第93話 幕間 アリヤとニック② 料理と追憶
いつかの日。
「いつも残さず食べてくれて、ありがとね。しかも後片付けまでやってくれて」
皿を片付けていると、アリヤからそんなことを言われた。
「作ってもらってるんだ。当然だ」
突然、昔のことを思いだした。胸が痛んだ。
「……なぁ。もし自分が作った料理を、食べるふりをして全て捨てられていたらどう思う?」
そんな突拍子もない質問に、アリヤは目をぱちくりさせたが、「最低の男だと思うわ!」とすぐに答えた。
その通りだな、と思った。
◆
あれは、海の向こうの国で、トジンが亡くなる数か月前の出来事だった。
「今日も食欲ないの? 大丈夫?」
フローレンス人の妻が、王宮から帰宅した俺の足音を聞きつけ、寝室から降りてきた。
「あぁ。また明日の朝に食べて、出て行くよ。いつも作ってくれて感謝する。起こしてすまなかった」
結婚してからというもの、よい夫であるように、常に気を配っている。
妻は最近赤子を出産した。疲れているはずだ。
「それで体がもつならいいけど」
妻はそういって、また寝室に上がっていった。
僅かに眠り、翌朝早朝。
俺は1階の食卓へと降りて行った。
そして、そこにある料理を静かに捨て始めた。
……食えないのだ。
妻には悪いと思っている。だがフローレンス人の作る料理はすべて食えないのだ。
「やっぱり」
妻の声がして、ハッとした。
注意散漫になっていた。気配に気づけないなんて。
「あなた、最低」
妻はそういい捨てるなり、また2階へと上がっていった。
お互い、夫の役と妻の役を演じていることは分かっていた。
俺たちの関係はさらに冷え切ったものになった。
◆
「んーでもまあ、なにか理由があるんでしょうよ。それを聞くかな。だって食べてないってことでしょ。お腹すいちゃうよ」
アリヤの声で我にかえった。エメラルドのような輝く瞳が、少しだけ心配そうにこちらを見ている。
少し間をおいて、ようやく何の話をしていたか思いだした。
「優しいな」
妻が理由を聞いてくれたことなど、あっただろうか。
「あなた、捨ててたの? お父さんとかお母さん……とかの料理。どうして?」
アリヤが少しためらいながら聞く。
「妻の料理だ」
このころには、アリヤが俺に対していだく思いも、俺がアリヤに対していだく思いの正体も分かっていた。
だから予防線を張る必要があった。
狙い通り、アリヤは少なからず衝撃を受けたようだ。
「あ、あなた妻がいるの?」
「正確には、いた、だな。離縁してこの国に来た」
アリヤがほっとしたような表情を一瞬浮かべて、そしてすぐに表情を引き締めると、少しだけ考えてから口を開いた。
「奥さん、フローレンス人だったの?」
驚いた。アリヤの頭の回転の良さに。
だからか、つい余計なことが口をついて出た。
「……そうだ。信じられなかったんだ。互いの利益のために結婚したから」
「でも、そうでもしないと生きられなかったんだよね?」
アリヤは、聡明で真っ直ぐな眼差しをこちらに向ける。
「もうこの話は終わりにしよう」
全ての皿を洗い終えた。
アリヤはおとなしく頷いて、「私は、あなたのこと、ずっと信じるよ」と小声で言った。
胸が締め付けられて、聞こえないふりをすることしかできなかった。
その妻との間に赤子もいたこと、そして、その赤子はこの大陸に来る途中で知り合った女に無責任に世話を押し付けたと言ったら、アリヤはどんな反応をするだろうか。
◆
「前も言ったけどさ……その赤子、俺が面倒を見ようか? 明日、出発だろう?」
ヒースターレンが俺の部屋にやってきて、遠慮がちに口を開いた。視線は部屋の隅の小さな寝台に向けられている。――年上の妻ミューレンヤーンとの子だ。
全てを捨てて海の向こうへ行くと告げると、ミューレンヤーンは態度を変えて離縁を申し出て、生まれたばかりの我が子を俺に押し付けた。
了承し、多額の離縁の手付金を払ってやると妻は喜んだ。
もともと俺らの間に愛などなかった。
ミューレンヤーンはフローレンス人だ。本来ならスタルトゥス人の俺との間に生まれる子はすぐに死ぬはずだが、ノーレスリャーンの医術のおかげで健やかな状態を保っている。
ミューレンヤーンは家柄の良い家の出身で、野心的な女だった。
自分の地位をあげようと俺に近づいたことは分かっていた。
だが、俺もフローレンス人と婚姻を結び、子を設けることは、自分の融和の立場を民に知らせるために重要だった。
いわばお互いの利益のために行った婚姻だった。
トジンは反対していたが、押し切った。
寝台の赤子が、少しだけ身じろぎをして俺はふと我に返った。
ヒースターレンが心配そうにこちらを見つめている。
「その子は……海の向こうの大陸で誰かに育ててもらうことにするさ」
親友にそこまで迷惑はかけられない。
「あのガラスの部屋の毒で死ぬかもしれないぞ」
遠慮がちな声に、「死んだらそこまでだ」と低くつぶやいた。
咎められるかと思ったが、ヒースターレンは「そうか」と頷いて、寝台の方へ向かうと、分厚い大きな掌で赤子の頭をそっと撫でた。
「元気でな。生き残れば、海の向こうの平和なスタルトゥス人の大陸が待ってるからな」
赤子を連れての1人での航海は危なすぎる。
俺は、自由を求めて海の向こうの国へと渡る、貧しいスタルトゥス人に混じることにした。
彼らは命がけだった。
海の向こうの国は、強い瘴気で覆われている。それに耐えられるように、紫色の花が咲きみだれるガラスの部屋の中にしばらく閉じ込められるのだ。
そして、生き残った者だけが海の向こうの国へと渡ることができる。
その際に、皮膚に紋様を生み出す注射を撃たれ、”鍵”となるのだ。
俺は以前から、この毒についてはトジンに鍛えられたから、生き残る自信があった。
なんでもトジンの妻はこの毒の花が好きで、好んで食したらしい。カタツムリも食うし、すごい女だと思った。
トジンは妻の忘れ形見だ、と言って紫色の優美な巾着に入ったその花の種を持っていた。
そして、誰もこない森の奥深くでひっそりと育て、その花をすりつぶしたスープをよく俺に飲ませた。
最初は強い痺れと熱が出て寝込み、死ぬかと思った。
だが、次第に慣れていって、飲んでも問題なくすぐに動けるようになった。
トジンは「お前の毒への強さは、トリヤも顔負けだな!」とおかしそうに笑った。
ガラスの部屋の中には、他の何人かのスタルトゥス人と一緒に入れられた。
毒にやられてバタバタと他のスタルトゥス人が倒れていく中、赤子をかかえ、ただじっと時が過ぎるのを待っていた。
赤子は死ねばそれまでだと思っていたが、俺の血を受け継いだのがよかったのか、死ななかった。
俺と赤子のほかに生き残ったのは女1人だけだった。
フローレンス人の担当官は、生き残った俺たちを部屋から出すと、まずは女の左腕に注射を打った。
それから俺の方を向く。
――トジンの入れ墨を壊されたくない。
思わず、紋様の入った左腕を右手でぎゅっと掴んだ。
担当官はふっと笑った。
「お前さんには打たないよ。……その赤子には、海の向こうにつくころに注射を打とう。今はまだ幼すぎるからな」
だいぶあとになって、ヒースターレンとノーレスリャーンが担当官に事情を伝え、手を回してくれていたことを知った。
それから船にのった。
もうじき大陸につくころ、眠っている赤子を腕にかかえ、船縁で潮風にあたっていると、「ジグルステン様ですか?」と話しかけられた。
見れば、スタルトゥス人の女が立っていた。
俺と赤子の他に、ガラスの部屋を生き残った唯一の者。
「……あぁ。よく俺の名を知っていたな」
内心、驚いていた。海を渡る貧しいスタルトゥス人は、日々を生きるのに精一杯で政治には関心がないと――故に俺のことなど知らないと思っていた。
「兄があなた様に憧れていたんです」
女は懐かしそうに目を細めて語った。女の兄は、俺に影響を受けて、”議”の議員を目指したらしい。だが道半ばで反対するフローレンス人に殺された。
肉親が兄しかいなかった女は、生きる気力を失い、”鍵”に志願したのだという。
「恨まないのか」
実際、こういったことはよくあり、そのたびに家族のかたきだと言って罵倒を浴びた。
「いえ、尊敬しています。兄も私も」
女は屈託なく首を振り、「お会いできるなんて感無量です」とまぶしそうにしてから、自嘲気味に笑った。
「まさかガラスの部屋を生き残れるなんて。正直これからどうやって生きていけばいいか……」
「ならば、この子を育ててくれないか」
赤子を差し出すと、女は「いいのですか」と目を見開いた。
俺が頷くと、白く細い腕で赤子をそっと受け取り、胸に抱いて幸せそうに微笑んだ。
「これで生きる意味ができました。この子を大切に守り生きていきます」
「感謝をすべきなのはこちらだ。これからこの赤子をどうすべきか悩んでいた」
俺への憧憬を利用して押しつけたようなものだ。
「……あなたは誠実な人ですね」女は微笑むと、まっすぐこちらを見つめた。
「ジグルステン様。最後にあなたの息子に言葉を」
赤子は安らかな表情で寝息を立てていた。
このときばかりはそっとその頭に手を置き、ただ真摯に願った。
「幸せに生きよ」
女は花が咲いたように微笑み、深く礼をした。
「よかった、これでひと安心」
帆の後ろから、フローレンス人の担当官が現れた。
「もうすぐ到着だ。その赤子に紋様の注射を打とう」
女はその言葉に頷くと、赤子の服の袖をそっとめくった。
小さくて柔らかなその二の腕に、担当官は針を刺そうとして、手を止めた。
それから女を見て、ニヤリと口の端を上げる。
「お前さんが育てるんだろ? 待ってろよ、餞別だ」
腰にぐるりと巻きつけていた鞄から、ガラスの瓶を何本も取り出すと、太い指で器用に混ぜ合わせ、新しい注射液をつくった。それを、赤子の腕にチクリとさす。
眠っていた赤子は、突然の刺激に一瞬、びっくりしたように目を見開いたが、それから何事もなかったかのように平然と眠りに落ちた。
「ハハハ、大物になるぞこいつ」
フローレンス人の担当官が笑う。
「餞別、というのは?」
首を傾げた女に、担当官は答えた。
「お前さんと血がつながってるような紋様ができるようにしたぜ。6歳ごろに現れるだろう。あと、お前らには健忘の注射も打たないよ」
「ほんとう?」
女の顔がぱっと明るくなった。
船が大陸につき、別れ際、女の腕にフローレンス人から入れられた紋様が現れているのに気づいた。
典型的な”鍵”の形――ただ単純に棒が二本、交差しているようなシンプルな形だった。
これから数日たてば、より濃くなるだろう。
◆
「それ、きみのお母さんの紋様?」
思わず尋ねると、その少年は「あ?」と面倒くさそうな視線をこちらに向けた。
「なんでこう立て続けに言われんのかな。そうだけど、なんか文句ある?」
トルーシスという傑出した動きを見せた青年と一緒に酒場にきた、ませた少年の頭には、あの女と同じ紋様の形の彫り込みがあった。
棒が2本、交差しているようなシンプルな形。
「君のお母さんは今、どこに?」
「……死んだ。帝都で悪い男にひっかかった」
息をのむと、少年は私の反応を見て苦笑した。
「でも、思いだしたんだ。母さんはずっと”私は幸せだ”って言ってたんだ。女手一つで育てるのは大変だっただろうにさ」
「他の男と結婚はしなかったのか」
この大陸では未亡人が結婚することはよく見受けられた。女も誰か他の男と結婚し、養ってもらっているものだと思っていた。
「なんでかは知らないけど、俺の父さんのこと、結構好きだったみたいだったし。俺が生まれる前にいなくなったらしいけど」
少年は少し間を置くと、独り言をいうかのように呟いた。
「ずっと自分を責めてきたけどさ……、母さん、俺の前からいなくなる少し前にも、”私は幸せ者だ”って言ってた。それも思いだした」
無意識だろう、少年の目線が一瞬、卓の上を片付けている藍色の瞳の娘に向けられた。
先ほど熱心に話し込んでいた娘だ。派手さはないが、すっきりとした顔立ちをしている。
「……へぇ。君は幸せになってくれ」
そういうと、「何様のつもりだよ」と睨まれた。
※こぼれ話
ニックがなんやかんやとネルのことを構っているのは、そうです……そういうことです……^^
ちなみに、ネルの母親(育ての母親)は、あの時、商人によって殺されたわけではない、という裏設定があります。紋様のある片腕を切り落とされてしまいましたが、生きながらえています。
ニックはあらゆる手を尽くしてネルの母親を探しあて、路地裏で暮らしていた彼女を保護します。彼女は衰弱し、ボロボロの服を身に纏いながらも、ネルとトルーシスの話が書かれているたくさんの帝国報を握りしめていました。
(※すべて、ネルとトルーシスを非難する内容でしたが、彼女にはネルが正しいことをしていると分かっていたのです)
保護されたあと、数か月でネルの母親は息を引き取りますが、最期に何度もニックに感謝の言葉を述べたそうです。
ちなみに、息を引き取る寸前、彼女は、闘技場でのトルーシスの最期を見に帝都にやってきたネルと再開を果たします。ネル、リュシア、ニックに見守られてその生涯を閉じました。




