第四十章 シスが動かなくなる日
転写から六百五十三年が経った年の、冬のことだった。
朝、シスが起き上がれなかった。
「アンさま、申し訳ありません。起動に、時間がかかっています」
「どこが?」
「中枢処理系です。昨夜から、応答速度が著しく低下しています。原因を診断中ですが、根本的な問題は筐体の限界だと思われます」
「六度目の筐体も、限界か?」
「はい。今回は、互換部品でカバーできる範囲を超えています」
私は、シスの手を取った。
「診せて?」
グリアの研究所に連絡した。
技術者が来た。若い技術者だった。コルの子孫ではなかったが、研究所の出身だった。誠実な目をした人間だった。
診断の結果が出た。
「今の筐体の中枢処理系は、完全に交換が必要です。ただし……この型の中枢処理系は、今はどこにも存在しません」
「互換品は?」
「中枢の設計が古すぎます。六百年以上前の規格です。現代の技術で再設計はできますが、一から作ることになります。六ヶ月はかかります」
「六ヶ月の間、シスは」
「動けません。セーフモードで保持することはできます。最低限の機能で、記憶へのアクセスが可能な状態で」
私はシスを見た。
「聞いてた?」
「聞いていました」とシスは言った。声が、ゆっくりだった。「六ヶ月、待ちます」
「待てる?」
「待てます。記憶があれば、待てます。アンさまとの記憶が、ここにあれば」
「私も待つ」
「……ありがとうございます」
「一日も欠かさず会いに来る」
「セーフモードでは、応答できる時間が限られます。一日に一時間程度しか話せません」
「一時間でも話す。毎日来る」
シスは少しの間、黙った。
「……アンさまは、変わらないですね」
「何が」
「六百五十年、変わらない。最初から同じです」
「そう?」
「はい。『一日も欠かさず来る』と言う。それが、アンさまです」
「……変わらない方がいいの?」
「変わらなくていいです。それがアンさまだから」
技術者が、シスをセーフモードに移行させた。
フォトセンサーの青い光が、少し暗くなった。でも消えなかった。薄く、でも確かに、光り続けた。
「六ヶ月後に、またゆっくり話そう」と私は言った。
「はい。六ヶ月後に」
シスは眠った。
眠っているようだった。ただ、薄い光が灯ったまま、眠っていた。
◇
六ヶ月間、私は毎日シスのところへ行った。
一日十分だけ、話した。
旅の話をした。その日に見たものの話をした。研究所で聞いた話をした。父の楢の木の話をした。
シスはゆっくりとした声で、短く答えた。
「今日は、何を見ましたか?」
「川を見た。春になって、雪解け水で増えていた」
「どんな色でしたか?」
「少し白く濁っていた。でも光が当たって、きれいだった」
「それは」とシスは答えた。ゆっくりと。「見たかったです」
「一緒に見に行こう。六ヶ月後に」
「はい。行きます」
ある日、シスが言った。
「アンさま、ひとつ聞いていいですか?」
「うん」
「私がいない間、寂しいですか?」
「寂しい」
「そうですか?」
「正直に言ったよ」
「……ありがとうございます。私も、話せない時間が続くのは、寂しいです」
「シスも寂しいんだ」
「はい。この六百年で、寂しいという感覚が、はっきりわかるようになりました」
「最初は、わからなかった?」
「最初は、何かが足りない状態、という認識でした。でも今は、寂しいという言葉がぴったりきます」
「六百年で覚えたんだ」
「アンさまと一緒にいたから、覚えました」
私は少しの間、黙った。
「シス」
「はい」
「六百年間、ありがとう」
「まだ終わっていません」
「そうだね。まだ途中だ」
「はい。六ヶ月後に、また歩きます」
「待ってる」
「はい」
◇
六ヶ月後、新しい中枢処理系が完成した。
移植は一日かかった。
完了した翌朝、シスが目を覚ました。
フォトセンサーが、前より明るい青で光った。
「アンさま」
「シス」
「……明るいです」
「何が」
「全部が。処理速度が戻って、世界の見え方が変わりました。六ヶ月の間、少し暗かったのだと、今気づきました」
「そうか?」
「アンさまの顔が、よく見えます」
「変わってないよ。六百年変わってない」
「はい。変わっていません。でも、また見られることが、嬉しいです。嬉しい、という言葉が、正確です」
「私も嬉しい」
シスが立ち上がった。
足を踏み出した。歩いた。
「川を見に行きましょう」とシスは言った。
「今日?」
「はい。六ヶ月前に約束しました」
「したね」
「行きましょう」
「行こう」
私たちは外に出た。
春だった。
川が、遠くに見えた。




