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第112話 氷解


「ジグルステン。行くのか」

船の帆をあげ、今まさに旅立とうとする船上の男に、僕(ぼく)は思わず声をかけた。


ジグルステンはふっと目を細めた。

「トルーシス、レオラとうまくやれ。皆にもよろしく」


その寂(さび)しそうな背中に、続けて声をかけずにはいられなかった。

「きみは……あんなに憎(にく)しみと恨(うら)みのある国から来たのか。そこで育ち……何を考えてこの大陸にきた」


「故郷を美しくする方法を求めに。分かったようで分からなかった。じゃあな」

ジグルステンは無理するように笑った。そして船を漕(こ)ぎ出した。


「ジグルステン!」

よく通る女の声がして、ザバン、と海に飛び込む音がした。


「おっ、お前……!」

ジグルステンの動揺(どうよう)した声。海を泳いで、船に乗り込んだのはアリヤだった。


「私も行く。もうここまで来れば追い返せないでしょ?」

ずぶ濡(ぬ)れになった服を絞(しぼ)りながらアリヤは快活に笑った。


「馬鹿か。行くのは修羅(しゅら)の国だぞ。帰れ。デイトンと幸せになれ」

血相を変えてジグルステンが言い募(つの)る。


「私が本当にそれを幸せと思うとでも?」


「……俺はお前を幸せにできない」


「幸せにしてくれるから、男を選ぶの?」

ジグルステンは沈黙(ちんもく)した。結局アリヤを追い返すことはできなかった。






     ◇






「なんで。なんで」

さっきからニック――いや、ジグルステンはずっとぶつぶつと文句を言っている。


「もう。ちょっとくらいは歓迎(かんげい)してくれてもいいじゃない」

口を尖(とが)らせると、「とりあえずそのずぶ濡(ぬ)れの服を何とかしてくれ」とジグルステンは背を向けた。


「日の光で数時間もすれば乾(かわ)くけど、ダメ?」

と尋(たず)ねると、「……ダメだ」と返事が返ってきた。


困ったなぁ。着替(きが)えなんて持たずに勢いのまま来たしなぁ、と思うと、ふとリュシアからもらった砂紋民(ヌルム)の伝統着を思いだした。

夏とはいえど、海上は風が吹(ふ)いて少し寒い。

水をはじく革でできた鞄(かばん)に入れていた、その伝統着はふかふかと暖かく、濡(ぬ)れた服で冷えた体を温めてくれた。


「確かにあなたのいうとおり、着替(きが)えた方が良かったわ。ありがとう」

そういうと、ジグルステンは「……ん?」とこちらを向いた。そして、固まった。


「え、変? リュシアからもらったんだけど」


ジグルステンはしばし沈黙(ちんもく)したあと、「リュシアめ」と低くつぶやいた。

その反応があまりにも不自然だったので首をかしげて聞いてみた。


「何? まさか婚礼(こんれい)の衣装とか?」


図星だったらしい。ジグルステンは押(お)し黙(だま)った。

懐(なつ)かしさがあふれた。昔、育ての父の道場で一緒(いっしょ)に修行していた時のことを思いだした。

こんな風な会話をたくさんした。それが本当に心地よかった。


「じゃあ、もうここで婚礼(こんれい)しちゃおうよ。あなたも衣装持ってるんでしょ?」


冗談(じょうだん)のつもりだったのに、ジグルステンはしばらく沈黙(ちんもく)した後、おもむろに立ち上がると、荷から何かを取り出し、ばさりと羽織った。

金糸で紋様(もんよう)の刺繍(ししゅう)が入った、濃紺(のうこん)の伝統着だった。

カラカラと音をさせて、虎(とら)の牙(きば)が連なる首飾(くびかざ)りも取り出すと、自分の首にかけた。


「すごい……」

似合いすぎて困るほど、良く似合っていた。

求婚(きゅうこん)の言葉でも飛び出すのかと思いきや、ジグルステンはただ黙(だま)って船のへりに腰(こし)を下ろし、帆(ほ)を操っていた。


とりあえず私はそんな彼の様子を見ていた。

伝統着の襟元(えりもと)には、ウサギか何かの毛皮がついている。重厚感があってそれでいて動きやすそうだ。

とにかくジグルステンに良く似合う。地毛の色に戻(もど)した黒い髪(かみ)と濃茶の瞳(ひとみ)に、伝統着の紺(こん)と金の刺繍(ししゅう)がよく映えた。


ふと、ラジャトから餞別にもらった、たかが羽ばたいて彼の肩(かた)にとまった。

――完璧(かんぺき)だ!

思わず小さく手をたたくと、ジグルステンが渋(しぶ)い顔をした。


「そんなに見られると困る」


「だって似合うんだもん」


「……これを君の父上からもらったときは、似合う日なんて来ないだろうと思っていた」

ジグルステンはそう呟(つぶや)いた。どこか遠い昔を思いだすように。

その横顔がなんとも言えず寂(さび)しそうで、思わず体が動いた。


「ねぇ、」

ジグルステンの隣(となり)にさっと腰(こし)を下ろすと、その手をとった。

思った通り、冷えた手だった。デイトンの温かい手とは違(ちが)う。


ジグルステンがぎょっとしたようにこちらを見た。


「婚礼(こんれい)、しないの?」


ジグルステンはついと視線をそらすと、目を閉じ首を横に振(ふ)った。

「しない」

同時に私の手をさっと払(はら)う。


思わず口を尖(とが)らせた。

「じゃあなんであなたも婚礼(こんれい)の衣装、着たのよ」


「これは婚礼(こんれい)の衣装じゃない。ただ黒紋民(クルム)の族長に代々(だいだい)伝わるものだ」

ジグルステンは素っ気なく言った。


「じゃあ、どうしてそれを着たの?」

思わせぶりな態度はやめてほしい。


しばらく沈黙(ちんもく)が船上を支配した。

根気強く待っていると、ぽつりと低い声でジグルステンは呟(つぶや)いた。


「さっき、一瞬(いっしゅん)だけお前と婚姻(こんいん)して、そして別れた」


「は?」

思わずぽかんと口を開けると、ジグルステンは淡々(たんたん)と言葉を紡(つむ)いだ。


「向こうの国では、俺はフローレンス人の妻を迎(むか)える必要がある。国内のバランスをとるためだ」

その口調が一瞬(いっしゅん)揺(ゆ)らいだ。「だが、ひとときでも自分の心に素直になり、お前の気持ちに応えたかった。……アリヤ」


ジグルステンは私に向き直った。

ほんの一瞬(いっしゅん)――苦しそうな表情が浮かび、先ほどまでの静かな王の顔に戻(もど)った。


「海の向こうの国についたら、お前はすぐにあの大陸へ帰ってくれ」


間髪(かんぱつ)入れず、首を横に振(ふ)った。

「私をあなたのそばにおいて。護衛でも側室でもなんでもいい。ずっとこの手を隣(となり)で温め続けるから」


ジグルステンは目を閉じた。

「ダメだ。俺は今度こそ国王としてフローレンス人の妻を愛する必要がある。お前がいたら――それができない」


思わず唇(くちびる)を噛(か)みしめた。

ジグルステンの考えていることがよく分かったからだ。

私がもし彼の立場だったら、同じく私を追い返しただろう。


だが、こんな無責任な、未練にまみれた質問をしてしまうくらいには、私は彼に強く惹(ひ)かれすぎていた。

「あなたは本当に、それでいいと言っているの?」


「それを聞くな、アリヤ」

ジグルステンは少しだけ震(ふる)える声でそう言うと、私に背を向けた。







     ◇






長い船旅を終え、俺たちはついに海の向こうの国についた。

アリヤと共に過ごした日々は、天から最後に与えられた贈り物のようだった。だが、それもここで終わりだ。


無人の港を狙(ねら)った甲斐(かい)があり、岸辺には人の姿は見えなかった。


「危険がないか見てくる。お前はしばらくまっていろ」

アリヤを船にとどめておき、まず先に俺は大陸へと足を踏(ふ)み入れた。


数歩、歩く。

首筋が汗(あせ)ばむ。嫌(いや)な動悸(どうき)がする。


懐(ふところ)には、リュシアからもらった紫煙花(シエカ)がたっぷりと入った煙管(キセル)が入っている。


ふと、トジンの声が聞こえた。


「憎(にく)いか、ジグルステン。この大陸の者たちが」

確か、俺がトジンを刺(さ)してしまったときの記憶(きおく)だ。


――憎(にく)い。

そう答えたことを昨日のように覚えている。

フローレンス人たちを、周りの者たちを――全てを拒絶(きょぜつ)していた。



その鮮烈(せんれつ)な記憶(きおく)は、まだ心の中に燻(くすぶ)っている。

皆(みな)はすっかり消えたと思っているだろう。

だが、確かにまだ存在するのだ。この黒々(くろぐろ)とした気持ちが。


自然と手が動いていた。

懐(ふところ)から煙管(キセル)を取り出す。


この大陸の者は、紫煙花(シエカ)の毒に非常に弱い。

僅(わず)かな量でも簡単に死に至る。


この煙管(キセル)で―――


己の中の悪魔(あくま)がささやく。

幼いころからの悲願はどうしたのか、と。

フローレンス人を皆殺(みなごろ)しにしたかったんじゃないのか。なぜお前が王となり、フローレンス人とスタルトゥス人のために苦労をする必要がある?


アリヤはどうする。シャルテのようになるかもしれないぞ、と。

いや、アリヤは追い返せばいい。

追い返して、デイトンのものに……


自分の手が、煙管(キセル)に火をつけようとして、そしてその寸前で動きをとめたのを俺は黙(だま)って見つめて――

長い間そこにそうして固まっていた。


日が暮れ、夜のとばりがおちたころ、よろよろと膝(ひざ)を折った。

歯を食いしばり、唇(くちびる)を噛(か)みしめると、その煙管(キセル)を海に投げて捨てた。

たっぷりと入っていた紫煙花(シエカ)の粉末は、海に溶(と)けて流れていった。


海面にふと、トジンの顔の幻影(げんえい)が見えた。

『分かってたぜ。お前はそういうやつだろう?』

そう笑いかけて、トジンはすぐに消えていった。


トジン。

無性にトジンに会いたくなった。

あの強く、優しい男に――


その瞬間、温かい腕(うで)に後ろから抱(だ)きしめられた。

アリヤだった。

たまらず、その腕(うで)にすがりつく。


「……もう全てを終わらせたかった。全てを終わらせて、お前とどこか遠くへ――。でも、そんなこと、できるわけない。できるわけないんだ」


「うん。……そうだね。それでいいよ」

アリヤはそっと腕(うで)を伸(の)ばすと――わしゃわしゃと頭を撫(な)でた。


……トジン。

強烈(きょうれつ)にトジンを思いだした。

一族を殺された過去など、露(つゆ)ほども見せずに俺を育ててくれたあの強い男を。


「なんでこんなところまでそっくりなんだ」

静かに涙(なみだ)を流す間、アリヤはずっと抱(だ)きしめていてくれた。








空に星がまたたき始めたころ。


「……王。ジグルステン王」

なじみのある声に、はっと顔をあげた。

ターレンシェーンが、はだしで砂浜の上に立っていた。


「王ではない。さっき……お前もきっと、見ていただろう」

海面に目線をやって煙管(キセル)を探したが、もうそれは波に運ばれてどこかへと消えていた。


近づいてきたターレンシェーンはふっと笑った。

「お前を試しただけだ。あの煙管(キセル)はかの大陸でノーレスリャーンの部下となった者がすり替(か)えた、偽(いつわ)りのものだ」


目を見開くと、肩(かた)を労わるように叩(たた)かれた。ターレンシェーンが口調を改める。

「いろいろとお話したいことがありますが、まず一つ問いましょう」

にこりと口の端(はし)をあげ、首をかしげてみせる。「この女性《ひと》は?」


ハッとしたようにアリヤから逃(のが)れた。

「この女性《ひと》は――」


そう言いさし、かなり長い間沈黙(ちんもく)したあと、数歩動いてまたアリヤに近づき、そっとその手をとった。

「これからずっと隣(となり)に居てもらう人です」

少しだけ控(ひか)え目に言った言葉に、アリヤが目を見開く。

ターレンシェーンは目を細め、心底嬉(うれ)しそうな微笑(ほほえ)みを浮かべた。

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