第45話 過去
一週間後。
「……お前も物好きだな」
鋼主の部屋の扉を叩くと、ガチャリと扉が開いた。なんと、鋼主自らが開けてくれた。
足の踏み場がなかった部屋は、少しだけ綺麗になり、いつからか私のために用意された座り心地の良い椅子のところまで歩けるようになった。
いい頃合いだ。
「じゃあ、今日は私について質問してくれると嬉しいな。いつも西ノ帝国のことばかりだから」
少しだけ甘えた声を出してみる。
いつもの机の前で、地図と思わしき紙を眺めていた彼は、数秒沈黙した。
攻めすぎたかな? 少し心配になった時。
「……歳は?」
いつもと同じ低い声。いつもと同じように目線は机の上。
「19よ。どう? 予想通り?」
いたずらっぽく微笑んでみる。
鋼主は私の問いかけには答えずに、重ねて聞いてきた。
「生まれは?」
「西ノ帝国の砂紋民の村。北の方の貧しい村だったわ」
「なぜ密偵として東ノ国のために働いた」
慎重に言葉を選んだ。
「東ノ国が私を救ってくれたの。あの地獄のような村から」
鋼主がじっと耳を傾けた気配がして、私は一息に続けた。「お父さまは、私をよく殴ったの。東ノ国に来て初めて自由になれた。だから、恩返しがしたくて」
不幸は武器だ。
健気さも武器。
使えるものは使ってやる。
「そうか」
鋼主は呟いた。
「鋼主様の過去も聞かせて?」
立ち上がって傍へと近寄ろうとすると、床に散乱していた本に躓いて転んだ。
「いたっ……」
転び方が悪かった。とっさについた手のひらに本の角が食い込み、じわりと血が滲んだ。
正確には、全て計算の上だけど。
「大丈夫か?」
鋼主が立ち上がる。
つれたっ! あとは近距離から上目遣いで――
そう思った途端、胸ぐらを掴まれ、そのまま乱暴に引き上げられた。
え? え?
突然のことに頭が追いつかない。
「どうしたの? 鋼主様」
尋ねてみるが、返答はない。
数秒間、鋼主は覆面ごしに私をじっと見つめたあと、静かに口を開いた。
「……嘘か」
鋼主は私の胸ぐらを掴む手に力を込めた。
「本当に殴られていたなら、もっとこの動きに身構えるはずだ。どうせ大した苦労もなく育ってきたくせに」
かすかに嘲るような口調。それが私の中の何かを刺激した。
「……違うわ」
見抜かれた。その悔しさといろんな感情がないまぜになって声が震えた。
◆
「お父さま! これ、お父さまのためにつくったの!」
私の家にこなくなったお父さまは、村の中心の一番大きなお屋敷にいた。
何日もかけて作った、お父さまの紋様入りの巾着を差し出すと、お父さまは首を傾げた。
「君は、誰だったっけ?」
どっと笑いが起きた。お父さまの周りには、たくさんの綺麗な女性たちがいて、私に嘲るような視線を向けた。
「かわいそうに。顔も覚えてもらえないなんて」
屈辱。己の身を焦がすそれを、私は6歳で味わった。
「お母さま! 聞いてください!!」
勢いこんで家に戻ると、お母さまはそんな私の様子を見て、一つ大きいため息をついた。
「シェムリでもダメだったか」
……え?
それからお母さまは夜、よく家を空けるようになった。
そして、家に戻って来なくなった。
お母さまもお父さまも来ない家で、私はなんとか食いつないだ。
家を売らないか、と何度も村の人から言われた。
正直、家を売って生活の足しにしたくてたまらなかった。寝る場所は野宿でもなんとかなるが、空腹は耐えがたかった。
それでも、私は家を手放さなかった。
もしかしたらお父さまとお母さまが戻ってくるかもしれないから。
しばらくたって、10歳になった頃。
家の中でぼんやりしていると、懐かしいお母さまの声が外から聞こえた。
もしかして! 帰ってきてくれたの!?
期待に胸を膨らませて戸口に出ると、お母さまの隣には、全く知らない男がいた。
そして、お母さまは幼い子どもを抱えていた。
お母さまと目が遭った。
「あ……」
お母さまが目を見開いて、何かを言いかけたとき。
「だれ? この子?」
お母さまの隣の男が、私を指さしてめんどくさそうに言った。
「……さぁ。誰だったけな?」
その言葉が、お母さまの口から出た言葉だと理解するまで、時間がかかった。
理解ができると、急速に心の芯が冷えていった。
「私も知らないわ。こんな裏切者の女」
そう吐き捨て、家を出た。
東ノ国の兵が村を襲ったのは、そのすぐ後のことだった。
捕えられて東ノ国へと行き――回廊の部屋で、私は名前を覚えてもらえるようになった。夜、男たちは耳元で、私の名を何度となくささやいてくれた。
でも、熱が冷めたら、すぐに別の女のもとへ行ってしまう。結局、私の名前は忘れられていくのだ。
そんな思いが、頭の中を駆け巡った。
「誰も私のことなんて見てくれない。それは暴力よ。お父さまもお母さまも私を忘れた。だから私は絶対に自分の子どもを忘れない。そして、くだらない男たちに――いや、この世界に、強く、私の存在を記憶させるの!」
ほとんど叫ぶように言った。
笑い声がした。その声が鋼主のものだと気づいてぎょっとした。鋼主は喉の奥で笑いながら尋ねてきた。
「それがお前が密偵になった理由か」
「そうよ。自分を裏切った人のことは、ずっと覚えているでしょう? 王と若王はきっと忘れないわ。この私を」
「狂った女だ」
鋼主がまた笑う。
覆面の下で鋼主はどんな顔をしているのだろうか。
しばらくたってから、鋼主は少しためらったあと、静かに続けた。
「先ほどの言葉、撤回する。お前は苦労してきた。娘の身で、よく生き抜いた」
思いがけない言葉だった。
私の過去を悟ったかのような声の調子でもあった。
そんな言葉を、今まで誰にもらったことがあっただろうか。
鋼主は私の手をとると、先ほど転んだ時に血が滲んだ傷口を舌先でそっとなめた。覆面から唇が少しだけのぞいた。
「……懐かしい味だ」
沈黙。
覆面で相変わらずその表情は分からない。
ど、どういう意味?
さすがの私でもこれは反応に困るわ。
なんだかもう、どうでもよくなったし、踏み込んでみるか。
「私も一緒に味わいたいなぁ。その味」
私は顔を寄せ――覆面ごしに口づけをした。
鋼主が大きく動揺したのが分かった。
私の体を突きとばす。どうやらうまく突き飛ばしてくれたようで、部屋の隅の柔らかい寝台が私を吸収してくれた。
「お前、やっぱり狂ってる」
「別にいいでしょ? 狂ってても」
私は笑った。「悔しいなぁ。狙いを外しちゃった。唇じゃなくて顎だったよね? ――次は外さないよ」
もう一度、と上体を起こしかけて、その試みは失敗に終わった。
鋼主の方から私の唇を狙ってきたからだ。
私は寝台の上に倒れた。覆面ごしではない、生の唇が私の唇に触れる。
そのまま深い口づけをかわす。
「……どうだ。味わえたか」
その声は、若干息があがっていた。
「うーん、ちょっと薄くて分からなかったな」
上目遣いに見上げると、「仕方のない娘だ」と鋼主は笑った。
私たちはさっきよりも深く口づけをはじめた。
◇
傍らで鋼主が寝息を立てている。
さっきの口づけで分かった。
鋼主は――歯があまりなかった。老化で抜けたわけではないだろう。
ならば、思い当たるのは。
拷問か。
鋼主はどんなときも覆面をつけて顔を見せたがらない。
いや、顔だけではない。たえず首元まである黒い服を身にまとい、手には黒い革製の手袋をしている。
おそらく、鋼主には秘密がある。
ふいに、唸るようなうめき声が響いた。
鋼主が、うなされていた。
何かを言っているようだが、聞き取れない。
額にはあぶら汗が浮かび、少ない歯でギリギリと歯ぎしりまでし始めた。
「大丈夫?」
思わずゆすった。こういうときは起こしてやった方がいい。
鋼主はハッと目を覚まして上体を起こすと、覆面を揺らしてこちらを見た。
「君は?」
「シェムリよ。忘れたの? 酷くうなされてたわ」
革の手袋ごしにその手を握った。
鋼主は荒い息をついている。
私は立ち上がり、水を持ってきてやった。
その水を黙って飲み干し、鋼主は静かに言った。
「お前はもう帰れ」
「ううん。ここにいるよ」
その大きな背に体を預けると、波打つ心臓の鼓動が聞こえた。「どうせあなた、もう寝れないでしょ? 付き合うよ」
鋼主はしばらく黙ったあと、静かに呟いた。
「……悪い夢を見た」
「どんな夢?」
「昔、西ノ帝国にいた時のこと……」
そして、呟くように語りだした。過去の話を。




