第106話 ”花《ラン》”
トルーシスたちが異国人と戦いを繰り広げている頃。
リュシアは森の中でひとり佇み、静かに息を吐いた。
――いよいよか。
ニックからの紫色の狼煙が上がったことは確認していた。
準備は整っていた。
ネルとともに丘のように積み上げた紫煙花の山が目の前にある。
……ネルは、今どんな気持ちなんだろうか。
ネルには、トルーシスの父親たちが埋葬されている紫煙花の丘を燃やすように頼んだ。
燃やしたら――毒にやられてしまうのに。
ネルは、それを分かっているはずなのに、「まかせとけ」とニカッと笑っただけだった。
私はもう一度息を吐き、頭の中の様々な邪念を追い出した。
そして汗ばむ手に松明を握り、目の前にうず高く積まれた紫煙花の頂上に、その炎をあてた。
『紫煙花に火をつけるとね、まずは頭が割れるように痛くなるの』
母の――トリヤの手記の文字が脳裏に浮かんだ。何十回、何百回と読み返した箇所だ。
『次に全身にしびれが出る。それに耐えて――紫煙花の丘の頂上に、炎を当て続けないといけない。
紫煙花は、ゆっくり、炎の熱で蒸らすようにすると一番毒を放つの。
希少な紫煙花の毒の力を最大化するために、”花”はいる』
紫煙花に松明の炎が移り、くすぶりだすと、母の言葉通り、頭痛としびれが全身を襲った。
構わず松明をあて続けると、それは全身を貫くような痛みに変わる。
この場を逃げ出したい恐怖にかられるのを、必死で抑えた。
……大丈夫だ。
修練で良く慣れ親しんだ痛みだ。呼吸を整えろ。母の言葉を思いだせ。
『紫色の煙が紫煙花から出てきたら成功よ。
そのまま同じようにその煙が出続けるよう、炎の量を調整して。
だんだん意識が錯乱してくるでしょうけど、常に冷静に。
なるべく呼吸を乱さないように。
あなたがどれくらい耐えて紫煙花を燃やせるかによって、空気中に放たれる毒の量が変わるの。
私は情けないけど、丘の途中までしか燃やせなかった。
先代の”花”のトルシカに支えられていたのにね。
トルシカはすごかったわ。丘の最後まで燃やしきったの。強靭な精神力だったわ。
私は力なく地面に転がってそれを見てた。
さらにトルシカは、燃やした後に私を逃がすだけの余力も残していた。
でも、あなたが燃やさなければならない紫煙花の量は、かなり多いわ。
私とトルシカは攻めてくる帝国兵を撃退するだけの量で良かったけど――
あなたは、海の向こうの国を撃退できる量を燃やさないといけない。
とにかく、できるだけ紫煙花の花畑を広げるのよ。
そして、できるだけ紫煙花の毒に強くなるの。
つらい役目をおわせてごめんね。でもあなたならきっとできるわ』
炎をあて続けた紫煙花から、紫色の煙が上がった。
――よし。この調子だ。
そう思った瞬間、世界の色が一瞬、反転した。
あれ?
思わず目をつぶり、もう一度開けると、目に見える景色が紫色に染まっていた。
これが毒の力か。
そう思った自分の意識が、まるで他人のように自分とは切り離されたもののように感じる。
そして、頭の中で声が鳴り出した。
大勢の人が耳元で叫んでいるような、そんな身の毛のよだつ感覚。
松明を取り落としそうになるのを、必死で耐えた。
自分の呼吸と、松明を握る手に集中すると、少しは頭の中の声が緩和された。
◇
……これで丘の半分か。
気の遠くなるような思いで、目の前の紫煙花の丘を見る。
全身が焼けるように熱く、体に力が入らない。
目の前で炎を纏った紫煙花が爆ぜた瞬間、頭の中のざわめきが急に高まった。
……!
悶絶するような苦痛が脳天を貫く。
奥歯をかみしめたが耐えきれず、よろよろとひざを折りかけた。
「リュシア」
どこか懐かしい低い声がして、後ろから抱きとめられて支えられた。
その声は頭の中でぼんやりとこだまして、自分の意識の中に入ってくるまで時間を要した。
だが、混乱しきった頭に、確かに一筋の救いの光をもたらした。
「ネル……?」
自分の声が、まるで家の外から聞こえてくるみたいに聞こえた。
「あぁ、俺だ。顔は痣で酷いことになってるから、振り返らないでくれ」
いつもの調子の言葉に、泣きそうになる。
「お前と違って、樹脂に閉じ込められた紫煙花に派手に火をつければよかったから、楽だったぜ」
そうは言っても、樹脂は燃えづらいはずだ。全て燃やしきるにはかなりの時間がかかるし、その間に中毒死してもおかしくない。いや、普通なら確実に死ぬ。
ネルが笑いながら、背後で煙管を吸った気配がした。
……そうだ。ニックからもらったものを、ネルに渡していたんだ。
それで生きながらえているのか。
ネルは私にも、「吸え。楽になるぞ」とその煙管を差し出した。
吸うと少しは頭の中の声が緩和された。
「じゃあ、また向こうで……」
私を抱きしめてくれていたその腕が力を失い、その体が離れて地面に転がっても、私は立ち続け、炎を燃やし続けた。
ネルの見えない腕がずっと私を支えてくれたのだ。
耐えに耐え、全て燃やしきったあと、私は膝から崩れ落ちた。
これで侵入者は追い払えただろうか。
思考力の失った頭で、そんなことを考えた。
「すげぇ。よく頑張ったな」
ネルが蚊の鳴くような声で言った。まだ息があったのかと驚く。顔は紫の痣で埋め尽くされ、唇と瞳まで紫に染まっている。
毒で朦朧とする頭。多分普段よりもずっと涙腺が脆くなっていたのだろう。
涙が頬を伝った。
「ネル、お願い……」
息も絶え絶えにそういうと、ネルは全てを察したようだった。
「俺もすぐに後を追うから」
懐から短剣を取り出し、渾身の力を振り絞って、私の首へとその刃を向ける。
……ありがたい。
早くこの悪夢のような苦しみから逃れたい。
そして、死後の平和な世界で、ネルと――
あれ。
そんな不確かな世界なんて信じてよかったんだっけ。
「いや。やっぱり」
ネルが歯を食いしばったのが見えた。
倒れたまま這って隣までくると、私を抱き寄せ、そのまま地を這い始めた。
「みっともないけど。……ごめん」
紫煙花の丘から少しでも遠ざかろうとしているのだ――
そう思ったところで意識が途絶えた。




