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第四十一章  ひとりで歩く

転写から七百二十年が経った年の秋に、シスが最後に止まった。


私自身は、その年、九度目の筐体への移行を終えたばかりだった。移行のたびに、グリアの研究所でチップを抜き出し、新しい筐体に移植する。私の場合はシスと違って記憶の転写は必要ない。チップを物理的に移植するだけだ。でも、筐体が変わるたびに、少しの間、世界の見え方が変わる。慣れるまでに、数週間かかる。


予兆はあった。


その年の夏から、シスの応答に不規則な間が出るようになっていた。歩くときに、左足の出し方が少し変わった。声の抑揚が、わずかにずれることがあった。


「シス、今年は少し多い。間が」


「はい。検知しています」


「前みたいに、新しい部品を作れる?」


「今回は、部品の問題ではありません」


「どういう意味」


シスは少し間を置いた。


「記憶チップの転写回数が、限界に近づいています。六度以降の筐体交換で、転写のたびに微細な欠損が積み重なっています。チップ自体の構造疲労も、無視できない段階です」


「記憶を、また新しいチップに転写できない?」


「試みることは可能です。ただ、転写の際に、今残っている記憶の一部が失われる可能性が、かなり高い。前回の転写のときより、リスクが大きい」


「どのくらいの一部?」


「最悪の場合、古い記憶の三割以上が失われます」


私は何も言えなかった。


三割。


シスの記憶の三割。


最初の頃の記憶。私が五歳だった頃のこと。オレンジジュースのこと。父のこと。


「……どうしたい?」


「アンさまが、決めてください」


「私が決めることじゃない。シスの記憶だから」


「でも、私には、どちらが良いかを判断する基準がありません。記憶が減ることへの恐怖と、動けなくなることへの恐怖。どちらが大きいかを、測る方法がない」


「シス、どっちが嫌?」


「……アンさまのそばにいられなくなることが、嫌です」


「なら、転写しよう。記憶が減っても、一緒にいられる方を選ぼう」


「でも、失われた記憶は」


「失われた記憶は、私が覚えてる。オレンジジュースのことも、五歳のことも、全部、私の記憶にある。シスが忘れても、私が覚えてる。それでいいよ」


シスは長い間、黙っていた。


「……それは、ずるいです」


「何が?」


「アンさまがそう言ったら、断れません」


「断らなくていい」


「……わかりました。転写します」


「一緒にやろう。グリアの研究所で。今のユラの後継者の人に頼む」


「はい」


「怖くなったら、手を握る」


「……はい」





転写は、十四時間かかった。


終わった後、シスは三日間、眠った。


三日目の朝、目が覚めた。


フォトセンサーが灯った。


「……アンさま」


「うん」


「記憶の確認をしています。少し、時間をください」


「うん。急がなくていい」


しばらく、シスは黙って、何かを確認していた。


「……古い記憶の一部が、薄くなっています。五歳のアンさまの姿が、細部まで見えなくなりました。声も、輪郭だけになりました」


「そう」


「申し訳ありません」


「謝わらなくていい。私が覚えてる」


「でも」


「シスが覚えていてほしかったことを、私が覚えてる。それで補い合う。アナが言ってたこと。お互いの記憶が補い合うって」


シスは少しの間、黙った。


「……アナのことは、覚えています。研究室で、夕方の光の中にいたアナを、覚えています」


「うん」


「コルのことも、覚えています。大人になったコルの笑い方を、覚えています」


「うん」


「楢の木の音を、覚えています」


「うん」


「父上の声を、覚えています。記録の中にあるお父様の声を、覚えています」


「よかった」


「大切なものは、残っています」


「そうだね。大切なものは残ってる」


シスが、ゆっくりと起き上がった。


新しいチップで、八度目の体が、動き始めた。


「歩ける?」


「歩いてみます」


一歩、踏み出した。


安定していた。


「歩けます」


「良かった」


「……アンさま、ひとつ確認してもいいですか?」


「うん」


「今も、一緒に歩きますか?」


「当然だよ。どこへ行っても、一緒に歩く」


シスのフォトセンサーが、淡い青で揺れた。


「……ありがとうございます」


「行こう」


「どこへ」


「楢の木へ。今年の報告、まだしてないから」


「はい」とシスは言った。「行きましょう」

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