12.夫婦、現場へ戻る
七日目の朝は、森の底に薄い霧を溜めたまま明けた。最後の見張りを終えた千尋が焚き火に薪を足していると、小屋から出てきた真琴が、まだ眠気の残る顔で隣へしゃがみ込んだ。湯を沸かし、手持ちの食べ物を少しずつ分け合う。手早く済ませるつもりの朝食だったが、なんとなく口数は少なく、火の爆ぜる音ばかりがよく聞こえた。
「ねぇ、千尋。布、持っていってもいいかな」
器を置いた真琴が、小屋の方を振り返りながら言った。
「布?」
「沢の人。もし、本当にまだそこにいたらさ……埋めてあげるのは無理かもしれないけど、せめて何か掛けてあげたいなって」
千尋はすぐに頷いた。昨夜、手帳を閉じた後の真琴の横顔を思い出す。一人で、誰にも埋めてもらえないまま。そうつぶやいた声は、今もまだ耳に残っていた。
確かに、その人は盗みをしてしまったかもしれない。でも、甘いかもしれないがその尊厳は、守れるだけ守りたかった。
「いいと思う。じゃあ、縄も多めに持っていこうか。掛けた布が風で飛ばないようにしたいし、何かあった時のために予備の布ももう一枚あると安心かな」
「さすが、準備の鬼」
「備えあれば、ってやつだよ」
真琴が手持ちの中から一番大きな布を選んで畳み、千尋は縄の束と一緒にそれをバッグへ詰めた。手帳は持っていかないことにした。沢のそばで濡らしたり、汚したりしたくない。必要なところは昨夜のうちに、見張りの合間を縫ってスマホのメモへ書き写してある。千尋は手帳を小屋の奥の乾いた場所へそっと置き、画面の隅のバッテリー表示を確かめてから、ポケットへしまった。
「でる前にもう一度だけ、確認させて」
「昨日の約束でしょ?どっちかが危ないと思ったら、戻る」
「うん、もちろんわかってるとは思ってるよ」
「ちゃんと覚えてるってば。千尋が二回言うってことは、本気だってのは分かってるよ」
真琴は笑って立ち上がり、簡易槍を肩に担いだ。千尋も石斧を手に取る。大分出来上がってきた干し肉をお昼用に鞄に詰めた。霧はいつの間にか薄くなり、梢の隙間から朝の光が斜めに差し込み始めていた。
四日目に灰牙狼とやり合った場所は、草地から少し森へ入ったところにあった。真琴の記憶は確かで、迷うことなく辿り着いた。
あれから三日しか経っていないのに、目で見る限り、そこにはもうほとんど何も残っていなかった。土に吸われた血の跡は黒ずんだ染みにもならず、周りの土の色に溶けている。あれだけ踏み荒らしたはずの下草も、すっかり起き上がっていた。真琴が槍を突き出したあたりに立ってみても、言われなければただの森の一角にしか見えない。
「なんか、ちょっと拍子抜けするね。あんなに大変だったのに」
「森の方が、俺たちより回復が早いな」
千尋は少し離れた場所に立ち、目に見えるものの奥へ意識を向けた。遺跡の扉の前でやった時と同じように、わずかな違いを拾うつもりで集中していく。
今度は、探るまでもなかった。
地面の上に、何かが筋のように残っていた。扉の溝の底に感じた薄い膜とは、まるで違う。ずっと濃く、荒々しく、獣が飛んだ場所、回り込んだ場所、踏ん張った場所に沿って、くっきりと尾を引いている。三日分の時間など、なかったかのようだった。千尋は視線でその筋を辿った。二本の筋が、もつれ合うようにして森の奥へと伸びている。あの時、低く唸って退いていった二頭の向きだ。
「……千尋?」
「残ってる。灰牙狼が動いたところに、はっきり。扉の前で見たものとは比べものにならないくらい濃いよ。三日経ってるのに、全然薄くなってない」
「そうなの?私には全然見えないけど……」
「逃げていった二頭の向きまで分かるよ。ほら、あっちと、少しずれてあっち」
千尋が指をさした先を、真琴は目を凝らして見つめたが、やがて肩をすくめた。それからふと千尋の顔へ視線を戻す。千尋は返事を仕掛けて、言葉を止めた。
「……ここにもある」
「ここ?千尋が吹き飛ばしたところ?」
千尋が頷くと、真琴は目を丸くした。
「千尋のも残ってるの?勝手な思い込みで、獣の物だけだと思ってた」
「加減ができてなかったからだと思う。あの時は、とにかく押し出すことしか考えてなかったから」
「じゃあ、濃いのが残ってたら獣、ってわけでもないんだ」
「少なくとも、ここにはその例外が一人いるね」
千尋が自分を指さすと、真琴は小さく吹き出した。けれどその笑いは長く続かず、真琴は黙って左の袖をまくった。腕の外側に、薄く白んだ三本の線が残っている。真琴はその上を、指先でゆっくりとなぞった。
「あの時さ、こう来たんだよね。飛んできながら、横から」
真琴は右手を軽く振って、宙に斜めの線を描いた。
「真正面じゃなくて、とんだ勢いのまま振ってきた感じ。だから三本とも、ちょっと斜めに流れてるの」
「よく覚えてるね」
「そりゃ、脳筋ですから。それに、自分の腕のことだからね」
千尋はスマホを取り出し、メモを開いた。見えた筋の濃さ、三日たっても薄れていないこと、退いた二頭の向きまで辿れたこと、自分が吹き飛ばした場所にも同じくらい濃い痕跡が残っていること。見えたものを見えたままに、短く書きつけていく。真琴はそれを横からのぞき込み、何も言わずに袖を下ろした。
縄の目印を辿り、川沿いの古い野営跡を過ぎ、崩れた橋の残骸を越える。昨日歩いたばかりの道だからか、足取りは軽かった。遺跡の正面で、入り口の脇の木に結んだ縄が昨日と同じように揺れているのを確かめ、建物の側面を回り込む。
裏手の野営跡は、昨日見た時のままだった。斜めに張られた布、石で囲った焚き火の跡、口を縛ったままの袋。千尋はスマホの写真を呼びだし、画面と実際の様子を一つずつ見比べた。荷物の位置も、布の垂れ具合も変わっていない。足跡が増えた様子もなかった。
「誰も来てないね」
「うん、昨日のまま」
荷物には今日も触れなかった。耳を澄ますと、野営跡の奥、木々の向こうの低いところから、水の流れる音がかすかに届いてくる。二人は顔を見合わせ、音のする方へ斜面を下り始めた。千尋は歩きながら、野営跡から数えた歩数を口の中で繰り返していた。
最初に気づいたのは、匂いだった。
前を歩いていた真琴の足が、ぴたりと止まる。
千尋にも、少し遅れてそれが届いた。湿った土と水の匂いに混じって、甘く重たい、喉の奥にまとわりつくような匂いがする。真琴は振り返らなかった。ただ、槍を握った手に力が入るのが、背中越しにも分かった。
斜面を下りきった先で、木々が切れ、細い沢が現れた。浅い流れが石の間を縫い、岸の土はぬかるんで黒く光っている。
その岸辺に、男が倒れていた。
横向きに崩れるようにして、顔を半ば地面へ伏せている。くすんだ色の服は泥と、乾いて黒ずんだもので汚れていた。手帳の最後に書かれていた、あの日から数えれば三日ほどになるはずだった。沢のそばの涼しさのせいか、傷みはまだそこまで進んでいないように見える。肩から背にかけて服が裂け、その下に走る傷が、遠目にも見て取れた。
千尋は、真琴の横顔を見た。
「少し下がっててもいいよ。見るのは俺がやるから」
「ううん、見る」
真琴は首を振り、千尋の隣へ並んだ。顔色は少し白い。けれど、目を逸らしていなかった。
「千尋に一人で見させるのは、もっと嫌だもん」
「……分かった。無理だと思ったら、すぐ言ってね」
「うん、わかった。ありがとね……」
近づく前に、二人はどちらからともなく手を合わせた。名前も知らない男だった。手帳の中では、荷を漁った盗人として書かれていた。それでも、こうしてここに一人で横たわっているのは、一人の人間だった。千尋は目を閉じ、しばらくそのままでいた。沢の水音だけが、絶え間なく流れていた。
千尋はまず、近寄らずに写真を撮った。少し離れた位置から全体を一枚。向きを変えてもう一枚。男の頭がどちらを向いているか。沢との位置関係、野営跡のある斜面の方角。下りてきた歩数をメモへ打ち込み、周りの地面の様子を書き足していく。
ぬかるんだ岸には、大きな足跡がいくつも残っていた。男の倒れている場所をぐるりと囲むように獣の足の形がはっきりと土に刻まれている。
千尋はもう一度、意識を向けた。今朝、戦闘跡で見たあの筋を、ここでも探す。足跡の上、男の周り、沢の縁。目に見えるものの奥へ、ゆっくりと集中していく。
何もなかった。
気のせいかと思い、範囲を広げてもう一度辿ってみる。それでも、あの濃く荒々しい気配は、足跡の上にも、男の周りにも、どこにも見当たらなかった。土は土で、ただ湿って冷たいだけだった。
千尋は足跡へ視線を戻した。一つ、隣のもう一つ。少し離れたもう一つ。指の並び方、開き具合、爪の先が土に食い込んだ位置。見比べていくうちに、喉の奥に小さく何かが引っかかった。
「……あそこと同じ見え方が、ここにはない」
ぽつりと口に出してから、千尋は続けた。
「それと、この足あと。全部同じ形だね」
真琴は千尋の言葉に頷きもせず、首を傾げもせず、ただ足跡の一つの横にしゃがみ込んだ。触れないように手を広げ、足跡の上にかざす。
「これ大きいよ。四日目の灰牙狼よりずっと大きい」
「そう?そんなに?」
「うん、私が刺した子の足、解体の時にちゃんと見たから覚えてる。あれより、指一本分くらいは大きい。手帳の人たちが言ってた、灰牙狼より大きい奴、なのかな?」
真琴はそれから、男の背の傷へ目を移した。立ち上がり、それ以上は近づかずに、しばらく黙ってそれを見つめる。無意識なのか、右手が左腕の袖の上へ添えられていた。
「……なんか、きれいすぎる」
「きれい?傷が?」
「うん。うまく言えないんだけど……なんか、変。私の腕のと、比べてるんだけど」
真琴はそこで言葉を切り、眉を寄せた。続きは出てこなかった。千尋はそれ以上聞かなかった。真琴がこういう顔をするときは、言葉より先に何かを見ているのだと、長い付き合いで知っている。
「俺も、さっきから足跡が引っかかってる」
「……どうする?」
真琴が、男から目を離さないまま聞いた。
千尋は少しだけ考えて、それから、いつもと同じように答えた。
「分からないことは、分かるところまで調べる。二人で」
「うん。二人でね」
袖の上に添えられていた真琴の手が、そっと離れた。
「まずは、見たものを全部覚えておこう。俺もメモしておくね」
「うん、お願い」
足跡と、男の周りと、男の背中。今日の「分かるところ」は、ここまでだった。二人とも、自分の見たものを口にしただけで、そこから先へは進まなかった。進んではいけない気がした。分かっていない事を分かったつもりで並べれば、見落とすものが出てくる。千尋はメモの最後に、真琴の言葉をそのまま書き写した。
「埋めてあげたいけど……」
真琴が、男の方を見たまま呟いた。千尋も同じことを考えていた。ここに一人で置いていくのは、やはり落ち着かない。けれど、千尋はゆっくり首を振った。
「俺もそうしたいよ。でも、ここで動かしたら、村の人が誰か見に来た時に、何があったのか分からなくなっちゃうかもしれない。この人のことを知ってる人が、きっとどこかにいるはずだからさ」
「……そっか。そうだね。私たちが勝手に片づけちゃいけないんだね」
「うん、持ってるものにもなるべく、触らないでおこう」
真琴は小さく頷き、バッグから畳んだ布を取り出した。二人で端を持ち、男の上へそっと広げる。風に捲れないよう、千尋が沢の石を拾って来て四隅を押さえ、真琴がその上に、もう一つずつ石を重ねた。布の下の形は、もう見えなかった。
最後に千尋は少し離れた岸辺の木へ縄を結んだ。端を長めに垂らし、斜面の上からでも目に入るように。
「ちゃんと誰かに見つけてもらおうね」
真琴が布を見下ろしたまま言った。
「うん。それまで、もう少しだけ待っててもらおう」
二人はもう一度だけ手を合わせてから、斜面を登り始めた。
帰り道は、行きよりもずっと静かだった。野営跡を過ぎ、遺跡を回り込み、谷を越えて縄を辿る。戦闘跡へ寄った分、日の傾きが早く感じられて、二人とも自然と歩調を速めた。《安息の小屋》が木々の間に見えたのは、空の端が赤く染まり始める、少し前だった。
夕食を済ませると、千尋は焚き火のそばへ腰を下ろし、スマホのメモを開いた。今朝の戦闘跡のこと、沢のこと、歩数、足跡、真琴の言葉。小さな画面に並んだ文字を上から順にゆっくりと読み返していく。
真琴は隣で膝を抱え、炎を見つめていた。しばらくそうしていたが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ、さっきの傷さ……」
「うん、どうした」
千尋は画面から目を上げ、真琴を見た。
「たぶん、同じことを考えてる」
真琴は少しだけ目を見開き、それから、小さく息を吐いた。焚き火の中で薪が崩れ、火の粉が一つ、夜の暗がりへ昇って行った。
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