第120話「結婚式典!逃亡?避難?」
ソーヴィニヨン王国の王都、その中心にそびえ立つ壮麗なる大聖堂。
天高く鳴り響く祝福の鐘の音と、ステンドグラスから差し込む色鮮やかな光のシャワーに包まれながら、私は純白のウェディングドレスに身を包み、祭壇の前に立っていた。
王族の結婚式。
国を挙げての、華やかで盛大な慶事である。
本来ならば、花嫁として最高の幸福と歓喜に満たされるべきその場所。
そこに立つ私の心は、肌を刺すような冷たい恐怖と底知れぬ警戒心に完全に支配されていた。
私の隣に立つ新郎。
第二王子アーリー・ソーヴィニヨン。
金髪碧眼の、誰もが羨むような美しい容姿を持つ王子だ。
だが、その瞳の奥を覗き込んだ瞬間、私は背筋に氷をねじ込まれたようなおぞましい悪寒を覚えた。
私が前世でシナリオライターとして書き上げたゲームの知識。
そこにある『本来のアーリー王子』は、少し軽薄なところはあるものの、基本的には国を想い民を愛する優良物件の青年だったはずだ。
だが、目の前にいるこの男の瞳はどうだ。
底意地の悪い、腐りきったドブ泥のような暗く濁った光。
他者を見下し、世界を自分のゲーム盤か何かと勘違いしているような、圧倒的に傲慢で邪悪な気配が全身から滲み出ている。
(……こいつ、誰……?)
私の知らない裏設定?
ゲームの進行を狂わせる未知の何かってこと?
あるいは、パルスイートと同じように……この世界の住人ではない別の得体の知れない『邪悪な魂』が入り込んでいるとでもいうのだろうか。
創造主であるはずの私の知識が全く通用しない、未知なる恐怖。
それが今、私の伴侶となろうとしている。
逃げ出したい。
今すぐこの場から全力で走り去りたい。
だが、ズルチン侯爵家の令嬢として、そして何より王命によってこの場に立たされている以上、逃げることなど許されるはずもなかった。
「……チクロ・ズルチン。
其の方を、我が妃として生涯愛し抜くことを誓おう」
アーリー(と名乗る得体の知れない男)が、口元に歪んだ薄ら笑いを浮かべながら私の手を取る。
その手の爬虫類のような冷たさに、私はビクッと肩を震わせた。
◇
誓いの言葉が終わり、儀式は『指輪の交換』へと移った。
神父が恭しく差し出した、赤いベルベットのクッション。
そこに乗せられていたのは、王家の紋章が深く、そして禍々しく刻み込まれた、異様に重厚な結婚指輪だった。
(……なに、これ)
通常の指輪とは、明らかに放っているオーラが違う。
指輪そのものから、ドス黒い呪いのような瘴気が立ち上っているのが、魔力感知に長けた私にはハッキリと見えたのだ。
「さあ、私の可愛い妃よ」
アーリーが指輪を手に取り、強引に私の左手を取ると、薬指へとそれを滑り込ませた。
「……ッ!!」
指輪が嵌められた瞬間。
私の脳天に、熱した鉄の杭を直接打ち込まれたような、目の前が真っ白になるほどの激痛が走った。
「あ、が……っ……」
視界が赤黒く明滅し、立っていることすらままならなくなる。
指輪から発動した極めて強力な『呪い』が、私の精神の奥底へと容赦なく侵食してくるのがわかった。
これは、ただの指輪じゃない。
対象の自我を根こそぎ奪い去り、完全に意のままに操るための『隷属の指輪』だ。
王家は、魔槍ズールティンの使い手である私を、自我のない『戦闘マシーン』として使役するために、初めからこの結婚を仕組んだのだ。
私の意識が、深い闇の底へと急速に沈み込んでいく。
思考が溶け、自分が何者であったかさえも分からなくなっていく恐怖。
(……嫌……
私は……私は……っ)
完全に自我が奪われ、ただの操り人形へと成り果てようとしたその時だった。
私の魂の深淵で、何かが強く、激しく反発した。
私は、前世でトラックに轢かれて死んだシナリオライター千歳結衣だ。
だが、この世界に転生した際、私の魂の根源は『闇属性の眷属である魔槍ズールティンのインテリジェンス部分』へと宿っていた。
闇の眷属たる、強大なる魔槍の魂。
それが、王家の仕掛けた程度の呪いに対して、完全な支配を本能的に拒絶し、意識を奪われるまでに僅かな『猶予』を生み出したのだ。
「……チクロ!!」
私は、自分の中に同居しているもう一つの魂――本物のチクロお嬢様に向かって、魂の底から絶叫した。
その刹那。
祭壇の脇に安置されていた魔槍ズールティンが、激しく脈打ち、紫色の瘴気を爆発的に噴き出した。
槍の中に封じられていたチクロの魂が、魔槍の力を極限まで引き出し、私との魂の『共鳴』を強制的に引き起こしたのだ。
『千歳!!』
チクロの気高く、切実な叫びが脳内に響く。
次の瞬間、私(千歳)の自我が、肉体から弾き出されるようにして、一直線に魔槍ズールティンの中へと吸い込まれていく。
そして代わりに、槍の中にいた本物チクロの自我が、隷属の呪いに侵食されつつある肉体へと流れ込んでいった。
◇
魂の入れ替えが行われる、ほんの一瞬の狭間。
魂のネットワークで、私とチクロの切羽詰まった対話が交わされる。
『千歳!
滅杖の…アゼズルガルところへ逃げるのです!』
『チクロ!
貴方はどうなるのよ!!
その指輪の呪いを受ければ、貴方の自我が……っ!』
私は魔槍の中から、必死に彼女を引き留めようとした。
だが、チクロの意志は何よりも固かった。
『私は暫く自我を深く封印し、この体の制御を『槍であった彼女』の思考……純粋な防衛本能に委ねます!
自我さえ表に出さなければ、呪いに完全に支配されることはありません。
きっと、彼女(防衛本能)なら、私達の肉体を守ってくれる!』
『でも……!』
『ズールティンまで王家の手に渡るようなことになれば、それこそ破滅ですわ!
いつか必ず、エリスやパルスの足を引っ張ることになる。
ここは私が引き受けます。
だから……行きなさい!
千歳!!』
チクロの悲壮な、しかし誇り高い叫び。
彼女は、自らの魂を犠牲にしてでも、魔槍とともに宿る私を逃がし、友たちの未来を守ることを選んだのだ。
直後、肉体側とのリンクが完全に遮断された。
チクロは己の自我を深く、深い意識の底へと封印し、その肉体は感情の一切を失った、
そしてチクロ・ズルチンは無表情な『絶対防衛の戦闘マシーン』へと変貌を遂げたのである。
◇
その日の夜。
王城の奥深く、新郎新婦の寝室へと続く薄暗い回廊。
結婚の宴を抜け出したアーリーが、上機嫌な足取りで歩いていた。
「……カベルネ様、そろそろお時間です」
付き従う側近が、周囲を憚るように小声で声をかける。
その瞬間。
バキィッ!!
「がはっ……!?」
アーリーは、一切の躊躇なく、側近の顔面を容赦なく殴り飛ばした。
床に転がり鼻血を流す側近を見下ろし、彼は静かに、しかし激しい怒りを込めて吐き捨てる。
「……おい。
今は『アーリー様』だろうが。
誰かに聞かれでもしたらどうするつもりだ。
この無能が」
「も、申し訳ありません……っ!
アーリー殿下……っ!」
側近は血を拭いながら、必死に平伏する。
そうだ。
この男の正体は、第二王子アーリーではない。
密かに本物のアーリーと入れ替わった男は『カベルネ』と呼ばれていた。
そして、側近がその名で呼ぶということは、王家そのものがこの入れ替わりをハッキリと把握し、あえて『黙認』しているという異常な事実を示している。
「ふん。
まあいい。
親父殿も母上も、鳩派の甘言に踊らされたアーリーより、俺の方が王族として『使える』ということが良くわかっているようだな。
さて……あの小生意気な戦闘狂の女が『隷属の指輪』でどんな可愛い顔を見せてくれるか、楽しみだな」
カベルネは歪んだ邪悪な笑みを浮かべ、寝室の扉を開けた。
部屋の中央、天蓋付きの豪奢なベッドに、純白のネグリジェ姿のチクロが座っている。
彼女の瞳に光はなく、表情筋は完全に死滅していた。
「やあ、チクロ。
待たせたね」
カベルネが近づいても、彼女はピクリとも動かない。
「ふふ、見事な操り人形って感じだな。
あの指輪の洗脳は完璧。
さて、俺の妃になったんだから…相手をしてもらおうか!」
カベルネが無抵抗なチクロを押し倒そうと彼女の白い手に自らの手を伸ばす。
だが、彼女に触れたその瞬間だった。
ガシィッ!!!
「……え?」
チクロの右手が、カベルネの手首を万力のような恐るべき力で掴んでいた。
チクロの自我は封印されている。
だが、体の制御を委ねられた『槍の防衛本能』は常時発動している極限の身体強化の魔力ここぞとばかりに発露し、外部からの『敵意ある接触』に対して自動で反応を示したのだ。
メキッ……メキバキバキッ!!!
「ギャアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
王城の夜の静寂を切り裂く、カベルネの絶叫。
チクロは無表情のまま、一切の感情を交えずに、カベルネの手首の骨を粉々に握り潰したのである。
「痛い!
痛いぃぃぃっ!!
離せ!
この糞女ぁぁっ!!」
カベルネが必死に抵抗するが、チクロの力は桁違いだ。
騒ぎを聞きつけた近衛兵や治療師たちが雪崩れ込んできて、ようやくカベルネをチクロから引き剥がすことに成功した。
すぐに高度な回復魔法が施され、カベルネの手首は元通りに修復される。
だが、治療師から告げられた報告は、彼にとって屈辱的で絶望的なものだった。
「……殿下
妃殿下は意識がない状態でも常時極限の身体強化と防衛本能が働いているようです。
迂闊に触れようとすれば、反射的に命を奪われかねません。
拘束することも敵意として取られてしまうことから、我々では物理的な制御は不可能です」
「……チッ!!」
カベルネは忌々しげに舌打ちをし、壁を蹴り飛ばした。
「なんだあの化け物は!
だいたい女なんて他にいくらでもいる…
あんな面倒な戦闘狂は別室にでも軟禁しておけ!
…
いざという時に敵にぶつけるただの兵器として使えばいい!」
カベルネは吐き捨てるように言い残し、痛む腕を抱えて寝室から逃げ出していった。
こうして、チクロの肉体は王家に囚われながらも、誰にも手出しをさせない絶対的な要塞として、孤独な軟禁生活を強いられることになったのである。
◇
一方その頃。
王城の一室に安置されていた魔槍ズールティン。
その中に意識を移した私(千歳)は、チクロの決死の覚悟と、彼女が残してくれた猶予を無駄にするわけにはいかなかった。
(……行くわね、チクロ)
私は、魔槍に宿る自立飛行の能力を全開にした。
ガシャンッ!!
窓ガラスを派手に突き破り、魔槍は王城から夜空へと飛び出した。
王都の空を一筋の紫色の流星となって駆け抜ける。
王家の追手や、聖剣ソルビニオンの探索から完全に身を隠すため、私が向かうべき場所は一つしかない。
『アゼズルガルのところへ逃げるのです!』
チクロの最期の言葉。
私は王都を離れ、遥か遠くアセスルファム公爵領にそびえ立つ本邸を目指して、夜の闇を一直線に飛んだ。
夜通し飛び続け、静まり返った公爵領の本邸上空に到達した時、まるで私の来訪を予期していたかのように、最上階の窓がスッと自動で開いた。
私はその隙間へと飛び込み、部屋の中央に置かれた台座の上に着地する。
「……」
部屋の奥に鎮座していたのは、公爵家の至宝『滅杖アゼズルガル』だった。
鈍い銀色の輝きを放つその杖から、静かで、しかし底知れぬ力を持った念話が、私の意識に直接語りかけてくる。
『……ほう
ズルチン家の小娘が、随分と面白い形で逃げ込んできたものじゃな。
また王家の小倅どもが、つまらぬ真似をしおったか』
その思念は、長い年月を生き抜いてきた賢者のようでありながら、どこか飄々とした気配を感じさせた。
(……かくまってちょうだい。
私……いえ、チクロは、王家に囚われたわ。
でも、私たちは絶対に諦めない。
反撃の時が来るまで、あなたの『絶対障壁』の中に、私を隠して)
私が必死に念話を送ると、滅杖アゼズルガルは静かに思念を返してきた。
『よかろう。
我が結界の中にあれば、あの女…聖剣の探知とて届きはせん。
……だが、王家に一人残った本体の方は大丈夫かの?』
(ええ…
あの子は、強いから。
それに槍の本能に任せるって言ってました。
必ず持ち堪えてくれるって、私は信じてる)
私は窓の外、王都の方向を見つめた。
自らを犠牲にして、私を逃がしてくれたチクロ。
彼女の肉体は今、感情を封じられ、冷たい部屋で孤独に耐えているのだろう。
(……待っていて、チクロ。
エリスやパルスと一緒に、必ずアンタを助け出すから。
そして……この理不尽なシナリオを押し付けた王家を、根底からぶっ壊してやるわ)
私は、魔槍の中で深く息を潜め、冷たく、そして熱い決意の炎を燃やし続けた。
いつか必ず上がる、反撃の狼煙のその時まで。




