10.夫婦、遺跡調査をする
どれくらいそうしていたのか、先に我に返ったのは千尋だった。開口部の奥から流れてくる風が首筋を撫で、その冷たさで、自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
大きく一つ息を吐き、木々の切れ間から空を仰いだ。日はまだ高い。傾き始めるまでには、もうしばらく余裕がありそうだった。続けてバッグを探り、残っている縄を指先で数える。谷の手前で一本使ったが、まだ何本かは残っている。ただ、帰り道の目印を考えれば、ここで気前よく使い切っていいものではなく、結んできた縄を辿って帰るにしても、多少は残しておきたかった。
「真琴」
呼びかけると、真琴は弾かれたように振り返った。目はまだ半分、遺跡に持っていかれてる。
「はぁ……すごいね、ちょっと意識飛んだわ」
「俺も。正直、圧倒されたよ」
千尋は苦笑して、入り口の周りをぐるりと手で示した。
「今日は、入り口の周りと、外の光が届くところまでにしようか。奥まで行くのはちゃんと準備してからにしたいんだよね」
「松明もないしね。光が届くとこまでか……」
真琴は開口部の暗がりへ視線を戻した。奥から流れてくる風が、また前髪をわずかに揺らす。冷たく湿った、古い物の匂いがする。真琴は言い知れぬ存在に何かを感じたのか、自分の両腕を軽くさする。
「うん、それがいいと思う。この風、ずっと落ち着かないんだよね。嫌な感じとまでは言わないけど、背中がそわそわする」
「真琴がそういうなら、なおさら準備にいったん帰ることにしよう」
小さく笑って頷いた真琴の顔に、いつもの調子が少しだけ戻っていた。同意してもらって、安心したようだった。
帰るにしても、見える範囲を出来る限り調査していこうということで、まずは入り口の柱から見ていくことにした。千尋は苔の薄いところを選び、指先で少しずつ払っていく。強くこすれば、模様ごと削ってしまいそうで、払うというより、表面の苔をそっと取り除くような手つきになった。真琴も反対側の柱で同じことを始める。
考古学の発掘時のように、刷毛が欲しいと思った。やはり準備は必要だ。
苔の下から現れた模様は、近くで見るほど細かかった。まっすぐな線が何本か並び、その橋から緩やかな弧が伸びて、隣の線へとつながっていく。ところどころに小さな円のような窪みがあり、線はそこへ集まっているようにも、そこから広がっているようにも見えた。溝の深さはどれもほとんど同じで、何度も刃を当てて削ったというよりも、最初からこの形に整えられていたかのように滑らかだった。
「……ねぇ、千尋」
柱の向こうから、真琴の声がした。記憶の底を探っているような声だった。
「これ、どこかで見たことがある気がする」
「見たこと?」
「うん、キセマホの遺跡。古代文明のやつ。あそこの入り口って、こういう模様が柱に彫ってなかった?線がずーっと繋がってて、ところどころ丸いのがあって」
言われて、千尋も模様を見直した。二人で何千時間と遊んだゲームの景色が、頭の中で何枚も重なる。崩れた石造りの門と、柱を這うように続く線の模様。確かに、雰囲気は近い気がした。
「……言われてみれば、似てるかもしれないね。記録だけ残しておこうか」
千尋はポケットからスマートフォンを取り出した。県外の表示はこの数日ずっと変わらないが、カメラは問題なく動く。苔を払った部分の模様、柱全体、入り口の上の壁と、角度を変えながら何枚か撮った。画面越しに見ると、肉眼よりも線の重なりが追いやすい。
真琴も自分のスマホを取り出し、写真のフォルダを開いた。
「確か、スクショ取ってたんだよね。隠しボスの出現場所とか、あとで見返そうと思って」
「そういう時はまめだよね。何枚あるんだっけ?スクショ」
「ありすぎてわかんない。数えたことないし」
真琴は画面に指を滑らせ、時々手を止めては拡大し、また流していく。遺跡の通路、門、壁画のような背景。それらしい画像はいくつも出てくるのに、真琴の眉はなかなか晴れなかった。
「あった、これ……いや、ちょっと違うか。こっちのほうが近い?うーん……」
差し出された画面を、千尋も覗き込んだ。ゲームの中の門は、確かに目の前の柱とよく似た雰囲気をしていた。線の流れも、ところどころに置かれた円もそっくりに見える。
けれど、円の数や、それにつながる線のパターンが全く同じかというとそうとも言えない部分があった。
「似てるね。でも、同じかって言われると違うかな」
「だよね……、似てるのはいっぱいあるのに、これだ!ってのがない」
真琴は画面の隅に目をやり、小さく唸った。
「おお……バッテリー、思ったより減っちゃった」
「じゃあ、そこまでにしよう。あとで見返せないと意味がないしね」
真琴は名残惜しそうにもう一度だけ画面を流してから、スマホを閉じた。千尋も撮った写真を確かめてから画面を消し、ポケットへ戻す。
「こうやって話をしながら検討するくらいが、今はいいかな。でも、キセマホと同じだって思い始めると、違うところが見えなくなるかもしれない。思い込みはよろしくないよね」
「確かに。でも、なんでだろう。デザインって、時代や地域が違うだけで全然違うものが出来上がるものだもんね。ここまで似てるのは何か理由がある気がする」
真琴はもう一度、柱の模様へ目を戻した。そっくりではない。けれど、まるで無関係とも思えない。その中途半端さが、かえって気になった。
柱を一通り見終えると、二人は開口部の内側へ足を踏み入れた。
一歩入っただけで、空気が変わった。外の湿った森の空気とは違う、ひんやりとした冷たさが肌に触れる。足元には大きな石畳が敷かれていた。ところどころ割れ、隙間から細い草が顔を出しているが、平らに並べられた石の面は、今でも十分歩けるほどしっかりしている。
数歩進むたびに、千尋は振り返って入り口の明るさを確かめた。通路の脇には、天井から落ちたらしい石の塊がいくつも転がっている。見上げると、天井の一部が崩れ、そこから細い光の筋が差し込んでいた。壁には腰の高さあたりに一本、まっすぐな溝が奥へ走っている。
「この溝、ずっと奥まで続いてるね」
「水を流すような感じでもなさそうだし、飾りにしては地味だね。なんだろうな」
真琴は溝へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。千尋がちらりと見ると、ばれたかという顔で肩をすくめる。
さらに進むと、外からの光がだんだん頼りなくなってきた。石畳の継ぎ目が見えにくくなり、壁の溝も暗がりへ溶け始める。そのあたりで二人の足は自然と止まった。
通路の正面が塞がれていた。
壁ではなかった。両側の壁とは明らかに違う一枚の大きな石の板が、通路をぴたりと閉ざしている。表面には、入り口の柱よりもはるかに密に模様が刻まれていた。線は板の端から端まで隙間なく走り、いくつもの円を経由して、また別の線へと繋がっていく。薄暗さに目が慣れてくるにつれ、その細かさに思わず息を吞んだ。
「……扉?」
「そうだろうね。入り口に扉がなかったのは、こっちが本命だったからかもしれないね」
千尋は板の縁から順にみていった。取っ手らしき出っ張りはない。鍵穴のような穴も見当たらない。板と壁の境目には髪の毛一本入りそうにないほどの隙間しかなく、押すのか引くのか、横へ動くのかさえ分からなかった。
「ちょっと押してみようか」
真琴は自分の規格外を理解したうえで、にやりとしながら言った。
「いや、もちろん押さないよ。真琴の力だと、開く前に周りが崩れるかもしれないしね」
「ここに墓標を立てるのは嫌だもんね、分かってるよ」
中に何があるか、真琴が気になってはいるのはよく分かったが、この遺跡が崩れてしまっては本末転倒だ。今の気分ではなく、全てをトータルで判断していきたい。
千尋は改めて扉の模様へ向き直る。手は触れず、意識だけを向けた。
森で角ウサギを見ていたときに覚えた、あの感覚。目に見えるものの奥にある、わずかな違いを拾うように集中していく。
最初は何も分からなかった。石は石で、冷たく静かにそこにあるだけだ。けれど、模様の溝を一本ずつ追っていくうちに、その奥にかすかな何かが引っかかった。溝の底に、薄い膜のように何かが残っている、そんな気がした。
灰牙狼の胸から取り出した、あの半透明の塊に触れた時とは違う。あれはもっと濃く、内側から押し返してくるようだった。森の草や木から感じる、ぼんやりとした気配とも違う。もっと細かく、整っていて、溝の形に沿って静かに留まっているような感覚だった。
千尋は呼吸を浅くして、その感覚の先を辿ろうとした。
「千尋、目」
すぐ横から、真琴の声がした。
「え?……なに?」
顔を向けると、真琴が驚いたようにこちらを見ていた。
「なんか……変。あの時、千尋が私の目に見たって言ってたやつかも」
言い終わるより早く、真琴の両手が伸びてきて千尋の頬を挟んだ。ぐい、と顔を引き寄せられ、至近距離から覗き込まれる。
「……あれ?」
「……真琴さん?」
「戻ってる。さっきまで、黒いところがすごく深くなって、中に細かい光が散ってるみたいで……ほら、銀河を閉じ込めたみたいって、千尋が言ってたでしょ?まさにあれだったんだけど」
真琴は千尋の頬を挟んだまま、右、左と目を覗き込んだ。どこから見ても、いつもの黒い目だった。
「う~ん、やっぱりあっという間に戻っちゃったか。写真に撮りたかったなぁ~」
「それは残念。俺も見たかった」
軽口を返しながらも、千尋は自分の目元にそっと触れた。痛みも違和感もない。自分では何一つ気づかなかった。真琴が見ていなければ、目に変化が起きていることすら知らないままだったろう。
気のせいで片づけることもできた。薄暗さのせいだ、見間違いだ、と。けれど千尋は、そうする気になれなかった。真琴の目にも同じものを見たのは、他でもない自分なのだ。
「真琴の時は、《双創》で小屋を作ってる最中だったよね。今回は俺が模様を見てたとき」
「うん、そうだね」
「二人とも起きるなら、俺の魔力量だけの話じゃないね。真琴は俺ほど魔力があるわけじゃないし」
「確かに、何か、共通してることがあるのかな」
「あるのかもしれない。でも、今はそこまでは分からないな。見たのは二回だけだし、どっちも一瞬だったからね」
千尋は視界の端へ意識を向けた。《体力》は朝より少し短くなっている。けれど《魔力》の表示は、扉を見る前と後で、全く変わっていなかった。
「魔力も減ってない。少なくとも表示でわかるほどには何も使ってないってことだね」
千尋はスマホを取り出すと、メモを開いた。日付の代わりに「六日目」とだけ打ち、扉の模様に集中していたときに目が変わったこと、真琴が気が付いたこと、すぐに元へ戻ったこと、魔力の表示が変わらなかったことを短く書きつける。最後に、真琴の時のことも一行添えた。
発生条件、不明。
そう打ち込んで、画面を消す。
「二人で同じ現象があるって、不思議だけど、それはそれでいい気がする。お揃いみたい」
「……そうだね。ひとりだけじゃないっていうのは、ちょっと安心するね」
しばらく二人で扉を眺めていたが、模様を一通り見てしまうと、千尋が口を開いた。
「今日はここまでにしよう」
「そうする?」
「うん、明かりもないし、スマホの明かりを使うわけにいかないしね。扉の開け方が分からないと進むも何も、ここで行き止まりだし、壊すなんてもってのほかだよ」
「日が傾いたら帰るのも大変だしね」
「そうだね。ここは逃げないよ。また来よう」
「何がいるか、考えながら帰ろう」
二人は来た道を戻り、開口部から外へ出た。森の明るさが、ずいぶん眩しく感じる。千尋は少し離れた位置まで下がり、遺跡の正面全体が収まるようにスマホを構えた。崩れた石壁、入り口の柱、建物を呑み込みかけている木々。周りの地形も分かるように、左右へ向きを変えて何枚か撮っておく。
それから入り口の脇に立つ一番太い木へ、縄を結んだ。谷の手前に結んだものよりも長めに端を垂らし、どの方向から来ても目に入るようにする。
「これで、次も迷わずに来られるね」
「谷まで戻れれば、後は縄を辿るだけだからね」
縄を結び終えて振り返ると、真琴が建物の側面をじっと見ていた。
「千尋、ちょっと来て」
呼ばれて隣へ並ぶと、真琴は建物の角のあたりを指さした。
「さっきの切り跡、入り口の方には来てないの。ほら、あそこ」
示された先では、壁沿いに生えた低木の枝が、見覚えのある切り口で落とされていた。その先の木にも同じ跡がある。跡は入り口の前を素通りするように、建物の側面を回り込んで奥へと続いていた。
「入り口の前の苔、どこも踏まれてなかったでしょ?この人、中には入ってないんじゃないかな?」
「……遺跡が目的じゃなかったかもしれないね」
千尋は空を見上げた。日はまだ高い位置にある。ここから谷まで、谷から川辺の野営跡まで、そこから小屋まで。来るのにかかった時間をざっと逆算しても、もう少しなら余裕がありそうだった。
「少しだけ追ってみようか。日が傾き始めたら、追跡はそこまで。OK?」
「ありがと!少しだけね」
真琴は嬉しそうに頷いたが、その目はもう切り跡の先を追っていた。
跡を辿って、建物の側面を回り込むと、遺跡の裏手は表側よりも木々がまばらだった。崩れた石壁を回り、さらに少し離れたところで、地面が僅かに平らに開けている。
最初に目に入ったのは、木と木の間に張られた布だった。
くすんだ色の厚手の布が紐で枝に結ばれ、斜めに張られている。片側の紐は外れかけて垂れ下がっていたが、布そのものはまだ形を保っていた。その下には石で囲った焚き火の跡がある。灰は雨に打たれて固まっているものの、川辺の野営跡のように草に埋もれてはいない。囲いの石も、きれいに並んだままだった。
「……新しい」
真琴が小さくつぶやいた。
「うん、川辺の野営跡とは全然違うね」
布の下には、荷物が残されていた。口を縛った袋がいくつか。木でできた小さな箱。水を入れるものだろうか、皮を縫い合わせた袋。どれも雨と土で汚れてはいたが、朽ちてはいない。片付けて、立ち去ったのなら、こんな風に荷物を置いていくはずがなかった。
千尋は布の下には入らず、外から一つずつ確かめていった。袋の口は縛られたまま、箱の蓋も閉じている。焚き火の跡の脇には、薪にするつもりだったらしい枝が積まれたまま残っていた。ここにいた誰かは、ここで火を焚いて眠り、次の日もここにいるつもりで支度をしていた。そう見えた。
ふと見ると、真琴が動かなくなっていた。
何かを見つけて目を輝かせるときの顔ではない。灰牙狼の気配に気づいた時の顔とも違う。真琴は布の下の暗がりと、その周りの地面を、ただ黙って見つめていた。
「なんか静かすぎるよね。この場所」
真琴は言葉を探すように、少し間を置いた。
「何かいるって感じじゃなくて、なんて言ったらいいんだろう。何かあったような……」
千尋は何も言わず、真琴の背中に手を添えた。何か言葉にならない何かを感じ取っているような気がする。
それは、感覚だけれど、千尋にもなんとなくわかった気がした。
遠くで、鳥が一声だけ鳴いた。
真琴の視線が、布の下の一点で止まった。
「千尋、あれなんだろう」
荷物の袋の陰に、半分地面へ落ちるようにして何かが転がっていた。手のひらより少し大きいくらいの四角いもの。表面は茶色い皮で覆われ、端には紐で綴じた跡が見える。角は擦り切れ、湿気を吸って、少し反り返っていた。
「……手帳?」
「そんな感じだね」
千尋はしゃがみ込み、触れないまま、それを見つめた。表紙に文字のようなものは見当たらない。とても大事に使っていたのだろう。毎日よく使用していたのか、綴じ目のあたりだけが柔らかく擦れていた。
切り跡、足跡、川辺の野営跡。二人はここまで、誰かがいたという痕跡だけを追いかけてきた。けれど、その誰かが何者なのかを教えてくれるものは、一つもなかった。
今、目の前にあるものは、もしかしたら初めての、その誰か自身が残した言葉かもしれない。
千尋が顔を上げると、真琴もこちらを見ていた。
二人は何も言わないまま、しばらくお互いの顔を見つめ合っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
いよいよ、謎が始まります。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




