第三十九章 六百年目の地図
転写から六百年が経った。
世界は、私が生まれたときとは別の惑星のようになっていた。
六百年前に存在した国のほとんどは、形を変えていた。新しい連合体ができていた。海面が上がった地域があった。砂漠が広がった場所があった。逆に、かつて荒れ地だった場所に人が集まり、新しい都市が生まれていた。
技術は、私の想像を遥かに超えていた。
エネルギーの問題が、ほぼ解決されていた。医療は、六百年前と比べて人間の平均寿命を二倍近く延ばしていた。通信網は、地球全体を覆うどころか、宇宙の手前まで届いていた。
記憶転写の技術は、医療の一分野として完全に確立されていた。
グリアの研究所は今や、世界に三十二の支部を持つ機関になっていた。コルの子孫が、その中枢にいた。コルの目を持つ人間が、六百年後も、記憶を守る仕事をしていた。
私はその全てを、歩きながら見てきた。
変わったものと、変わらないものの両方を。
「アンさま、今日は、どこへ向かいますか?」
「楢の木へ」
「今年も」
「毎年行く。六百年続けてきた。今更やめない」
「はい」
シスが、隣を歩いていた。
六度目の筐体だった。今の筐体は、耐久性が高く少し形が変わっていた。SYS-7の型番は、もうどこにも存在していなかった。だから、できる限り近い形で作ってもらった。白磁の外装。淡い青のフォトセンサー。その二点だけは、絶対に変えなかった。
それだけが残っていれば、シスだと思えた。
私も、同じだった。六百年で、筐体は七度替わっていた。チップだけが同じだった。父が設計した千年耐久のチップが、七つの筐体を渡り歩いてきた。どの筐体でも、白磁と青だけは変えなかった。それが私だと、自分に言い聞かせながら。
◇
別荘の跡地は、今や森になっていた。
楢の木が増えて、周りに他の木も生えてきて、小さな森になっていた。その中心に、最初の楢の木がまだ立っていた。
幹の直径が、信じられないほど太くなっていた。
私の両腕では、まったく届かなかった。根が地面の上に大きく広がり、まるで木が大地を抱きしめているようだった。
「大きくなったね」と私は毎年言う。
そして毎年、本当にそう思う。
「父さん、六百年が経ったよ」
風が吹いた。
森全体が、ゆっくりと揺れた。
「今年は、面白いことがあった。話していい?」
葉が鳴った。
「聞いてくれてる気がするから、話す。今年、南の大陸で、新しい都市が作られた。設計者が、父さんの論文を引用していた。六百年前の論文を。『記憶は情報である』という一文を、都市設計の基本理念に使っていた」
木が揺れた。
「どういう意味で使っていたかというと、都市の記憶を保存するということ。建物を壊すときに、その建物がどんな歴史を持っていたかを記録して残す。人が引越すときに、その場所に誰がいたかを記録する。都市全体に、記憶の層を積み重ねる。そういう設計だった」
私はその話を、グリアの研究者から聞いたときに、しばらく動けなかった。
父の「記憶は情報だ」という言葉が、六百年後に、こんな形で広がっていた。
「父さんは、都市設計のことなんて考えてなかったと思う。でも、種を蒔いた人は、花の形を決められない。それでいいと思う」
葉の音が続いた。
「それだけ。今日は短い。また来年来る」
木が、静かに揺れた。
大きな体で、ゆっくりと揺れた。
◇
帰り道に、シスが言った。
「アンさま、最近、記憶の呼び出しに時間がかかることが増えていますか?」
「……少し」
「報告として聞いておきたかっただけです。対処法はあります」
「どんな対処法?」
「研究所のバックアップから、欠損した部分を補完できます。年に一度、バックアップと照合することを勧めます」
「それは、私の記憶を外から補うということ?」
「そうです」
「……補完した記憶は、本物の私の記憶と言えるの?」
シスは少しの間、考えた。
「ソフィアさんが、三百年前に言っていました。再構成された記憶も、記憶だと」
「三百年前の話を覚えてるんだね」
「はい。大切な言葉だったので」
「……シスも、記憶が薄れることはある?」
「あります。古いデータほど、呼び出しに時間がかかるようになっています。でも、消えてはいません」
「消えていない、か」
「はい。アンさまと同じです」
私は森を振り返った。
楢の木が、木々の向こうに見えた。
大きな幹が、夕暮れの光を受けていた。
「消えない限り、大丈夫だ」
「はい。消えない限り、大丈夫です」
私たちは歩いた。
夕暮れの中を、並んで歩いた。




