みた布で包み直した。それから、自分たちの布でもうひと巻きくるんで、バッグの中の一番奥へしまった。
「これは村で渡そう」
「……持っていくの?」
「ここに置いていったら、雨に濡れるかもしれないし、誰かに持っていかれるかもしれない。そうなったら、ベネトさんがわざわざ靴に隠した意味がなくなっちゃうからね」
「……うん、そうだね」
真琴は布の方へ向き直り、膝を折って手を合わせた。
「ベネトさん、ちゃんと届けるから、もう少しだけ待っててね」
千尋も隣で手を合わせた。沢の水音が、昨日と同じように絶え間なく流れていた。二人は立ち上がり、振り返らずに斜面を登り始めた。
《安息の小屋》へ戻ったのは、まだ日が傾ききる前だった。
千尋は手帳と、布にくるんだ手紙を並べて、小屋の奥の乾いた場所へしまった。真琴がその上へ、そっともう一枚布を掛ける。千尋はしばらくそれを眺めてから、ゆっくり息を吐いた。
「この話は、今日でいったんおしまいにしよう。続きは、村に着いてからだね」
「うん、ここで考えてても、確かめようがないもんね」
焚き火の前に腰を下ろすと、真琴が湯を沸かし始めた。千尋は鉄釜を火にかけるその手元を眺めながら、五日目のことを思い出していた。あの釜を掘り出した、川沿いの古い野営地のことだ。
「ねぇ、真琴。手紙にあった、塩の岩のある古い野営地って、あれ、この釜を見つけたところだよね」
「あ……やっぱり?私もそうかなって思ってた」
「水があって、塩の岩があって、獣も集まる。昔から、野営するにはいい場所だったんだと思う。焚き火の後もこの釜も、ずいぶん古かったけど、次の日に見つけた枝の切り口は新しかったでしょ?」
「ナイフで切ったみたいだった、あれね」
「うん。だから、村の人は今でもあそこを通って、森の奥へ入ってきてるんだと思う。手紙にも、村の人が必ず通る道だって書いてあったしね。村はあそこから川を下って一日半。小屋からあそこまではすぐだから、俺たちの足でもそれくらいで着けると思う」
真琴の手が、鉄釜の縁で止まった。
「……じゃあ、行けるんだ。村に」
「行けると思う。場所が分かったなら、ここで日にちを稼ぐ理由もないしね。準備は、昨日までに干した肉があるし、水の用意くらいにして、夜が明けたらすぐに発とうか」
「小屋は?」
「残していこう。せっかく建てた家だし、何かあったら戻ってこられる場所があるのは心強いからね」
「何と言っても、持ち家だもんね」
真琴は笑って小屋を振り返ったが、その笑みはすぐに少しだけ硬くなった。湯気の立ち始めた釜を見つめたまま、ぽつりと言う。
「……人に会うってことだよね。言葉、通じるかな」
「文字は読めたから、たぶん大丈夫だと思うけどね。でも、こればっかりはあってみないと分からないかな」
「英会話、本気出しておけばよかった」
「異世界語講座はなかったでしょ?」
千尋が笑うと、真琴もつられて小さく吹き出した。焚き火の向こうで、森の暗がりがゆっくりと深くなっていく。七日間、二人きりで過ごしてきた森だった。その先に、人の暮らす場所がある。
村へ行こう。そう決めた夜の火は、いつもより少しだけ明るく見えた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
いよいよ、出発の日が来たようです~!
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