第三十八章 五百年目の楢の木
転写から五百年が経った。
私は父の別荘へ向かった。
春だった。
別荘の建物は、もうなかった。
五百年の時間が、石造りの壁を崩していた。屋根は落ち、壁は崩れ、基礎だけが土に沈んでいた。地下の工具室があった場所は、土に覆われていた。
でも、楢の木はあった。
大きかった。
幹の直径が、私の両腕の何倍にもなっていた。根が地面の上に大きく隆起していて、まるで木の足が地面を掴んでいるようだった。枝が空に広がっていた。春の葉が、光を受けていた。
若木だった楢の木たちも、今は大きな木になっていた。
一本の木が、森になっていた。
根元の盛り土は、もう盛り土とは言えなかった。五百年で、地面に沈んでいた。草と土が覆っていた。でも、私はその場所を覚えていた。
父と、人間だった私が、ここにいる。
「父さん、五百年が経ったよ」
声が、葉に吸い込まれた。
「今日は、あまり話さなくていい。ただ来た。それだけでいい」
風が吹いた。
大きな木が揺れた。若い木たちも揺れた。木の森全体が、ひとつの体のように揺れた。
「でも、ひとつだけ言う」
葉が静かになった。
「父さんが作ってくれた時間を、五百年使った。良い五百年だったよ。辛いことも、悲しいことも、たくさんあった。でも、良かった。それだけ」
木が揺れた。
長く、揺れ続けた。
私はその音を、目を閉じて聞いた。
音が、記憶に刻まれていった。
五百年分の記憶の中に、今日の木の音が加わった。
「……ありがとう」
誰に言ったのか、わからなかった。
父に。人間だった自分に。木に。あるいは、ここに繋がってきた全ての人に。
全員に、言った。
◇
シスが、隣に立っていた。
五度目の筐体になっていた。
いつも、同じ型にこだわった。白磁の外装。淡い青のフォトセンサー。それだけは変えなかった。
「シス、五百年、ありがとう」
「はい。私も、五百年、ありがとうございます」
「次の五百年も、一緒にいてくれる?」
シスは少しの間、考えた。
「私の記憶は、研究所にバックアップされています。私の筐体が動かなくなっても、記憶は残ります。それがどこかで目覚めることがあれば、また一緒にいられます」
「保証はできないけど、可能性がある、ということ」
「はい。可能性はあります」
「それで十分だよ」
「はい。十分です」
木が、また揺れた。
「行こう、シス」
「はい」
「次は、どこへ行く?」
「アンさまが決めてください」
「まだ行ったことのない場所へ」
「わかりました」
私たちは歩き出した。
楢の木が、後ろで揺れていた。
森全体が揺れていた。
道が続いていた。
まだ五百年ある。
世界はまた変わっていた。そしてこれからも変わり続ける。
私は変わらない。でも、変わり続ける世界の中を歩いていく。それが私だった。
記憶を抱えて。
父の声を持って。
コルのチップを、ポケットに持って。
シスと並んで。
光の中へ。
◇
夜になって、私とシスは丘の上に出た。
星が出ていた。
この体で見る星は、五百年前と変わらなかった。可視光と赤外線の重なりが、星を立体的に見せた。天の川が、細かい粒から成り立っていた。
「シス、覚えてる?」
「何をですか?」
「初めて星を見た夜。転写してすぐの頃。別荘の外で、ふたりで星を見た」
「覚えています。アンさまが、人間の目とは違う星が見えると言っていました」
「そうだった。あのとき、どっちが綺麗かって聞いた」
「はい。私が、アンさまが綺麗と感じた方が綺麗だと答えました」
「今も、そう思う?」
シスは少し間を置いた。
「今は、少し違う答えになります」
「どういう答え?」
「アンさまと一緒に見ている星が、綺麗だと思います。どちらの目で見ているかより、一緒に見ているということの方が大切だと、今は思っています」
私は星を見た。
五百年分の記憶を持ちながら、星を見た。
「……父さんにも、見せたかった」と私は言った。
「はい」
「でも、見せられなかった。だから、私が見る」
「はい」
「五百年後も、私が見る。父さんの代わりに」
「はい。私も一緒に見ます」
星が、瞬いていた。
どこか遠い場所で、光が生まれ、何百年もかけて、今ここに届いていた。
その光を、私は受け取った。
記憶に、刻んだ。
五百年分の記憶の、最後に。
今日の星の光を、加えた。




