第108話 私のすべて
夜の闇。
それがたまらなく恐ろしく感じるようになったのは、いつからだろう。
――あの頃からだ。
東ノ国を興し始めた時。
まだ新しい国に希望を持てていた時期だ。
◆
「鋼主様。――あなたは夜の闇が怖いのではありませんか」
思いがけずヘブライにそれを言い当てられ、体が脈打った。
「そんなことはない。怖いものなど、ない」
そういうと、ヘブライは柔和な顔で「そうでしたね」と微笑み、「お困りでしたらいつでも申しつけください」と頭を下げた。
半年後。
「お呼びですか」
ヘブライが私の寝室に姿を現した。
「きたか」
ヘブライが部屋に入ったのをみとめて、私は内側から鍵をかけ、明かりを消した。
部屋が暗闇で満たされる。
「ヘブライ。お前には今、どれくらい見える?」
「家具の輪郭がぼんやりと見えます。今日は満月の光が差し込みますから」
確かに、今日は満月らしかった。
だが、私にはそれを認識することすらできなかった。
「……私には何も見えぬ」
目を両手で抑えて呟いた。「数か月前からだ。致命的だ。これでは夜襲されたらひとたまりもない」
この時は、東ノ国の王家の残存勢力や西ノ帝国に、いつ攻撃されてもおかしくない状況だった。
「やはり闇の中での視力が落ちていますか」
ヘブライは僅かに眉をよせると明かりをつけた。
部屋が明るくなり、心底ほっとしていると、ヘブライは私に尋ねた。
「反対に、明るいところは驚くほど良く見えるのではないですか?」
……驚いた。何故分かる。
「お身体を拝見しても?」
ヘブライが丁寧に尋ねた。
「あぁ。頼む」
つけていた覆面を外し、服を脱ぐと下着以外何も身に着けずに寝台に身を投げ出した。
「これは……」
ヘブライは束の間絶句し、私の眼に光をあてて動きを見、肩や脚の筋肉に触って何かを確かめるようにした。
そして、ハッと目を見開くと、すぐに窓のカーテンを引いた。
いつも落ち着いているヘブライにしては珍しく、まるで、何かにおびえるようだった。
「どうした」
思わず尋ねると、ヘブライは早口で問うた。
「あなた様のお父様とお母様は?」
「知らん。俺は捨て子だったからな。身寄りのない子どもと一緒に村で育てられ、10歳の時に森に捨てられた」
「そうでしたか」
その声は、僅かに震えていた。
「何を知ってるのだ? 最近筋肉がやけに太くなり、体が重くなって困るのだ。視力もおかしい。いつものように助けてくれ、ヘブライ」
博識で知恵のあるヘブライに、私は全幅の信頼を寄せていた。
ヘブライは静かに首を振ると、そっと私の体に毛布を掛けた。
「これは直しようがありません。私から一つ言えることは、信頼できる者の他には、決して御体をお見せなさいませぬように」
「……?」
怪訝な表情をすると、ヘブライは「お約束くださいませ」と柔和な彼には珍しく語調を強くした。
「分かった。約束しよう」
頷くと、ヘブライは「ありがとうございます」と微笑んだ。
私の右腕として支えてくれたヘブライは、ある時期から姿を消した。
その後、彼が自殺した、という報を聞いた。
……なぜ? ヘブライ。
私はその前にアイゼンという臣下も失っており、この世から孤立した気分だった。
東ノ国は、いつからか私が望んだものとはまるで違う、砂紋民をモノとして扱うような国になっていた。
悩み続ける日々に、1人の女が私の前に現れた。
年上の女だった。
私の心の乾いた隙間に、女はうまく入り込んだ。
故に、私はヘブライとの約束を破ってしまった。
「……いい体」
女は寝台の上で、うっとりとするように私の筋肉をなぞって、言った。
「あなた、夜の闇が怖いでしょ?」
美しい笑顔でそう言い当てられたとき、思わず目を見開いた。
「私には分かるの。あなた、この世界で自分だけ何か異質なように感じているでしょ。なぜ他の者たちは根も葉もない噂に振り回されるのか。馬鹿馬鹿しくてたまらないんじゃない?」
――まさにその通りだった。
金髪の美しい女は私の目を覗き込むようにして微笑んだ。
「大事なことを言うわ。本来のあなたの居場所は、海の向こうの国よ」
まばたきをすると、女はにっこりと微笑んだ。
「私もそこから来たの。だから私たちが惹かれあうのも当然ね」
私の耳にその赤い唇を近づけ、ささやく。
「あなた、心の奥底でこの世界を憎んでいるでしょう? その気持ち、殺さなくてもいいのよ」
首筋にじっとりと嫌な汗が浮かぶのを感じた。女の言葉が耳に絡みつく。
「本来、この大陸は私たちのものなの。今は愚かな民族に奪われているだけ。だから、西ノ帝国もこの国も壊していいのよ」
熱を帯びた瞳がこちらを向く。「そうしたらあなたは私の国で英雄になれる」
ぞくりとするような甘い響きが、頭を痺れさせた。
「でも、壊すといっても、どうやってそんなこと――」
至近距離で女は微笑んだ。細い指先が私の腕の紋様をなぞっていく。
「あなたのその黒い紋様にその秘密が書いてあるわ」
「……だが、これを読むことができない」
「頑張って解読するの。きっと解読できたときが、頃合いよ」
女はにっこりと微笑んだ。
その後、女は姿を消したが、それからもその悪魔のような言葉は、私の心にこびりついていた。
◆
本当の悪魔は私だ。
戦争が終わり、なぜか生かされ、己を呪った。
トルーシスに比べ、私の人生はなんと愚かだったのだ、と。
「鋼主。戦ってくれるか、この大陸のために」
若王はまっすぐに私を見て、そう言った。
「分かりました。この戦いで罪を償います」
頷くと、若王は微笑み「頼んだぞ」と私の肩に手を置いた。
「死なないでね。でも死んでもいいよ。私も死ぬから」
ひた、とシェムリがこちらを見つめてくる。
「お前は生きろ。……私は死ぬべきだ」
顔を背け、立ち上がろうとするとシェムリに動きを封じられた。
シェムリは私の真正面に回り込み、言った。
「世界がなんと言おうと、私はあなたに生きてほしいの」
「……なぜ」
白く、柔い指先がそっと私の下唇に触れた。そのまま酷く荒れているその場所をなぞっていく。
「何度も唇を噛んだのか。……苦しんでいたのだな」
若王が顔を伏せた。
「……そこも薬、いるか?」
番人が懐から軟膏を取り出すのを、シェムリは笑って止めた。
「ううん、このままがいい」
そして、そっと私の耳元でささやいた。
「たくさん私のこと、思い出してくれたんでしょ?」
珍しく照れくさそうに笑い、そして柔らかな唇を――
ジャリ、と口の中に砂が入った。
――愚かだ。
死を前にして、そんなくだらないことを思いだすなんて。
背後から深く背を斬られ、耐えきれず膝を折った。
頭を踏みつけられる。
「妙に手ごわかったな」
「あぁ。だが所詮はスタルトゥス人。くだらないやつらだ」
そう。なんてくだらない――
「トルーシス、じゃあな。俺はこの世界を変える」
妙に明るい声が頭の中に響いた。さんさんと降り注ぐ日差しと、鮮やかに映る森の緑。
誰だ? これは。
この吐き気がするほど希望に満ちた声の持ち主は。
やけに見覚えのある、頬に黒い紋様が広がった少年が目に映った。
そして、眩しいものを見るように微笑んだ。
「元気で、兄さん。僕も成人したら旅に出て兄さんを探します」
唐突に分かった。
――これは、過去の私だと。
思い返すことすら拒否していた、私のくだらない過去。
だが、それがきっと――
私のすべてだったのだ。
目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
せめて、シェムリとトルーシスに恥じぬように死ななくてはなるまい。
◇
「……なんてやつだ」
隣で”弾”を撃つガレンが、冷静沈着な彼には珍しく驚いた声を上げた。
「何が起こっている」
端的に尋ねると、うてば響くように答えが返ってきた。
「鋼主が、背中に剣が刺さったまま……大量の血を流しながら、まだ戦っている」
「……そうか」
鋼主には第5商会の剣を納品する際に一度会ったことがある。
恐ろしいほど体格が良かった。かなり血の濃い混血だろう。
「ダグラス達は倒れたか」
「あぁ。ネルと鋼主だけが戦っている。……ラジャトお前、それすらも見えないんだろ」
”弾”に手早く追加の玉を込めながら、ガレンが尋ねる。
「……その通りだ」
視界が白く濁り、近く以外、もうほとんど何も見えない。
あの女からくらった目の傷が最近妙に痛むと思っていたが、ここで失明するなんて――
ガレンの低い声が耳を打った。
「俺は近場を撃つ。お前は海の方を撃ってくれ。こっちに来い」
「?」
言われるままにガレンの”弾”の方に行って驚いた。
ごく小さな分度器のような目盛りがつけられている。
「100~105平、7~25負斜でランダムに撃ち続けろ。これくらいは見えるだろ」
「ガレン。君はどうしてこんなものを――」
昔。”鷹”が楽しげに語っていた話を思いだした。
そういった独自の単位を体に刻み込み、模擬戦で無双を誇る射手の話を。
ガレンは静かに答えた。
「兄の遺品だ」
――感謝する、”弓”。
これでよく見えずともおよその狙いが定まる。
その分度器の助けを借りて、ひたすらに撃ち続けた。
ガレンは小型の”弾”を連射し、ネルと鋼主の加勢をしている。
――いつまでこれは続く?
なぜだ。
今頃リュシアが燃やした紫煙花の毒が大陸中に周り、異国人の侵入を妨げているはずだ。
もうかなり時間は経った。
まさか。
ある一つの可能性に思い至って、愕然とした。
足りなかったのか? 毒の量が。




