第三十七章 忘れること
転写から三百八十年が経った年に、私は初めて、記憶の欠損を自覚した。
場所は、南の海岸だった。
海を初めて見た日があった。転写してから数年後のことだった。シスと一緒に、旅の途中で、崖の上から見た。波が、地平線まで続いていた。あの日のことは鮮明に覚えていた。
でも、その海岸の名前が出てこなかった。
名前だけが、消えていた。
「シス、あの日の海の名前、覚えてる?」
「ダルマ海です」
「……そうか。ダルマ海」
「記憶にありましたか?」
「……なかった。名前だけ、なかった」
シスは少しの間、黙った。
「私の記録にはあります。アンさまの記憶へ補完します」
「うん。ありがとう」
でも、補完できたとしても、それは本当の私の記憶ではなかった。
シスの記録から引き出した情報だった。
そのことが、少し引っかかった。
研究所でソフィアの後継者にあたる研究者に診てもらった。
「予測していた通りです」とその研究者は言った。名前はユラという、四十代の女性だった。ソフィアの弟子の、さらに弟子だった。「三百八十年が経ちました。チップの経年変化は最小限に抑えられていますが、ゼロではありません。固有名詞や数字など、感情と結びつきにくい情報から、少しずつアクセスしにくくなります」
「消えたわけじゃない?」
「消えてはいません。でも、検索にかかりにくくなっています。意識して呼ぼうとしても、出てこないことがある」
「それは、増えていく?」
「少しずつ、増えていきます」
「固有名詞や数字から始まって、その後は?」
「感情と強く結びついた記憶は、最後まで残ります。でも、そうでない記憶から、順番に」
私はその言葉を、しばらく受け取っていた。
「父の声は?」
「お父様の声は、強い感情と結びついています。最後まで残ります」
「コルの手紙は?」
「コルさんの手紙の内容は、感情記憶に分類されます。残ります」
「楢の木の音は?」
「……残ります。確実に」
「それで十分だ。名前が消えても、数字が消えても、感情は残る。それで十分だ」
ユラは少し間を置いて、言った。
「アンさん、ひとつ提案があります」
「なに?」
「記憶の定期的なバックアップを取ることを、勧めます。チップの内容を、研究所のサーバーに定期的に保存する。欠損が進んでも、バックアップから復元できるようにする」
「それは、つまり、どういうこと?」
「アンさんの記憶が、研究所に保存される。万が一のときに、参照できる」
「……私の記憶が、研究所にある、ということ?」
「はい」
私は少し考えた。
「シスの記憶も?」
「もちろん。シスさんのバックアップも取ります」
「アナが始めた記録の話と、同じことだ」
「そうです。アナさんが始めた方針の延長です。記憶を守ること。それが研究所の使命になっています」
私はユラを見た。
「……アナは、ここにいないけど、今もここにある」
「はい。アナさんの考えが、研究所の中に生きています」
「コルも、ダンも、ミア先生も、父さんも、みんな、何かの形でここにある」
「はい」
「じゃあ、バックアップを取ろう。私も、その中に入る」
◇
バックアップを取った後、私はしばらく、研究所の中を歩いた。
壁に、写真が飾られていた。
研究所の歴史の写真だった。アナが所長だったときの写真。その後継者の写真。代々の研究者の顔が並んでいた。
ソフィアの写真もあった。
三十代のソフィアが、真剣な顔でこちらを見ていた。
「ソフィアは、元気にしているかな」と私は思った。
でも、ソフィアはもういなかった。
百年以上前に亡くなっていた。
それがわかっていても、写真を見ると「元気かな」と思った。
それが記憶の性質だと、今は思う。
強い印象を残した人は、死んだ後も、現在形で頭の中にいる。元気でいてほしいと思う。会いたいと思う。
記憶の中では、みんな生きていた。
「アンさま。どうしましたか?」
「ソフィアのことを考えてた」
「はい」
「元気かな、と思った。でも、いないんだ」
「はい。百年以上前に」
「わかってる。でも、元気かなと思った」
シスは黙った。
「おかしいかな?」
「おかしくないと思います。私も、コルのことを思うとき、元気かと思います。コルがいないことは知っています。でも、元気かと思います」
「そうか?」
「それが記憶の中で生きている、ということだと思います」
「うん。そうだね」
私はソフィアの写真を、もう少し見た。
「ソフィア、元気だよ。あなたの研究が、今も続いてる」と私は言った。写真に向かって、静かに言った。
廊下に、他に人はいなかった。
ただ、写真の中のソフィアが、真剣な顔で見ていた。




