第125話「絶望帰還!政略?結婚?」
辺境パプリカ領での「ガス抜き」を終え、チクロ・ズルチンは帰路についていた。
彼女の内に在るのは、前世でこの世界の基となった乙女ゲーム『ホーリースイート』のシナリオライターを務めていた千歳結衣の自我である。
しかし、今や彼女は一人の侯爵令嬢として、そして武門の名家の象徴である魔槍『ズールティン』の契約者として、この世界を確かに生きていた。
帰還の道中、チクロはアセスルファム公爵領へと立ち寄る。
かつての主筋であり、今は「パルスイートとチクロが同じ転生者」という秘密を共有する親友、エリスリトールへ伝言を届けるためだ。
『あんたがうちの領地の森にドデカい更地を作ったってことと、ゼブラー商会を手配してくれてありがとう、こっちは元気にやってる』ってだけ伝えておいてと言う、パルスイートらしいぶっきらぼうだが信頼に満ちた言葉を伝え、ついでにお土産として預かった『フリーズドライ・モヤシスープ』の木箱をエリスリトールに手渡した。
エリスリトールは目を輝かせてそれを受け取り、パルスイートの無事を心から喜んでいた。
その真っ直ぐな笑顔に少しだけ救われる思いを抱きながら、数日の余暇をエリスリトールと伴に過ごした。
彼女の家の紅茶葉を大量に消費したチクロは、再び馬車を走らせ、自らの実家であるズルチン侯爵領への帰路についたのであった。
数日の長旅を経て、ズルチン侯爵家の本邸が見えてきた。
武闘派の筆頭家門らしく、華美な装飾を排した質実剛健な城館。
分厚い石壁と、常に研ぎ澄まされた警戒網を敷く私兵たちの姿が、この家の在り方を如実に物語っている。
チクロが馬車を降りると、出迎えた使用人たちが恭しく頭を下げた。
「お帰りなさいませ、チクロお嬢様」
「ええ、ただいま。
叔父様は執務室にいらっしゃるかしら?」
チクロは長旅の疲れを一切顔に出さず、淡々と尋ねた。
叔父であり、現在の当主代理を務める男。
本来であれば、チクロの父が亡くなった後、正統な後継者である彼女が当主となるまでの「繋ぎ」の役目を果たすはずの人物だ。
「はい。
ですが、現在は大切なお客様と面会中でございます」
「そう。
なら、少し待たせてもらうわ」
チクロは自室へ戻る前に、パルスイートから預かったモヤシスープの件を片付けてしまおうと考えていた。
お湯を注ぐだけで野菜スープとなるこの画期的な商品は、遠征や過酷な訓練を行う軍部にとって、まさに革命的な携行食となり得る。
ズルチン家の私兵部隊、ひいては王国軍全体への導入を提案すれば、パルスイートの商売を強力に後押しできるはずだ。
そんな実利的な計算を巡らせながら、チクロは叔父の執務室がある回廊へと向かった。
執務室に近づくにつれ、チクロは自らの気配を極限まで薄くした。
これは魔槍の使い手として培われた無意識の防衛本能であり、同時に「千歳結衣」としての冷静な観察眼の表れでもあった。
豪奢な彫刻が施された執務室の重厚な扉。
その少し手前の曲がり角で、チクロはピタリと足を止めた。
微かに、扉が開く音がしたからだ。
「……では、手筈通りに。
殿下も貴殿の忠義を高く評価しておいでだ」
「ははっ。
我がズルチン家は、王家のためにこの命を捧げる覚悟でございます。
くれぐれも、よろしくお取り計らいのほどを……」
聞こえてきたのは、叔父の媚びへつらうような卑屈な声と、ひどく傲慢な響きを持った見知らぬ男の声だった。
チクロは壁の陰に身を隠し、そっと視線を向ける。
執務室から出てきたのは、深くフードを被った男だった。
だが、その隙間から覗く外套の留め具には、王家の紋章が誇らしげに刻み込まれている。
(王家の密使……)
男は周囲を警戒するように一度だけ振り返り、足早に回廊の奥へと消えていった。
叔父はその後ろ姿が見えなくなるまで深く頭を下げ続け、やがて顔を上げると、安堵と歪んだ野心が入り混じったような、醜悪な笑みを浮かべた。
その光景を見た瞬間、チクロの心の奥底で、何かが冷たく凍りつくような音がした。
(……やっぱりか)
チクロは、壁に背を預けたまま、静かに目を閉じた。
以前から薄々は感づいていたことだ。
権力欲に憑りつかれた叔父が、正統な後継者であり、魔槍ズールティンの契約者である自分を疎ましく思っていることを。
自分が当主の座に居座り続けるためには、邪魔な姪を合法的に、かつ自分に最大の利益をもたらす形で排除しなければならない。
そのための最善の策が、「王家への売却」だったのだ。
エリスリトールと第二王子アーリーの婚約破棄。
そして、唐突に発表された自分とアーリーの婚約。
あれは単なる王家の気まぐれでも、パルスイートの小賢しい工作の余波でもなかった。
叔父が自らの保身と権力欲のために、王家と裏で結託し、姪である自分と四大至宝である魔槍をセットにして生贄として差し出した結果だったのだ。
(……まだ、救いようがあるようなら。
ほんの少しでも、ズルチン家の未来を案じる気持ちが残っているのなら。
血縁としての感情もあったのに)
だが、今の叔父の卑屈な笑みを見て、その淡い期待は完全に砕け散った。
もはや、この家に自分の味方はいない。
いるのは、自分を都合の良い政治の駒として利用しようとするハイエナたちだけだ。
千歳結衣としての客観的な視点が、この状況の絶望的なまでの手詰まり感を冷酷に弾き出していた。
「……」
チクロは音もなくその場を立ち去り、別の回廊へと向かった。
歩きながら、すれ違った年配の侍従を呼び止める。
「お嬢様。
お帰りなさいませ」
「ええ。
一つ、頼みがあるのだけれど」
チクロは感情を一切表に出さず、淡々と指示を出した。
「うちにも出入りしている、王国輜重隊に繋がりのある軍需商人を至急呼んでちょうだい。
アスパルテーム伯爵家のパプリカ領から、非常に優秀な野戦用携行食を卸す手筈が整っているの。
大量発注になるから、早急に見積もりを出させるように」
「承知いたしました。
すぐに手配いたします」
侍従が足早に去っていくのを見送りながら、チクロは小さく息を吐いた。
どんなに絶望的な状況にあろうとも、友との約束だけは果たす。
それが、彼女の誇りであり、この理不尽な世界に対するささやかな抵抗でもあった。
誰もいない静かな回廊で、チクロはたった一人、誰にも聞かれないように大きな溜息をついた。
自らに迫る逃れられない暗い運命。
王家という巨大な鳥籠に閉じ込められ、自由を奪われる未来。
それでも、彼女は足を進めることを止めなかった。
重い扉を開け、自室へと足を踏み入れる。
そこには、既に仕立て上げられた純白のウェディングドレスが、まるで彼女を捕食する蜘蛛の巣のように、不気味な美しさを放って飾られていたのである。
◇
そして、時は少しだけ流れる。
パルスイートやエリスリトールが、辺境のパプリカ領で魔獣の森の探索会議を開き、新たな事業に向けて活気づいていたまさにその頃。
王都の中心にそびえ立つ壮麗なる大聖堂では、国を挙げての華やかで盛大な慶事が執り行われていた。
第二王子アーリー・ソーヴィニヨンと、ズルチン侯爵令嬢チクロの結婚式である。
ステンドグラスから差し込む色鮮やかな光のシャワー。
天高く鳴り響く祝福の鐘の音。
集まった貴族たちの拍手と歓声が、神聖な空間を満たしている。
だが、純白のウェディングドレスに身を包み、祭壇の前に立つチクロの心は、肌を刺すような冷たい恐怖と底知れぬ警戒心に完全に支配されていた。
彼女の隣に立つ新郎。
金髪碧眼の、誰もが羨むような美しい容姿を持つ第二王子アーリー。
しかし、チクロの――千歳結衣の目は誤魔化せなかった。
(……こいつは私が書いたアーリー王子じゃない)
シナリオライターとして、何万文字も彼のセリフを書き、彼というキャラクターの善性も悪性もすべて把握している。
本物のアーリーはもっと誇り高く、不器用で、けれど真っ直ぐな光を瞳に宿していたはずだ。
だが、今隣に立っているこの男の瞳の奥にあるものは違う。
それは、腐りきったドブに停滞した汚泥のような、暗く濁った邪悪な光だ。
他者をNPCとしか見ていない、自分だけが世界の中心であると信じて疑わない、醜悪な傲慢さ。
得体の知れない何か恐ろしい者がこの王子の皮を被っているのだと、本能が警鐘を鳴らしていた。
(……なんておぞましい)
チクロは、ドレスの下で小さく身震いした。
この男の目的が何なのかは分からない。
だが、彼が自分を愛しているわけでも、国を思っているわけでもないことだけは確かだ。
自分は、この男の野望のための『便利な兵器』として手に入れられようとしているのだ。
「さあ、誓いの言葉を」
神父の厳かな声が響く。
アーリーがチクロの方を向き、口角を吊り上げて歪んだ笑みを浮かべた。
「健やかなる時も、病める時も……君を愛し、守り抜くことを誓うよ、僕の可愛いチクロ」
甘く、耳障りの良い声。
だが、その裏に隠された絶対的な支配欲に、チクロは吐き気すら覚えた。
王命という見えない鎖に縛られ、逃げることなど許されない。
ここで拒絶すれば、ズルチン家は取り潰され、私は王家の顔に泥を塗った罪人として捕らえられ、魔槍ズールティンと伴に強引にその支配下に置かれるだろう。
いずれにせよ詰んでいるのは同じだが、後者はより立場が悪い。
そんなことになれば、エリスやパルスイートたちにも累が及ぶかもしれない。
(……耐えるのよ。
今はまだ、その時じゃないわ)
千歳は心の中で自分に言い聞かせ、己の感情を深い氷の底へと封じ込めた。
「……はい。
誓います」
絶望の淵で、チクロはただ震える唇から、その言葉を絞り出すしかなかった。
すべては、目の前に居るこの腐りきった男の思い描く最悪のシナリオ通りに進行しているかのように見えた。
だが、この儀式の裏で、彼女と伴にある『もう一つの魂』が、儀式の異様さを察して最大限の警戒体制を取っているなど、傲慢な偽王子は知る由もなかったのである。




