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第132話「番外編『老兵の記憶』:戦場之誓!手合?死線?」


 辺境パプリカ領ピメント。


 その中心にそびえ立つ堅牢な領主館の執務室にて。

 パルスイートお嬢様が、メレンゲの迷宮都市にいるビアンコ男爵を頼るという決断を下し、サッカリンやサラヤが慌ただしく動き出す中。

 私、アスパルテーム家執事のソルビトールは、一人静かに目を伏せ、遠い過去の記憶へと意識を沈めていた。

 

 自我を完全に封印し、防衛本能のみで動く戦闘マシーンと化したズルチン侯爵令嬢のチクロ様。

 一騎当千の怪物であり、四大至宝を持たねば止められぬほどの圧倒的な武力を誇る彼女が、この領地へ向けて進軍してくるかもしれないという絶望的な凶報。

 その規格外の武の気配と、目前に迫り来る理不尽な死の予感は、私の脳裏に、血と泥に塗れた十数年前の記憶をあまりにも鮮明に蘇らせていた。


 一人の戦友と、生涯忠誠を誓った主君、前アスパルテーム伯爵を失った、あの凄惨な戦場の記憶である。

 

 ……あれは、先代当主であるパルスエット様が、無事に出産を終えながらも、重い病によって床に臥せっていた時期のことだ。

 前アスパルテーム伯爵は、心臓の病に苦しむ娘に代わり、私を伴って隣国『聖リプトーン教国』との防衛線へと出兵していた。

 

 当時の防衛線には、両国間で一時的な休戦協定が結ばれていたこともあり、名目上はあくまで「国境警備」という形での駐屯であった。

 最前線の拠点には、他領からの指揮官や兵士たちも多数集結しており、張り詰めた緊張感の中にも、どこか膠着状態特有の弛緩した空気が漂っていた。

 だが、そのかりそめの平穏は、一人の男の到着によって見事に粉砕されることとなる。

 

 「……あれは、ズルチン侯爵の馬車か」

 

 陣幕の隙間から外の様子を眺めていた前伯爵が、低く呻くような声を漏らした。

 到着したばかりの武骨な馬車から降り立ったのは、アセスルファム公爵派閥の筆頭武家であり、王国最強の武人として名高い当代のズルチン侯爵。

 チクロ様の父親である、あの豪快で規格外な男であった。

 

 問題は、彼が単身でここへ来たこと自体ではない。

 彼の手に握られていた、幾重にも封印の布が巻かれた禍々しい長尺物。

 すなわちズルチン侯爵家の至宝、『魔槍ズールティン』が持ち込まれたことが最大の懸念事項だったのだ。

 

「防衛を目的とした陣地に、広域殲滅兵器であるズールティンが持ち込まれた……

 これは、どういうことだか分かるか、ソルビトール」

 

「はい、旦那様。

 攻撃の要がこの最前線に配置されたということは……つまり、王家は本気で『戦端を開く』つもりなのでしょう。

 両国間で結ばれた休戦協定を、一方的に破棄してでも」

 

 私の答えに、前伯爵は深く重い溜息をついた。

 平和と交易を重んじる鳩派の我々にとって、王家のこの好戦的で傲慢な対外政策は、ただ無益な血を流し、領民の生活を疲弊させるだけの愚行にしか思えなかった。

 だが、王命は絶対である。

 我々貴族に逆らうことなどできず、ただ来るべき理不尽な死地に赴くしかない。

 陣幕の内部は、およそ武功を立てる高揚感などとは無縁の、ただただ重く悲壮な空気に包まれていた。

 

 ――ドゴォォォンッ!!

 

「ぐはぁっ!?」

 

 突如、重苦しい空気を切り裂くように、陣幕の外から凄まじい打撃音と男の悲鳴が響き渡った。

 敵の奇襲か。

 私は反射的に立ち上がり、前伯爵を背に庇いながら陣幕の外へと飛び出した。

 

 だが、そこで展開されていたのは教国軍の襲撃などではなかった。

 

「だらしねぇぞ!

 お前ら、それでも王国の剣か!

 腰が浮いてるんだよ、腰が!

 そんな足腰じゃ、戦場で一番最初に死ぬのはお前らだぞ!」

 

「ひぃぃぃっ!」

 

 土煙が舞う練兵場の真ん中で、先ほど到着したばかりのズルチン侯爵が丸太のように太い六尺棒を片手に暴れ回っていた。

 他領の兵士たちを相手に「稽古」と称して無理やり手合わせを挑み、次々と宙へ打ち上げ薙ぎ倒しているのだ。

 兵士たちは阿鼻叫喚の悲鳴を上げながら逃げ惑っているが、侯爵は楽しそうに豪快な笑い声を上げている。

 王家槍術指南の筆頭である彼の棒術は、まさに神技の域に達していた。

 六尺棒の一振りが生み出す風圧だけで、周囲の土が抉れている。

 

「……相変わらずの、狂犬ぶりですな」

 

 私が呆れて呟くと、後ろからついてきた前伯爵も苦笑いを浮かべた。

 

「全くだ。

 だが、彼なりに、明日をも知れぬ死地に向かう兵士たちの緊張を解してやっているつもりなのだろう。

 圧倒的な武を見せつけることで、逆に士気を保たせている。

 ……少し、やりすぎな感は否めないがな」

 

 前伯爵はそう言うと、堂々とした足取りで、暴れ回る侯爵の方へと歩み寄っていった。

 

「おお、アスパルテーム伯爵!

 ご無沙汰しておりますな!」

 

 前伯爵と目が合ったズルチン侯爵は、六尺棒を肩に担ぎ、同じアセスルファム派閥のよしみとして、気さくで礼儀正しい貴族の挨拶を交わしてきた。

 荒々しい戦いぶりとは裏腹に、彼もまた名門の当主としての矜持を持つ男である。

 ひとしきり天候や陣地の状況についての世間話をした後、侯爵の鋭い眼光が、前伯爵の斜め後ろに控えていた私へと向けられた。

 

「なんだ?

 アスパルテームのところが来てるということは……。

 ソルビトール、やっぱりお前もいるよな?」

 

 侯爵の顔に、肉食獣が極上の獲物を見つけた時のような、獰猛で嬉しそうな笑みが浮かぶ。

 

「よぅし!

 前にでてこいや~!

 今日こそ決着つけてやるぞ!!」

 

 名指しでのご指名である。

 周囲で這いつくばっていた兵士たちが、「あの化け物から矛先が逸れた」とばかりに安堵の息を吐き、同情の視線を一斉に私に向けてくる。

 私は静かに一礼し、これ見よがしに深い溜息をついてみせた。

 

「……閣下。

 ここは戦地です。

 いつ出撃の号令がかかるかもしれぬ最前線で、そこまで激しく体力を消耗する必要などありませんでしょう?」

 

 私が極めて常識的な正論で躱そうとすると、侯爵は「カッカッカ!」と腹の底から笑い飛ばした。

 

「馬鹿をいうな!

 だからこそだ!!

 もう生きて帰れないかもしれないのが、戦場だからな!!

 思い残すことがないように、今ここで雌雄を決しておくべきだろうが!」

 

 その言葉には、武人としての強烈な死生観と、王命によって死地に赴く覚悟が込められていた。

 

 私とズルチン侯爵との因縁は、数年前、アスパルテーム伯爵家で開かれた派閥の会合にまで遡る。

 あの夜、酒が進み過ぎて機嫌を良くした侯爵は、興に乗って我が館の重厚なオーク材の扉を、その馬鹿力で粉砕してしまったのだ。

 『誰か、俺の稽古相手を出せ!』と管を巻く彼に対し、前伯爵の命を受けて相手をしたのが、執事である私だった。

 

 あの時のルールは明確だった。


『俺に一発でも入れられたら、お前の勝ちでいいぞ!』


 長大な六尺棒を素振りのように振り回す侯爵の隙を突き、私は神速の歩法で彼の死角へと潜り込んだ。

 そして、一切の躊躇なく、その無防備な広い背中を全力で蹴り飛ばしたのだ。

 

 見事に顔面から庭に突っ込んだ侯爵は、怒るどころか『見事だ!』と大笑いし、それ以来、訪問の度に私へ手合わせを挑んでくるようになったのである。


 これまでの戦績は、3戦して私の2勝1敗。

 一度だけ、彼の理不尽なまでの膂力と槍術特有の変幻自在な歩法に捕まり、強烈な一撃を貰って敗北を喫したことがあった。

 

「旦那様。

 よろしいでしょうか」

 

「ああ。

 あまり無茶をさせるなよ」

 

 前伯爵の許可を得て、私は執事服の外套を静かに脱ぎ捨てた。

 そして、倒された兵士が取り落としたのであろう木剣を拾い上げ、構えを取る。

 

「さあ、来い!

 ソルビトール!」

 

 侯爵は六尺棒を中段に構え、その全身から圧倒的な闘気を立ち昇らせた。

 構え一つで、周囲の空気が重くのしかかってくるような錯覚を覚える。

 

「……参ります」

 

 私が地を蹴った瞬間、死闘の幕が開いた。

 

 ブォンッ!!

 

 空気を切り裂くような轟音と共に、侯爵の六尺棒が私の頭上を薙ぎ払う。

 私は姿勢を低くしてそれを躱し、そのまま彼の懐へと飛び込んで掌底を放つ。

 だが、侯爵は長い棒の中央部分を盾のように使ってそれを完璧に受け止め、即座に石突きによる強烈な突きを放ってきた。

 

「甘いぞ!」

 

「そちらこそ」

 

 ガシィッ! ガキンッ!

 

 硬い木材が交錯する音が、練兵場に連続して響き渡る。


 侯爵の攻撃は、まさに暴風だ。

 丸太のように太い六尺棒を、まるで箸でも扱うかのように軽々と回転させ、刺突、薙ぎ払い、打ち下ろしと、変幻自在の打撃を繰り出してくる。


 その一撃一撃が、まともに受ければ骨が砕けるほどの質量と速度を持っている。

 だが、その棒術には一切の淀みがなく、無駄な感情の起伏や「起こり」が存在しない。

 純粋な武の極致。

 

 私は彼の一撃を紙一重で躱し、あるいは受け流し、ひたすらに死角を突くためのカウンターを狙い続けた。

 数十分にも及ぶ激しい攻防。

 周囲の兵士たちは、ただ息を呑んで二人の達人の戦いを見守ることしかできなかった。

 

 やがて、互いの呼吸が荒くなり、汗が土に落ちる。

 

(……ここだ!)

 

 侯爵の六尺棒が大上段から振り下ろされる刹那、私は左足を踏み込み、彼の右腕の死角へと回り込んで必殺の斬撃を横なぎに放とうとした。

 私の剣先が、彼の首筋を捉える寸前。

 

「取ったぞ、ソルビトール!!」

 

 侯爵の口角が、ニヤリと吊り上がった。

 振り下ろされるはずの六尺棒の軌道が、空中で不自然なほど急激に変化した。

 力任せの打撃を途中で完全に止め、手首の返しと棒の遠心力だけを利用して、強引に軌道を横へと修正したのだ。

 

(しまった……罠か!)

 

 私の反応が、ほんの一瞬だけ遅れた。

 

 ドスッ!!

 

 侯爵の六尺棒の先端が、私の左の脇腹を正確に、しかし致命傷にならない絶妙な力加減で捉えた。

 

「ぐっ……!」

 

 私は数歩後ずさり、右膝を地面についた。

 息が詰まり、激しい痛みが脇腹を走る。

 

「はぁっ、はぁっ……。

 どうだ、俺の勝ちだな!」

 

 侯爵は六尺棒を地面に突き立て、荒い息を吐きながらも、最高に嬉しそうな笑顔を向けた。

 

「……ええ。

 私の完敗です、閣下」

 

 私が素直に負けを認めると、侯爵は「カッカッカ!」と空を見上げて高笑いした。

 

「やっと2対2に並んだな!

 次は俺が勝ち越してやるからな、首を洗って待っていろよ!」

 

 彼は無邪気に、まるで子供のように次への約束を口にした。

 

 だが、その平和な時間は、長くは続かなかった。

 

 「伝令ェェェッ!!」

 

 陣地の奥から、血相を変えた騎馬の伝令が猛烈な勢いで駆け込んできた。

 伝令は前伯爵とズルチン侯爵の前で転がり落ちるように馬を降り、片膝をついて叫んだ。

 

「王国軍司令部より、全軍へ下知!

 『聖リプトーン教国との休戦協定を破棄!

 これより、全軍をもって国境を越え、教国領へと侵攻せよ』とのことです!!」

 

「……ッ!」

 

 陣地の空気が、一瞬にして凍りついた。

 恐れていた事態が、最悪の形で現実のものとなったのだ。

 休戦協定の一方的な破棄。

 それは、教国との全面的な、そして血で血を洗う泥沼の戦争の始まりを意味していた。

 

「……嫌な役回りだなぁ、おぃ!」

 

 ズルチン侯爵は、忌々しげに頭をガシガシと掻きむしった。

 だが、その目には先ほどの無邪気な色はなく、国を背負う最強の武人としての冷徹な光が宿っていた。

 彼は控えていた家臣から、厳重に封印された『魔槍ズールティン』を受け取る。

 

「アスパルテーム伯爵。

 後陣は頼んだぞ。

 ……わしが、前線の道を切り開く」

 

「ええ。

 くれぐれもご無理のないように」

 

 前伯爵の言葉に、侯爵は背を向けたまま、ヒラヒラと片手を振って応えた。

 魔槍を肩に担ぎ、前線へと向かって歩き出すその広く大きな背中。

 それが、私がズルチン侯爵を見た、最後の姿となった。

 

 ……王国の先陣を切ったズルチン侯爵の快進撃は、凄まじいものだった。

 魔槍ズールティンが放つ絶死の瘴気は、教国の砦を次々と蹂躙し、王国軍に圧倒的な優位をもたらしたかに見えた。

 だが、その快進撃は、教国が戦線に投入した『一人の少女』によって完全に覆されることとなる。

 

 教国の聖女。

 彼女が放つ理不尽なまでの聖属性の回復力と浄化の光は、魔槍の瘴気を完全に相殺し、教国軍を不死身の軍団へと変貌させたのだ。

 

 結果として、魔槍ズールティンの力は封殺され、防壁を破り切れなかったズルチン侯爵は、敵の波状攻撃の前に壮絶な討ち死にを遂げた。

 そして、崩壊する防衛線を維持し、我々部下を逃がすために自ら殿しんがりの盾となった前アスパルテーム伯爵もまた、教国の刃に貫かれ、帰らぬ人となったのである。

 

『次は俺が勝ち越してやる』

 

 あの戦場の片隅で交わした、武人としての約束。

 それが果たされる日は、永遠に失われてしまった。


     ◇

 

「……」

 

 私は、静かに目を開けた。

 パプリカ領主館の執務室。

 窓から差し込む平和な陽光が、私の古い傷跡を微かに照らしている。

 

 パルスイートお嬢様は、親友を救い、この領地を守るために、ビアンコ男爵へと相談を持ち掛けるという次なる一手を打たれた。

 サッカリンも、サラヤも、それぞれの役割を果たすために動いている。

 

 かつての盟友の娘、チクロ様。

 彼女は今、自我を封印され、感情なき兵器となっている。


 このままではいずれ、こちらへとその矛先を向けてくる可能性は高いだろう。

 

(……先代ズルチン侯爵様。

 貴方様の娘君の進撃、この老骨がどこまで引き留められるかは分かりませんが……。

 せいぜい、お嬢様が逃げ切る時間位は稼がせてもらいましょう)

 

 私はもう、大切な主君を失い、逃げ帰るだけの無力な男ではない。

 パルスイートお嬢様だけは、この命に代えても必ず守り抜く。


 前伯爵への揺るぎない忠誠を胸に、老執事は静かに覚悟の炎を燃やすのであった。


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