第98話 襲来前
戴冠式が終わった後の夕暮れ時。
リュシアが東ノ国との戦いで負傷した者たちの様子を見回っていると、後ろから声をかけられた。
「リュシア。ちょっといいかな?」
ニックだった。直接言葉をかわすのは久しぶりである。
騎士の隊服に、敵か味方なのか分からない爽やかな笑みを浮かべる姿は昔と変わらない。
変わったことと言ったら、たくさんの勲章が胸に光り輝いていることくらいだ。
「一緒に来てほしいんだ」
笑顔だが、有無を言わさない調子だった。
ニックと並んで、リュシアはすっかり何もなくなった帝都を歩いた。
戴冠式の後ということもあり、民衆が思い思いに帝都を散策しており、賑やかである。
「ネルはどう? 目を覚ましたんだろ? いい加減、彼は素直になったかな?」
「最近、少しだけは進歩が見られます」
リュシアが言うと、ニックは心の底から愉快そうに笑った。
しばらく歩くと、ニックは足を止めた。
ひとつだけ、煤けてはいるが崩れ落ちていない建物がある。
「虚華亭」と看板が掲げられていた。
「ちょうどいい。ここに入ろう」
ニックはにこりと笑った。
◇
2階の一室に入り、バタンと扉が閉まると、静寂に包まれた。
隊服姿の金髪の男はすたすたと部屋の奥へと進み、寝台に腰かけた。少し隊服の襟をゆるめ、笑顔で手招きする。
リュシアは僅かにためらって、ニックと距離をとって座った。
「ははは、ガードが固いなぁ。ネルの指導かな」
ニックは苦笑してから、声を潜めた。
「もっと近くに来てよ。……誰が見ているか分からないんだから」
リュシアの肩に手を回し、抱き寄せる。同時に寝台の天蓋を引く。天蓋に覆われた寝台の中でリュシアとニックは二人きりになった。
「え……」
言いかけたリュシアの唇を、ニックは人差し指でふさいだ。「もう時間がない」
目と目があう。
ニックは微笑んで、隊服をはだけさせた。
「……あなたは」
リュシアは愕然と目を見開いてニックのはだけた肩口を見つめた。
「そう。レオラとヒスタロスと同郷さ」
ニックは微笑んだ。鎖骨から二の腕にかけて、茶褐色の紋様があった。極端にシンプルで紋様とも呼べないような形である。
さらに、二ノ腕には、入れ墨が入っていた。
黒い紋様の入れ墨が。
リュシアはその紋様の形を、アリヤから聞いて知っていた。
母であるトリヤの最初の夫で、海の向こうの国へと渡った――トジンのものだ。
リュシアの反応を満足げに眺めつつ、ニックは懐から煙管を取り出し、火をつけた。煙管には白い粉がつまっている。
一息だけ吸い、白い煙を吐き出すと、微笑んでリュシアに差し出す。
「あげる。僕にはもとから必要なかったけど。お守りにでもして」
リュシアは受け取り、しばし見つめると、ニックの鍛えられた胸板をペタペタと触りだした。
「……え?」
ニックは2回、瞬きをした。
「あなたには、埋められてないのね」
ニックはふっと目を細めた。
「そうさ。幸運にも」
一転して表情を引き締める。「ラジャトから君の話を聞いた。もうじき海の向こうの国が攻めてくる。……頼む」
懐から紫色の筒を取り出し、リュシアに見せると深く頭を下げた。「僕がこの狼煙を打ち上げたら、”花”をやってくれ」
リュシアはしばらく押し黙り、一言問うた。
「私があなたを信用する理由は?」
ニックは、左腕の入れ墨をそっと撫で、静かに言った。
「ずっとトジンに恥じぬように生きてきた。それだけだ」
今までに聞いたことのないような、真剣な声だった。
リュシアは束の間目を閉じ、それから「分かりました」と頷いた。
懐から自分の煙管を取り出した。紫煙花の粉が詰まっている。
「お返しです」
「おやおや、僕を殺すつもりかい?」
「なにかの切り札に」
小さく笑うリュシアに、「君はとても物わかりがいいね」とニックは微笑みを浮かべた。
「それと――」
リュシアは懐から小型の機械を取り出し、ニックに渡した。
「これは?」
僅かに眉をひそめたニックにリュシアは端的に答えた。
「胸に埋め込まれた金属片を無効化できる機械です。ヒスタロスの金属片から研究して作りました」
ニックが大きく目を見開いた。
「キリル、ラジャト、私の共同開発事業です。特にキリルが貢献してくれました。うまく行くかは試してみないと分かりませんが。これも何かの切り札に」
リュシアが部屋を出て行ったあと、ニックはまじまじとその機械を眺め、感慨深そうに呟いた。
「ヘブラウヌス。……もう安心していいぞ」
◇◇◇
民衆に海の向こうの国が襲来することを伝えると、みな驚きながらも帝都の安全な地下に逃れた。
ただ1人を除いて。
「キリル。その数式が捨てがたいのは分かるが……頼む。逃げてくれ」
「そうです、フローレンス人はとても強いのですから」
若王とノーレスリャーンが先ほどから繰り返しているが、全くその耳には届いていない。
キリルは、帝都のはずれの木陰に座り込んでいた。
眉間に深く皺をよせ、一心不乱に地面に数式を書き連ねている。
若王が逡巡し、こちらを見る。
「どうする? ひっぱってでも連れていくか?」
苦笑して首を横に振った。
「計算が終わまで待とう」
この状態のキリルはもうどうしようもない。
見れば、キリルの脇には、小さなガラスの箱があった。
その中に、紫色の煙を燻らせる紫煙花と、白い煙をあげる白銀鉄、さらには実験台にされた可哀想なネズミが入っている。
キリルはその箱を鋭い視線で見つめつつ、何かを計算しているようだった。
その時、わずかな足音がした。
振り返ると、リュシアだった。
リュシアは俺たちに微笑みかけると、静かにキリルに歩みよった。
キリルの目の前の地面に、懐から取り出した一輪の紫煙花をそっと置く。
キリルがその花を見て、はじかれたように顔を上げた。
俺も、隣にいる若王も驚いた。
その紫煙花は、毒々しいほど鮮やかな紫色をしていた。
さらに、普通の倍くらいの大きさがあった。広げた俺の掌よりも大きい、大輪の花だ。
「キリル。この花500本あまりを、計算に加えて」
リュシアの静かな言葉に、キリルは僅かに目を見開いたが、すぐに口を引き結び、「あぁ」と頷いた。
キリルがまた計算式に集中する前に、リュシアがすかさず言った。
「デイトンと若王があなたのことを心配している。他の皆と一緒に避難した方がいい」
内心でリュシアに喝采をおくったが、キリルはこちらを向き、断固とした口調で言った。
「ここで続ける。今までの計算式がある。それに、地下には補充できる白銀鉄の粉もない」
地面に広がる計算式を指さす。
「僕は生に執着していない。放っておいてくれ」
そういってキリルはまた、目の前の実験箱に集中しだした。
「どうする」
若王が困った顔をした。
「このままそっとしておくしかない」
――キリル。お前にも、譲れないものがあるんだろう?
「リュシアさんといいましたか。彼女が心配ですね」
リュシアがその場から去っていくと、先ほどから気配を殺していたノーレスリャーンが、そっと呟いた。
「どういうことだ?」
若王が尋ねる。
「この毒の花、500も燃やせば、とうてい無事でいられないでしょう」
ノーレスリャーンは去っていくリュシアの背を物憂げな表情で見つめている。
――リュシアは、花を燃やしに行くのか?
唐突にリュシアの意図を理解した。
紫煙花を燃やし、その毒で異国人を追い払うつもりなのだ。
「ノーレスリャーン。そなたは医術師だといったな。何かリュシアを救う策はないか」
若王の言葉にノーレスリャーンは温和な表情で頷き、肩に掛けていた革の鞄をあけて、数本のガラスの筒を取り出した。
筒の先端には細い針がある。
「まだ実験段階ですが、これを試してみる価値はあります」
「よし。ではノーレスリャーンと若王は森の中の救護場で待機だ。俺はトルーシスたちに今の状況を伝えてくる」
◇
「……なぜ私も待機なのだろう」
森の中の洞窟にて、若王は膝を抱え、自らの白い手のひらを見つめた。
「救護も大事な役割の一つですよ」
傍らのノーレスリャーンは穏やかに言う。
紫煙花の解毒以外にも、優れた医療技術を持っているこの大男を、デイトンは先の戦いで傷ついた怪我人達を収容している森の中の洞窟に案内した。
戦いで傷ついた者たちの治療を行うのが役回りである。
「……」
黙りこくるシャールシェ―ンに、ノーレスリャーンが口角をあげた。
「ならば、気がまぎれる話でもしましょうか。あなたの母上の話を」
◆
「シャルテ! すごい活躍だったな! ジグルステン、お前うかうかしているとシャルテに全部手柄を取られるぞ」
トジンは豪快に笑って、シャルテの杯に並々と酒をついだ。シャルテは控え目に笑ってその杯に口をつけた。
「別に手柄が欲しいとか思ってない」
不服そうなジグルステンの頭を、トジンは笑みを浮かべてわしゃわしゃと撫でた。
「そんなこと言ったって悔しいって顔に書いてあるぞ。まあ、お前もシャルテの体の使い方を見習えよ。参考になるだろうよ」
「シャルテ。今度国都に行きましょう。アーシェンヴァ―ン王があなたに会ってみたいって」
ヒースターレンの未来の妻になる、ラールニーシャが興奮したように王からの書簡を握りしめてシャルテの杯に酒を注いだ。ヒースターレンが、「おい、注ぎすぎだぞ」と注意するのを全く聞いていない。
「でも私には分不相応……」
言いかけたシャルテの言葉を、ゼーレンバーニの太い声が遮った。「自信を持て、シャルテ。そなたの活躍ならば、”獣”の位くらい与えられるだろう」
数日後。
王宮の謁見の間にて。
シャルテが放った刃は弧を描いて回旋し、またシャルテの手に収まった。
「見事だな」
感嘆したように呟くアーシェンヴァーン王に、「これがシャルテの”飛刃”だぜ」とトジンが自慢げに言った。
「いえ。元は見世物小屋の芸でしたから……」
恐縮したように体を縮こませるシャルテのもとへ、アーシェンヴァーンは重厚な玉座から立ち上がると静かに歩みよった。
「シャルテ。よく顔を見せてくれ」
なおも平伏するシャルテの顎をそっと持ち上げる。
そして、しばしシャルテに魅入った。シャルテもまた同じだった。
二人は、ただ時がとまったようにして、お互いを見つめ合っていた。
「これはヤバいぞ」
前に座していたトジンがゼーレンバーニとターレンシェーンに興奮したようにささやいた。
「あぁ。誰にも心を動かさなかったアーシェンヴァーンに、ついに春がやってきた」
ゼーレンバーニが目を爛々と輝かせる。ターレンシェーンは「いかなる障壁があろうとも私は応援申し上げます」と拳を握りしめた。
「どういう意味だ、ノーレスリャーン? 今は秋だろう?」
純朴なヒースターレンが首をかしげたが、ラールニーシャに「馬鹿っ」と頭を叩かれ、耳打ちされると驚いたようにしていた。
「……苦労するぞ」
ジグルステンがそう呟いて、その場を静かに出て行ったことに、私以外は気づかなかった。
きっとスタルトゥス人としてこの国で生きてきた、聡いジグルステンには分かっていたのだろう。
この恋路の末路が。
「シャルテ。許してくれ。私がそなたを愛したことが過ちだったのだ」
この国で居場所を失ったシャルテが、海の向こうの大陸へと旅立つ前、アーシェンヴァーンは声を震わせながらシャルテを最後に抱きしめた。
シャルテは控え目に、でもはっきりと首を横に振った。
「いえ、アーシェ。あなたがいなければ私は愛される喜びを知り得ませんでした」
トジンは妙に気配を消して、船の帆先で、帆の操り方をジグルステンにぼそぼそと教えている。
私もできるだけ気配を殺して、船に積み込む薬草の最終確認に没頭した。
「私は、あなたに出会えて確かに、最高に幸せでした」
シャルテはそう笑顔で言って、王に別れを告げ船へと乗り込んだ。
入れ替わりにトジンが「頼んだぞ、お前ら」と私とジグルステンの肩を叩いて船を降りた。
アーシェンヴァ―ンが深く頭を下げた。
「ジグルステン。ノーレスリャーン。頼んだ。シャルテを海の向こうの国へ無事に送り届けてくれ」
「この命に代えましても」
私は深く一礼した。
ジグルステンは不愛想に頷いて、ぺこりと頭だけ下げた。
「ジグルステン。馬鹿な王を内心笑っているか。愛する者すら守り切れないこの私を」
王は自虐気味に笑った。
ジグルステンは表情を変えずに首を横に振った。
「いえ。ただ、王とは悲しい立場だと思ったのです」
「お主は王になりたいとは思わぬか」
「……あぁ。まったく思わない」
ジグルステンは船の錨をあげた。風にふかれてゆっくりと船が進みだした。
「あの旅芸人の集団に雇ってもらえることになりました。もう大丈夫です、ありがとう」
シャルテは、美しい金髪を風になびかせて微笑んだ。その顔には、フローレンス人につけられた暴力の跡がまだ痛々しく残っている。スタルトゥス人であるシャルテが王の妻となったことが、恐ろしいほどの嫉妬と反感をかってしまったのだった。
「ノーレスリャーン。いつも怪我の手当てをしてくれたり、恋愛相談に乗ってくれてありがとう。ジグルステン。ひそかに私を襲ってくる者たちを倒してくれてありがとう」
シャルテは私たちそれぞれに丁寧に頭を下げた。
1人少なくなった帰りの船の中で、ジグルステンをつついた。
「ジグルステン、あなたはやっぱりシャルテを影ながら守ってたんですね。そのおかげでシャルテは反対派に殺されずにすんだんです。感謝します」
ジグルステンはしばらく沈黙した後、私に尋ねた。
「もしお前が王の立場だったら、シャルテを妻にしたか?」
「……難しい問いですね。あの時、私はこうなることを見通せませんでしたから、きっと自分の心に従って、妻にしたと思います」
「そうか」
ジグルステンはそう言うと沈黙した。
「ジグルステン、あなたはどう思ったのですか?」
「俺は一生、愛や恋などしないと誓った」
こちらに背を向けて帆を操るジグルステンの背中が、とても寂しそうで、でもなんと声をかけてよいか私には分からなかった。
それから、半月もせずに、ジグルステンはトジンやヒースターレンたちの反対を押し切って、フローレンス人の女と結婚をした。
◆
「そうだったのか。母上が……」
シャールシェ―ンは呟くと、何かに思い至ったように早口で続けた。「そういうことだったのだな。母上はどんなに父上に酷いことをされても、昔愛されたから大丈夫だと言っていた。それは、海の向こうの国の国王のことだったのだな……」
シャールシェ―ンはふとノーレスリャーンを真剣な顔で見つめた。
「私は誰の子だ?」
ノーレスリャーンは、海を指さした。
「あの黒い船が見えますか」
シャールシェ―ンは目を細めてしばらく海を見つめていたが、はっと目を見開いた。
遠くの海面に、ひしめくように黒い軍艦が現れ始めたのだ。
ノーレスリャーンは呟いた。
「ではあなたは混血です。その話はあとで行うとして。……ついに、来ましたね。海の向こうの国が」




