第35話 購入
「待て。その男、銀貨2枚でどうだ」
その声の主は、あの闘技場の主催者だった。
剣奴たちの戦いを残酷な笑みを浮かべながら、安全な観客席でいつも見ていた男。
そして、ザルクを――。
束の間、どす黒い怒りが胸の奥で沸き上がった。
だが、それを表に出さない程度には、理性が残っていた。
僕はあの闘技場で死んだ。生きていることを悟られてはならない。
「これはこれは、ルフラン様!」
商人はうやうやしく礼をして、営業用の笑みを浮かべて親しげに話し出した。
「誰、あいつ? なんか高そうな服着てるけど、偉いやつなの?」
大男は能天気な声色のまま、声をひそめて尋ねた。
「闘技場の主催者、ルフランだ。剣奴を探しにきたんだろう」
「闘技場? 剣奴? なんだそれ?」
ヒスタロスが首をひねる。
昔の記憶が一瞬、浮かんでは消えた。
「この帝都で一番の娯楽だ。剣奴となった奴隷が戦いを繰り広げ、その様子に民衆は熱狂する」
「へぇ、趣味悪いなそれ」
ヒスタロスが呟いた時、ルフランの声がした。昔と変わらない、傲慢な声だ。
「大男。私がお前を銀貨2枚で買う。そんな若造に買われるよりもずっといいぞ」
「え~、そんなのやだなぁ」
頭をボリボリとかく大男をよそに、ルフランは奴隷商人に銀貨2枚を差し出した。
思わず口を開いた。
「……銀貨3枚」
奴隷商人とルフランが驚いたようにこちらを見る。
「銀貨3枚出す」
もう一度はっきりと言った。
「おぉ!! いいぞ兄ちゃん! 頑張ってくれ!」
大男はなぜか僕を応援し出した。
「フン、若造が。じゃあ金貨一枚でどうだ。さすがにもう出せんだろ」
ルフランは懐から光輝く金貨を出すと、こちらに見せつけた。
「やば。西ノ帝国の金貨じゃん」
大男が頭を抱える。他国と比べても西ノ帝国の金貨はきわめて純度が高い。最近は価値が目減りしているが、一枚あればひと月は遊んでくらせる。平民は到底手が届かない金額だ。
……このとき、張り合わなければ良かったのだ。僕らしくなかった。
「……」
僕は無言のまま、懐から金貨2枚を出した。ルフランの顔色がさっと変わる。
大男がヒュウ、と口笛を吹いて、調子よくはやし立てた。
「やるう! さすが兄ちゃん! 太っ腹!」
ルフランは表情をゆがめ、眉をひそめた。
「何者だ? 金貨2枚持ってるなど平民ではないな? でも貴族でもないだろう。身分証を見せろ」
ここで断ったら、逆に波並が立つ。
大丈夫だ。僕はもう、過去の僕ではない。
動揺を悟られないように表情を消し、懐から身分証を取り出した。
『名前:テルシヴァン 身分:奴隷(砂紋民) 所有者:カヌラ・ローレンス』
「なんだぁ、お前」
ルフランはニヤリと笑った。「カヌラんところか。あいつは奴隷に給料をやる変人だからな。いいよなぁ、女と遊んで金が入るなんてよ。おい、商人。私を優先してくれるよな?」
ドスのきいた声を向ける。どうやら手持ちは金貨一枚らしい。
商人の目がわずかに、だがはっきりと泳いだ。迷っているのだ。
「おいおい、あいつは砂紋民で奴隷だぞ。あんなやつと取引するのか?」
明らかな軽蔑の響き。自分たちが上だと微塵も疑っていない言葉。
……腹が立つ。
懐からもう一枚金貨を取り出して、商人の足元に放った。
チャリン、と金貨は小気味良い音をたてて転がる。
「すげぇ! 兄ちゃん、金持ち!」
大男が拍手喝采をした。
商人は、金貨を拾うやいなや、すぐさまルフランに背を向け、僕に大男の契約書を差し出した。
ルフランはギリギリと歯ぎしりをした。
「……なんたる屈辱」
低く吐き捨てると同時に、腰から剣を抜き放つ。
鋭く銀色に輝く刀身。――最高峰の白銀鉄の剣だ。
怒りに任せてその剣を振り下ろす。
確実に僕を殺そうとした一撃。
都合が悪いことに、僕はさっきから冷静さを欠いていた。
愚かだった。冷静さを失うことほど、戦いで命取りな行為はない。
ルフランがふるう剣の軌道がはっきりと見えた。
腰に、カヌラからもらった銅製の短剣が刺さっている。
剣をふるったのは5年ぶりだった。
それでも、体は昔の動きを覚えていた。
パリン!
高い音があたりを震わせた。
同時に、ルフランの白銀鉄の剣は、白い粉となって地面に散らばった。
「なぜ……」
呆然とするルフラン。商人も言葉を失っている。
「すげぇ! 兄ちゃん!! 白銀鉄製の剣を砕くなんて! ヤバいよ! 惚れちゃう!」
大男の言葉に、とたんに我に返った。指先から血の気が引いていく。
……まずい。
「……お前」
ルフランは僕の顔を凝視してつかつかと歩み寄ると、胸ぐらを乱暴につかんだ。
体は、硬直して動かなかった。
「紋様はないが、似てるな。……トルーシスか?」
その目がぎらついた。「殺せ!」
怒りで体を震わせながら、部下に指示を出す。
一斉に部下の白銀鉄の剣がひらめいた。
僕は、自分を止められなかった。
◇
「いやぁ~、兄ちゃんすごいな! 白銀鉄の剣を片っ端から砕くなんて!」
大男は愉快そうに笑って、痛いくらいに力強く僕の肩を叩いた。
膝を抱えて黙りこくる僕に、口を尖らせる。
「どうしたんだよ。元気出せよ。あの偉そうなやつらなら撒いたじゃないか」
ここは帝都の外れの、うっそうと茂る森の中である。
泉のほとりで僕らは腰を下ろしていた。周りには紫煙花が咲き乱れている。
ルフラン達の剣を全て砕いた後、僕はその場から逃げ出すほかなかった。
当然、大勢のルフランの部下に追われることになった。
なぜか一緒についてきたこの大男と共に複雑に入り組んだ裏路地を駆け抜け、追跡をまき、この森に逃げ込んだのだった。
……身分証を見せてしまった。カヌラに迷惑がかかる。
心の中で重いため息をついた。
既に虚華亭の営業時間は過ぎている。今日は大丈夫だろうが、明日が心配だ。
そんな僕の胸中を察することなく、大男は生真面目に頭を下げた。
「俺はヒスタロス。旅の途中だったんだが、へまをして奴隷商人に捕まっちまった。闘技場には行きたくなかった。ありがとな」
屈託のない笑顔を僕に向ける。
「兄ちゃん、ただもんじゃないな。あのルフランってやつと昔、何があったのさ?」
「……過去はもう、忘れたい」
懐から煙管を取り出した。火をつけ煙を吸う。
これからどうすればいいのか、よく分からない。虚華亭では、もうやっていけないだろう。
ヒスタロスはふっと笑った。
「忘れたいことってのは、たいていの場合、忘れられないんだよな。まったく、困っちまう」
どこか翳りを帯びた声だった。
月明かりが、隣に座る大男を静かに照らしている。
この辺りでは見ない顔立ちだ。彫りが深く、ぎょろりとした大きな瞳に、がっしりとした顎。
紋様に帝国の入れ墨はない。異国人だろう。むき出しの上半身には、うっすらと無数の鞭の跡がある。
この男もまた、何かを抱えているのだろうか。
「む、その煙、紫煙花か?」
物珍しそうにしげしげと煙管を眺めるヒスタロスと目が遭った。
「あぁ。だが本当は吸わない方がいい」
頭の奥が痺れるような感覚と酩酊感。ずっとこれに酔っていたい。
「……へぇ。分かってるんだな」
ヒスタロスはそう言うと、自分も懐から煙管を取り出してうまそうに吸いだした。何を吸っているのか、白い煙が立ちのぼっていた。
しばらくそうやって時を過ごした後、僕はおもむろに立ち上がった。
「どこに行くんだ?」
ヒスタロスが眉をあげる。
「ひとまず、虚華亭へ」
せめて別れの挨拶くらい、しなくてはいけないだろう。




