第60話 鍵
「ハイ、火傷にはこれぬっとケ」
俺はレオラに薬の壺を渡すと、陽気に続けた。「嬢ちゃんの、その細い指先で塗るのが大事なんだ。俺のごつい指で塗っても、なんも有難みがないからな」
「……分かった。ありがとう、番人」
レオラは消え入りそうな声で答えた。
……ったく。
レオラが必死の形相でトルーシスを俺の元へ運んできたのが3日前。
以来、トルーシスの傍から片時も離れない。
レオラの肩をぽんと叩く。
「大丈夫だ。こいつは前にも危ない橋を渡ったんだ。きっとすぐに動けるようになるぜ」
気を失い横たわっているトルーシスを、なおも神妙な顔で見つめるレオラに苦笑した。
「まあ、お前さんの思っていることは分かるよ」
漆黒の紋様が、火傷で跡形もなくなっていた。
◆
「……この炎が燃えている限りは、大丈夫だからね」
そう微笑みかけた、優しそうな女の人の頬には、黒い紋様があった。
必死に口を動かしたが、それは言葉にはならなかった。
女の人はふっと笑った。
「何を言おうとしているのかしら。……あなたが大きくなるまで一緒にいたかったわ」
温かな腕が体を包み込む。
「さようなら、トルーシス。こんな母と父でごめんね。……でもこの紋様は渡せないの」
女の人は紫色の唇でそういうと、自分の紋様が刻まれている肌に火をつけた。
肌の上を、炎がなめるように広がった。
……痛い!
まるで自分のことのように、そう思って顔をゆがめた。
……痛い。肌が痛い。
ふと、やわらかな指がふれた途端、その痛みがすっと和らいだ。
「せっかく綺麗な紋様だったのに……」
誰かの懐かしい声が聞こえる。
指が肌を這う心地よい感触。そのまま眠ってしまいたかった。
「死んだら殺すんだから」
凄みのある声に、急に深い眠りから覚めた感覚になった。
瞼を開けると、驚いたように見開いた黒い瞳と目があった。
「……レオラ?」
――さっきのはいつの記憶だ?
まだ倒錯する意識の中で、そんなことを思った。
「よかった……」
レオラはそれだけをやっとのように呟いて、作業の続きを始めた。
僕の肌に薬を塗り、包帯を巻く。
次第に意識がはっきりしてくると、なんとなく、レオラに看病されているのが気まずかった。
「……死んだら殺せないぞ」
「うるさいわね」
レオラがフン、と横を向いた。
……不機嫌になってしまった。
「いい蹴りだった」
顎に鈍い痛みがまだ残っている。
「気絶でもさせないと、あなたをすぐに炎から出せないと思ったの」
申し訳なさそうにうつむく。
「いや、褒めてるんだ。兄さん――いや鋼主は?」
レオラは虚を突かれたように瞬きをして、答えた。
「一応、助け出して看病してる。生死の境をさまよっているようだけれど」
「そうか」
頷いた僕に、レオラは口をとがらせた。
「なんで死のうとしたのよ」
しばらく逡巡し、胸の内を正直に明かした。
「僕がいることでこの世界に災いが起こるのなら、僕はいない方がいい」
レオラは、目を見開いた。沈黙が僕らの間に降りる。
その時、デイトンの足音がした。
デイトンはこちらに駆け寄ってくると、僕の肌の火傷の跡を見て顔をゆがめた。だが、それは一瞬で、すぐに表情を引き締め、口を開く。
「トルーシス、黒い紋様が解けた。そこには白銀鉄の壊し方が記されていた。帝国は、それを秘匿するために”呪い”なんていう都合のいい話を作ったのだろう」
デイトンは僕の手を握り、まっすぐにこちらを見つめた。
「こんなことで世界は滅びない。もうお前は、言い伝えに囚われる必要はないんだ」
「違う。……そんなわけは」
何かが記憶の淵に張り付いている気がする。思いだせない、重要な何かが。
それに、兄さんは僕の紋様を見て、なんて言っていた?
「……」
デイトンはそんな僕の様子をじっと見ていたが、やがて立ち上がると、「分かった。もう少し考えよう」と去っていった。
デイトンがいなくなると、レオラが僕の背に手を回し、そっと僕の体を起こした。
「なんにせよ、もう戦争は終わったわ。……見える?」
眼下に、燃えさかる帝都と、退却していく東ノ国の軍が見えた。
今いる場所は、帝都から少し離れたところにある小高い丘だった。
僕とレオラしかいない。
「あなたは自由よ」
レオラは、僕の首枷を外した。ガチャリと音を立て、それはあっけないほど簡単に首からなくなった。
「……若王とデイトンがね。鋼主を倒した功で、あなたの罪は問わないとしたの。それに、あなたのことを徹底的に擁護した。民衆はしぶしぶだけど納得したわ」
その言葉に、僕はただただ驚いた。
「しばらくここで休んで。また明日くるわ」
名残惜しそうにしながら、レオラは他の怪我人の看病をすると言って去っていった。
僕はずっと、燃えさかる眼下の帝都をぼんやりと眺めていた。
◇
一昼夜、帝都の炎は燃え続け、赤々とした光を放った。
その夜はまるで昼間のように明るかった。
朝になって炎はやっと消えた。
少しの間、雨が強く降って地面を濡らし、それから嘘のような快晴になった。
空気は澄みわたり、燃えかすだろうか、空気中に白銀鉄の小さな粒子が浮遊していた。
朝日を反射し、それはきらきらと空中で輝いた。
その帝都で若王は一人、歩いていた。
「綺麗だな。何もなくなったが」
そう静かに呟く。
かつて栄華を誇った帝都はもう跡形もない。
「やあ、麗しき若王様。なにをしておいでで?」
砕けた調子のその声に振り向くと、騎士団長のニックが立っていた。
「新しい国の在り方を考えていたのだ。勝利はしたが、ここからが真に肝心だ」
あたり一面の荒野を見渡し、若王は言った。
ニックはにこりと笑ってから「そういえば」と目を細めた。「戴冠式がまだでしたね。やっと正式に王になれますよ」
「その件だが」
若王がかねてから思っていたことを伝えると、ニックは「奇遇ですね。私も同じことを考えていました」と微笑んだ。
◇
「え? もう少し考えたい?」
黒い紋様のことを話した時のトルーシスの反応を伝えると、キリルは目をしばたたかせ、にこりと笑った。
「いいね。ちょうど僕もラジャトと話して分かったことがあったんだよ」
ここは書庫守に特別に与えられた天幕の中である。
キリルが声をかけると、奥で帳簿を熱心に読んでいた青年が顔をあげた。
名はラジャトというらしい。歳はキリルより2,3個上だろうか。
いかにも頭の切れそうな顔つきだ。きりりと通った鼻筋に、眼鏡をかけている。
驚いたことにふたりは幼なじみだという。
キリルはラジャトから帳簿を受け取ると、とあるページを指さした。
やけに単純な形の紋様が書かれている。
「ラジャトが興味深いことを教えてくれた。”鍵”というものがあると」
砂紋民の紋様は、意味を持たない紋様――ラジャトは”鍵”と名付けたという――の二世代後に、革新的な情報が現れるという。
「すごいな。全然そんなこと分からなかった」
思わず呟くと、キリルはふふんと自慢げに笑った。「これが”東ノ国の天才”の力だよ。ま、僕には劣るけどね」
ラジャトは苦笑した。
「さっきキリルと話してたんだ。おそらく書庫守のところには、”鍵”は選別されてほとんど回ってこなかった可能性が高い。意味を持たないからな」
「なるほど」
話してみると、ラジャトは研究肌ではあるものの、普通に好青年だった。研究に全振りし、すこし人格に難ありのキリルとは違う。
キリルはすでに俺らの会話に退屈して、何か別のことを考えている。
「黒い紋様も、その”鍵”も初めて見た。非常に興味深い……」
ラジャトは興味深そうに帳簿をめくる。
「ん、これは」
レオラの紋様の写しをじっと見つめる。
「これも”鍵”だ。しかも、まだ最近の写しだ」
「あぁ。この前写し取ったばかりだからな」
何気なくそういうと、ラジャトは仰天した。
「まだ生きている、ということか?」
ラジャト曰く、生きている”鍵”には今まで一人として出会えていなかったという。
「その者に会いたい。”鍵”の秘密が分かるかもしれない」
その必死な声色に、俺は頷いた。




