第58話 夜 2
デイトンと別れると、白い砂の丘を乗り越え、帝都の外へと出た。
少し先に、野営をしている東ノ国の陣営が見えた。見つからないように馬を迂回させながら、荒野をひた走る。
……おそらく鋼主がいる本隊の陣営の付近に、ネルもいるはずだ。
拷問をうけている可能性が高いだろう。
蹄の音が聞こえ、私は適当な茂みに身を隠した。
しばらくしてから、続々と進軍する鋼主軍が姿を現した。東ノ国の旗が掲げられている。本隊だ。
それをやり過ごし、私はまた荒野を駆け――ひとつポツンと取り残されている天幕を見つけた。
……これはまずい。
思わず天を仰ぐほど、ネルの状態は悪かった。
天幕の中には、瀕死のネルがいた。なぜか拘束は外されている。
となりには既に冷たくなっている男がいる。一見、自然死のように見えるが、殺されたのだろう。
ネルも危ういが、息はある。
この状態を見たら、リュシアはどう思うのだろう。
一瞬だけ、そんな感傷がわいたが、すぐにネルを背負い、馬を駆った。
◇
「リュシア。そろそろ眠れ。お前が倒れたらどうしようもないぞ」
「……分かりました」
俺の言葉にリュシアは静かに頷いた。
闘技場の”番人”として働いている間、多くの瀕死の奴らを助けてきた。
予断を許さないトルクと同じく、運ばれてきたネルの状態はすこぶる悪かった。
「やれることはやった。あとはこいつの回復力を信じるだけだ」
「そうですね」
リュシアは静かに頷いた。
ネルをここまで運んできたのは傷という女だったが、しばらくしてこのリュシアという女が駆けつけた。
東ノ国から来たらしい。
リュシアはなかなかテキパキと立ち働き、俺の治療を手伝ってくれた。
時折ネルに向けるまなざしの強さからして、おそらくネルを想っているのだろうが、全くもって冷静さを失わない。
普通、愛する人がこんな状態になれば、泣き喚いてもおかしくないのに。
「では、10分寝てまた戻ってきます。10分で回復しますから」
「……おう」
いや、冷静に冷静さを失っているのか?
ふと、リュシアは懐から袋を取り出した。中の白く輝く粉を、ネルの枕元の燭台に振りかける。
とたんに、炎がボワッと燃え盛り、あたりが昼間のように明るくなった。
「ん、何を入れたんだ?」
「白銀鉄が割れた後の粉です。前、こうしたら生き返ったことがあって。……ただの願掛けです。ここは紫煙花の毒はありませんから」
リュシアは自嘲気味に微笑んだ。
「まあ、願掛けでもなんでも可能性のあるものはなんでも試せ」
リュシアからその粉を少し分けてもらうと、トルクのそばの燭台にも入れてみた。
――これはいい。夜でも手元が見えやすくなった。
◇
一方、牢の中のトルーシスは。
作戦会議の後、僕は牢に戻り、一人でぼんやりとしていた。
今頃、レオラはデイトンたちを塔から助けた頃だろうか。
静かな足音がした。誠実な足音。
「トルーシス、恩赦だ」
若王は、自らの手で鉄格子を開けた。
「そなたようの天幕を用意した。今日は牢ではなく、天幕で眠れ」
「いえ。身に余る待遇です」
驚いて首を横に振ると、若王の白い手が僕の手を包んだ。
「お願いだ。……どうか」
若王は苦しそうに目を伏せた。「鋼主はとても強いと聞く。それに、戦争が終われば、私はそなたを罪人として処罰せねばなるまい……」
その後は言葉にならないようだった。奥歯を噛みしめて足枷と手枷を外していく。
「今日くらいは好きなように過ごしてくれ」
語尾を少しだけ震わせ、若王は去っていった。
……若王の気持ちを無下にもできない。
牢を出て用意された天幕へと入る。柔らかい寝台へともぐりこんだが、慣れないその場所では、なかなか眠りは訪れなかった。
そっと寝台の毛布を持ち、天幕をあとにした。
牢に戻ると、そこにはポツンとレオラがいた。
相変わらず手枷で拘束されている彼女は、牢の小さな明り取りの窓を開け、空を眺めていた。
牢の入口は開いていた。
「風を読んでいるのか。熱心だな」
声をかけると、レオラはぎょっとしたようにこちらを向いた。
「な、なんでここに来たの。恩赦で天幕で眠れるはずじゃ――」
「ここで、一緒に過ごしたいと思って」
そう言うと、レオラは押し黙った。
開けられた窓から、風がふきこんでいる。
「北西からの風か」
言いながら、その肩に毛布をかけた。
「これは?」
レオラは目を丸くして毛布を見た。
「天幕から持ってきた。いつも牢で君は少し、寒そうにしていたから」
「……ありがとう」
うつむいて小声で言う、そんな仕草がおかしかった。
「今日は静かなんだな」
そう言うと、レオラは口を尖らせた。レオラは本当に表情豊かだ。
「じゃあさ」とレオラはいつもの調子に戻って言った。
「どうせなら一緒に毛布にくるまって空をみようよ。明日の天候を解説するよ。なーんてね。冗談、冗談……!?」
レオラが驚くのを横目に、さっと肩を寄せて隣に座り、毛布に入る。
「分かった。温めてやるよ」
その体を後ろから抱きしめる。我ながら、ずるいな、と思った。本当は、温めて欲しかったのは僕の方だ。
レオラの心臓の音が聞こえる。
いや、僕の心臓の音か? この際、どっちでもいいか。
「……生きてる人間は温かいな」
そう呟くと、レオラが「なに、その感想」と呟いて、少しだけ身じろぎをした。
「窓、閉めようか」
「いや、いい。寒い方がいい」
この腕で、その温かさをしっかりと感じたかった。
「……何それ」
ぶっきらぼうにレオラが言った。
「解説してくれるんだろ。明日の天候は?」
尋ねると、レオラは「そうだったわ」と小窓から見える空を、射貫くような眼差しで見つめた。
黒く輝く瞳と、今日は距離が近い。
僕を何度となく救ってくれた、ゆらがない瞳。
その下の形の良い唇に思わず視線が行き、すぐにそらした。
「雲が流れるスピードが早い。きっと明日は強い風が吹くわ。空気も乾燥しているし、火を扱うにはもって来いよ」
「風向きは?」
「西ね。でも午後には東に変わるわ」
「勝負は午後か」
「えぇ、多分ね……」
そんな風に僕らは時間を過ごした。心が、少しだけ温かくなった気がした。
◇
誰かが牢に近づいてくる気配がして、そっと毛布から出た。
途端に、傍らにあったぬくもりを失い、喪失感だけが残った。
――温かさなど、知らない方がよかったのかもしれない。
最後に眠りこけているレオラの顔を見つめ、それで終わりとした。
顔を現したのは、予想通りニックだった。
レオラを起こさぬよう、静かに牢を出る。
「皆が夜通し作業をして、君の言う通りに砂を配置したよ」
ニックもその監督で寝ていないはずだが、そんな疲れは微塵も見せていない。
礼を言うと、ニックは笑った。
「まったく、天幕にいないから驚いたよ。いい夜を過ごせた?」
最後はささやくような声だった。
「はい。ですが、レオラには悪いことをしました」
ニックは僅かに口元を引き締めた。
「死ぬ覚悟か」
「はい」
端的に言うと、ニックはしばらく黙ってから口を開いた。
「拷問を受けていたネルが助け出され、意識を取り戻した。ネルによれば鋼主の本当の名は、ファクトル、ということだ」
――やはり。厳しい戦いになるだろう。
決められたところまでたどり着くと、ニックは「じゃあまた」と言って姿を消した。
朝焼けが始まったころ、僕はそこに火をつけた。ボワッと炎が立ち上り、みるみるうちにあたり一帯に広がっていく。
ついに始まった。
兄さんとの戦いが。




