第三十六章 数字
転写から三百二十年が経った年の秋、グリアの研究所のスタッフが私を待っていた。
「セリアさんの子孫が、あなたを待っています」
私が最後にセリアと話したのは、転写後四十二年の年だった。あのとき「いつか教える」と言っていた数字がある。三百年近く前に言った約束だった。
スタッフに案内された。
研究所の奥、岩壁に面した部屋だった。転写直後にはじめてここへ来たとき、セリアはこの部屋にいた。三百年以上が経った今、セリアの子孫がこの部屋にいる。
「来ましたか?」
「来ました」
「座ってくださいな」
椅子を引いて座った。
◇
「私は先祖セリアの子孫で、名は同じセリアです。年はもう六十過ぎです」
「そ、そうなんですね……」
「ええ。ご先祖様から代々の口伝で、あなたに”ここに来た人数”を知らせることになっています。教えてもいいですか?」
「……はい」
「三百年近く前に『いつか教える』と。それで合っていますか?」
「合っています」
「その時『準備ができたら教えてください』と言ったことが伝わっています。準備はできましたか?」
私は少しの間、考えた。
三百年近く前の私は、「千年あるので、そのうちに」と笑って答えた。準備ができるかどうか、わからないまま言った。
今の私は、どうか?
「……できています。聞かせてください」
セリアはゆっくりと息を吸った。
「グリアが開かれて以来、地図を受け取ってグリアを目指した人間の累計数が、記録に残っている。先祖のセリアが長を務めた期間だけでなく、その後の三百年分も含めて、研究所が記録している」
「はい」
「その数は、十二万八千四百七十一人だ」
私は動かなかった。
数字が、頭の中に入ってきた。
十二万八千四百七十一。
「その中で、実際にグリアに辿り着いた人間の数は、九万三千二百十八人だ」
九万三千二百十八。
「グリアで生まれた人間の数は、二十一万四千人を超えている。今も増え続けている」
二十一万四千。
私の演算が、乱れた。
うまく処理できなかった。何かを計算しようとして、できなかった。数字が大きすぎた。数字の意味が、大きすぎた。
「アンさん」とセリアが言った。
「……はい」
「泣いていいですよ」
「涙腺がありません」
「機械は泣かないのですか」
「私は……機械の体を持つ、人間です」
「ならば泣いても大丈夫です」
私は何も言えなかった。
声が出なかった。
演算が、止まろうとしていた。
「あなたの地図が、あの数字を作ったのです。お前の父親の研究が、あなたを動かした。あなたが動いて、地図を渡した。それが、あの数字なのです」
「……私は、ただ歩いただけです」
「ただ歩くことが、どれだけのことか。私にもわかります」
声が、震えた。
機械の声が、震えた。
「……ありがとうございます」
「礼はいいです。私は数字を読んだだけですから」
「セリアさんの一族がここを守ってくれたから、その数字がある」
「それはそうかもですが……お互い様、でしょうか」
「はい。お互い様です」
◇
しばらく沈黙があった。
岩壁が、窓の外に見えた。三百年前から変わらない岩壁だった。
「あなたの父親は、良い研究をされましたね」とセリアは続けた。
「はい」
「娘のために、世界を変えるものを作った。そういう人間が、時々いる。自分のことではなく、誰かのために全力を尽くす人間が」
「父は……気づいていなかったと思います。世界を変えるとは」
「そうかもしれん。でも気づいていなくても、変わる。それが良い仕事というものですよ、きっと」
私は空を見た。
岩壁の向こうに、空があった。
「これからも、良い旅をしてくださいね」
「はい」
「グリアは、私達一族がいなくなってもコルさんの子孫が続けてくれる。あなたは旅を続けてくださいね」
「続けます」
セリアはうなずいた。
◇
その日の夕方、私はグリアの広場に出た。
ダンが植えた楢の木は、今では大きな木になっていた。グリアの広場の端で、枝を広げていた。
私はその木の前に立った。
「ダンさん、コル。久しぶり。今日はあいさつに来たよ」
木が、風に揺れた。
「ミア先生も、ルカさんも、ダンさんも、コルも。みんな、いなくなった」
葉が鳴った。
「でも、全員、覚えています。全員、このチップの中にいます」
風が止んだ。
「それで十分です。記憶が続く限り、みんなそこにいます」
空が、夕暮れの橙に染まっていた。
シスが隣に立っていた。
「アンさま。今日は、よく話しました」
「そうだね」
「話すのは、疲れましたか?」
「疲れない。でも、重い」
「重い、というのは」
「記憶が、増えた。また少し、重くなった」
「はい」
「でも、捨てたくない。重くても、持っていたい」
「はい」
「それが、私です」
シスが、少しだけ首をかしげた。
「……はい。それがアンさまです」
空が暗くなっていた。
星が出始めていた。
私たちは広場の楢の木の前に、しばらく立っていた。




