第39話 夜
ずっと声が聞こえていた。
「早く私の前から消えておくれ」
母の、いまいましげな声。
「呪われた黒い紋様だ! 殺せ!」
砂紋民たちの恐れと怒りの混じる声。
「この国を乗っ取ろうとした売国奴め!」
これは仲間の声だ。そして僕は檻に入れられ――
はっと目を開けた。嫌な夢を見た。心臓がドクドクと脈打っている。
ふと、毒消しの薬草の匂いがした。
いつの間にか、寝台の上にいた。脇にあるランプが柔らかな光を放っている。
傍らによせた机に突っ伏し、寝息を立てていたのはレオラだった。
腹の傷口は綺麗に消毒され、包帯が巻かれている。
――レオラが手当てをしてくれたのか。
会話などしたくなかったのに、レオラは目を覚まし、むくりと体を起こすと破顔した。
「気づいたのね。良かった」
「……毒か。手を煩わせた」
ヒスタロスがレオラに傷のことをほのめかしたのか?
「ごめん。戦いの前に剣に毒が塗られている可能性を言っておくべきだった」
レオラが頭を下げた。
沈黙が二人の間に降りた。
「気にするな。ただ、僕の腕が落ちていたんだ」
前なら、毒が塗ってあることにも気づいたし、そもそも全ての攻撃をかわせたはずだ。
レオラが首を横に振り、うつむいた。
「私がもっとうまく動ければ――」
「いや。君の動きは素晴らしかった」
レオラにかぶせて言った。「初めて見た。あんな風を巻き起こすような槍さばき」
僕が騎士の剣をことごとく割ることができたのは、レオラの縦横無尽に動く槍の援護があったからだ。
「君の槍は、大勢を相手にしたときの方が真価を発揮するな」
明らかに、僕と一対一で戦ったときよりも、その動きは洗練されていた。
「……え?」
レオラは驚いたように顔をあげた。
目と目が遭う。
レオラが顔の紋様に視線を向けたのが分かった。
まずい。化粧を落としていた。
「……綺麗な紋様ね」
呟くように言って、僕の頬に手をのばす。
一瞬、言葉が出なかった。
昔は、この頬の紋様のせいで、さんざん蔑まれた。
「あなた、砂紋民のために戦ってたのよね。こんなに傷跡を作ってまで」
レオラが僕の傷だらけの体に視線を落とす。
「昔の話だ。思い出したくもない」
ごろりと背を向けた。腹の傷が痛んだが、無視した。
レオラは「そう」と呟いてから、僕の左腕に長く伸びる、一番古い切り傷にそっと指先で触れた。
幼少期に村で、『呪い』と罵られ、つけられた傷だった。
僕の体には、敵と戦って受けた傷以上に、同胞達からの暴力の跡がある。
だから、この体を見るのは、無力な自分を再確認するようで、ひどく嫌だった。
傷跡をなぞるレオラの指先が、何かに気づいたかのように不自然に止まった。
「……違う。こんなに傷跡をつけられたのに、戦っていたのか」
――気づかれた。
「やめろ。見るな」
つい声が苛立つのを抑えられなかった。反射的に寝台の脇にあるランプを消す。
暗闇。
「……美しい」
ぽつりとレオラの声が聞こえた。
「え?」
意味が分からず、思わず尋ね返した。
レオラの指が古い傷をそっとなぞる。
「紋様も美しいけれど、この傷が示す生き様こそ、真に美しい」
「……」
そんな風に言う人は初めてだ。この感情をなんと表現していいか分からない。
とっさにレオラの手を払いのけた。
「もう帰ってくれ。それから…………ありがとう」
言い淀んでから最後に出た言葉は、かすれてほとんど聞き取れないほどだった。
だが、レオラの耳には届いたようだった。
レオラが一瞬息をのむ気配。そして、立ち上がる衣擦れの音。
「ゆっくり休んでね」と言い残し、レオラは静かに部屋を出ていった。
しばらく暗闇を見つめて、ようやく分かった。
幼いころ、兄さんに顔の紋様を美しいと言ってもらえた時の気持ちに似ている。
久しぶり過ぎて忘れていた。
これが多分、嬉しさ、というものだ。
◇
トルーシスの部屋の扉を閉めると、私はその扉に背を預けた。
心臓が早鐘を打ったようにうるさい。まるで戦いの後のようだ。
「お、嬢ちゃん。そんなところで何してるのさ? 俺の部屋で一緒に飲む?」
遠くから酒瓶を片手に歩いてきたヒスタロスが私に気づいて陽気に声をかけた。
息が酒臭い。相当飲んだのだろう。丁重にお断りして尋ねる。
「あなた、トルーシスが怪我をしてたこと、気づいてたの?」
トルーシスの部屋の扉が僅かに開いており、床にこぼれたヒスタロスの酒が廊下まで流れていたから、異変に気づくことができたのだ。
「さあ?」
ヒスタロスがとぼけた。そして私がいる場所がトルーシスの部屋の前だと悟ると、残念そうにした。
「なんだ。ずっとトルーシスの部屋にいればよかったじゃないか」
「いれるわけないじゃない。帰れって言われたわよ」
「はぁ? なんなんだよ、あいつ」
ヒスタロスが口をへの字にした。
「でもいいの。……ありがとうって言ってくれたし」
「当たり前じゃないか。こんなに綺麗な嬢ちゃんに看病してもらったんだから」
「いや、なんかこう……形式だけじゃない、もっと、心からのありがとう」
「へぇ」ヒスタロスが目を丸くした。
それからふっと微笑んで、私の頭にポン、と手をのせた。
「よかったな、嬢ちゃん」
その声が思った以上に愛で溢れていて驚いた。
顔を見ようと視線をあげたのに、ヒスタロスはもう歩みを進めていて、その大きな背中しか見ることはできなかった。
ヒスタロス。
陽気な性格で、私たちに混じっても違和感がないが、おそらく35歳は過ぎているだろう。
妻子がいたのだろうか。
まるで、自分の娘に接するようだった。
トルーシスもヒスタロスも謎が多い。
ま、今考えても始まらない。
明日も明日で大事な予定がある。
……デイトンは元気にしているだろうか。
そんなことを思いながら、私は自分の部屋に入り、泥のように眠った。
◇
「おい、トルク。しっかりしろよ」
背負ったトルクを部屋に運び入れ、寝台に寝かせてやるが、ぐったりとしている。
……飲みすぎたか。
ずっと闘技場にいたトルクのことだから、酒を飲むのは初めてだっただろう。
その背を起こし、水を飲ませてやる。
懐かしい。俺も初めて酒を飲んだ時、こうして兄さんが――
「……ガレン」
トルクが急に目を覚まして、恥ずかしそうに微笑んだ。「ありがとう。みっともないな。酷く頭がいたい」
「他のみんなも酔いつぶれてる。気にするな」
トルクは俺の言葉に顔をほころばせてから、にこりと笑った。
「ガレン、ずっとレオラのこと見てたよね」
……ヒスタロスと同じことを言ってきやがる。
心の中でため息をついてから、ヒスタロスには言わなかったことを言った。
「たぶん、レオ中佐だ」
「え?」
トルクが瞬きをした。
「雇われて北ノ国と戦っていたときに、破格の強さの騎士がいた。小柄で、やけに綺麗な顔をしていると思っていたが、女だったのか」
トルクが目を見開く。
「……中佐。誰もがなれるわけじゃない階級だよね」
「あぁ。しかも最年少でなったらしい。ある日、急に見なくなったと思っていた」
「さすが、大それたことを言うだけあるね」
にこにこと笑うトルクに頷いた。
「あぁ。帝国を滅ぼして、新しい国を作るなんてな」




