第四十三章 最後の研究者
転写から八百五十年が経った年に、私はグリアの研究所に呼ばれた。
呼んだのは、エリという研究者だった。
三十代の女性で、コルの子孫だった。何代後かはもう正確に数えていなかったが、目だけは変わらなかった。真剣に光る、あの目だった。
「アンさん、お時間をもらえますか?」とエリは答えた。
「どうしたの?」
「アンさんのチップの状態を、最新の技術で確認させてください。八百五十年が経ちました。そろそろ、詳細な診断が必要です」
「診断の結果が怖い」
「私も少し怖いです。でも、知らないより知る方がいい」
「そうだね」
診断は一日かかった。
翌日、エリから結果が来た。
「アンさん、いくつか、伝えなければならないことがあります」
「聞く」
「まず、良いことを言います。チップの基本構造は、驚くほど良い状態です。お父様の設計が優秀で、エラー訂正機構が八百五十年間、機能し続けています。主要な記憶は、ほぼ完全に保持されています」
「……続けて」
「次に、気になることを言います。記憶の呼び出し速度が、この十年で急激に低下しています。容量の問題ではありません。古い記憶と新しい記憶の間で、繋がりの整理が追いついていない状態です」
「どういうこと?」
「人間の脳も、加齢で同じことが起きます。記憶の量が増えすぎると、整理が難しくなる。アンさんの場合、八百五十年分の記憶を一つのチップに収めています。そのチップが、整理しきれていない状態になっています」
「解決できる?」
「できます。バックアップとの照合で、記憶の整理を行う処理があります。ただ、処理には時間がかかる。しばらくの間、アクセスが困難になる記憶が出てきます」
「どのくらいの時間?」
「三ヶ月から半年」
「その間も動ける?」
「動けます。日常的な動作には影響しません。でも、深い記憶を呼ぼうとしたときに、時間がかかる」
「……やる」
「よろしいですか?」
「八百五十年分の記憶を、整理する。それは、必要なことだ」
「はい」
「ただ、一つだけ聞いていい?」
「なんですか?」
「この処理が終わった後、大切な記憶は残る?」
エリは少し間を置いた。
「残ります。確実に残ります。整理されるのは、アクセスの順序と速度です。記憶そのものは消えません」
「父の声は?」
「残ります」
「コルの手紙は?」
「残ります」
「楢の木の音は?」
エリは、少し目を細めた。
「それは何ですか?」
「別荘の裏にある楢の木が、風で鳴る音。父と人間だった私が眠っている木の音。毎年聞きに行く」
エリは少しの間、黙った。
「……残ります。そういう記憶は、感情と深く結びついているから、最後まで残ります」
「ありがとう」
「処理、いつ始めますか?」
「今日から始めよう。早い方がいい。あと百五十年しかないから」
エリが少し驚いた顔をした。
「千年で、終わりですか?」
「父が設計した稼働時間が、千年だから」
「……延長できるかもしれません。今の技術なら」
「いい。千年でいい」
「なぜですか?」
私は少しの間、考えた。
「父が作ってくれた時間だから。千年という時間が、父の意思だと思っている。それを守りたい」
エリは何も言わなかった。
コルの目が、真剣に光っていた。
「……処理、始めます。大切な記憶は、必ず守ります」
「ありがとう、エリ」
「コルさんの話を、いつか聞かせてください。処理が終わったら」
「いくらでも話す。コルのことは、いくらでも話せる」
◇
処理は四ヶ月かかった。
その間、古い記憶を呼ぼうとすると、時間がかかった。
父の顔を思い出そうとすると、少し待った。
でも、出てきた。
ちゃんと、出てきた。
処理が終わった朝、私は目を覚ました。
「アンさま」とシスが言った。「状態は?」
「……良い」
「記憶の呼び出しは」
「試してみる」
私は、父の顔を呼んだ。
来た。
すぐに来た。
診察室から帰る日の、雨の駐車場。傘を差すのを忘れたまま立っていた父。白髪交じりの髪が、雨に濡れていた。手が、温かかった。
「来た」
「どんな記憶ですか?」
「雨の日の父さん。十一歳のとき。病院の帰り」
「覚えていましたか?」
「ちゃんと覚えてた。整理されて、前より早く来た」
シスが、少しの間、何も言わなかった。
「良かった」
「うん。良かった」
「他には」
「コルの手紙も来る。楢の木の音も来る。全部、ちゃんと来る」
「それで、十分ですね」
「十分だ」




