第115話「白色空間!悲願?上書?」
風を切る音が、耳の奥で轟々と鳴り響いていた。
真っ暗な夜空。
頬を打つ冷たい風。
急速に近づいてくる、硬く冷たいアスファルトの地面。
(……あぁ、これで、全部終わるんだ)
私は、目を閉じた。
最後に脳裏に浮かんだのは、ボロボロになるまで付箋を貼った、あの台本の重みだった。
ネットの匿名掲示板に溢れ返る、私を罵倒する言葉の数々。
同僚たちの冷ややかな視線。
そして、私の大好きな作品を、私が汚してしまったという、耐え難い絶望感。
もう、限界だった。
私みたいな、何の取り柄もない日陰者が、身の丈に合わない夢なんて見るべきじゃなかったのだ。
『パルスイート』の人生を、もっともっと、生きたかった。
ただ、それだけを胸に抱きながら。
ドンッ、という衝撃が私を包み込む……はずだった。
◇
「…………え?」
痛みは、なかった。
骨が砕ける音も、肉が弾ける感覚も、血の匂いも。
恐れていた死の苦痛は一切訪れず、私はそっと、固く閉じていたまぶたを開いた。
そこは、果てしなく広がる、真っ白な空間だった。
上も、下も、右も左もない。
ただ、絶対的な『白』だけが視界を埋め尽くしている。
「……ここは、どこ……?」
私は自分の体を見下ろした。
飛び降りた時に着ていた、いつもの地味なパーカー姿のままだ。
傷ひとつない両手。
私は確かに、あのマンションの屋上から足を踏み出したはずなのに。
『――ここは、狭間だ。
死という概念すらも届かぬ、魂の寄り代』
ふいに、頭の中に直接響き渡るような、重く、そしてどこまでも透き通った声がした。
「だ、誰……!?」
私は慌てて周囲を見回した。
だが、姿は見えない。
声は、この白い空間そのものから発せられているようだった。
『我は、理を紡ぐ者。
お前たちが、神と呼ぶ存在に近いものだ』
「神様……?」
私は、その場にへたり込んだ。
死んだのだ。
やはり私は死んで、死後の世界……神の御前に呼び出されたということなのだろう。
『三間江里菜よ。
お前の魂は、あまりにも深い絶望と、理不尽な悪意に削り取られ、本来の寿命を全うすることなくここへ落ちてきた』
神の声は、哀れむように、優しく響いた。
だが、その優しさが、逆に私の心の中にくすぶっていた黒い感情に火をつけた。
「……優しくなんか、しないでよ」
私は、膝を抱え、ギリッと唇を噛み締めた。
「今更、神様ぶって……
私が、どれだけ苦しかったか……どれだけ、悔しかったか……!」
ボロボロと、涙が溢れ出してきた。
「私、何も悪いことなんてしてないのに……!
ただ、一生懸命頑張ってただけなのに……!
誰も信じてくれなかった!
みんな、嘘の噂ばっかり信じて、私を叩いたじゃない!!」
私は、白い空間に向かって叫んだ。
枕営業なんてしていない。
媚びなんか売っていない。
千歳先生の作品が大好きで、パルスイートというキャラクターが大好きで。
だから、血を吐くような思いで、役作りに向き合ってきたのだ。
それなのに。
『ホリスイを汚すな』『サンマは消えろ』という心無い言葉たちが、私の全てを否定し、私の生きる世界を粉々に壊してしまった。
「もう、誰も信じない……!
あんな世界、あんな理不尽な世界なんて、大嫌いよ……っ!!」
私は床を両手で叩き、声を上げて泣きじゃくった。
優しくて、気弱で、いつも一歩引いていた『三間江里菜』の、最初で最後の、魂の底からの怒りだった。
神は、そんな私の絶叫を、静かに受け止めていた。
やがて、私の泣き声が少し落ち着いた頃。
『――哀れな娘よ。
我は、理不尽に命を散らしたお前の魂を、救済しようと思う』
神の声が、荘厳に響いた。
『お前は、何を望む?
お前を陥れた者たちの不幸か?
それとも、あの忌まわしき人類そのものの滅亡か?
お前のその深い絶望に見合うだけの、願いを叶えよう』
復讐。
私を死に追いやった、華城麗華への復讐。
私を見殺しにした、プロデューサーへの復讐。
無責任に石を投げた、大衆への復讐。
神の言葉は、私の心の奥底にある、最も黒い部分を撫でるように甘く囁いた。
「……私の、望み」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
私を陥れた者たちの不幸。
そんなもの、願って当然だ。
あいつら全員、地獄に落ちればいい。
だが、私の脳裏に浮かんだのは、憎い連中の顔ではなく――。
『あなたが、次回の主役よ』と、私に最高の笑顔を向けてくれた、千歳結衣先生の顔だった。
そして。
『お母さん! 私、主役になったよ!』と田舎の家族に電話した時の、あの震えるような喜び。
毎晩、毎晩。
アパートの狭い部屋で、ボロボロになった台本を抱きしめながら、必死に作り上げた『彼女』の人生。
(34歳11ヶ月。
ブラック企業で働き詰めになって、誰にも認められず、過労死した孤独な女性。
彼女は、どうしてあんなにお金に執着する守銭奴になったんだろう……)
私は、彼女の孤独に寄り添った。
きっと、毎日必死に働いても報われなくて、裏切らないお金だけが信じられるものだったんだ。
だから、転生してからもお金に執着する。
口が悪くて、強欲で、でも、どこか人間臭くて憎めない。
私が命を削って、魂を込めて作り上げた、私の愛する分身。
「……返して」
私は、ぽつりと呟いた。
「返してほしい……。
私が、必死で生きてきた世界を……。
家族に喜んで語った夢を。
毎晩、血が滲むほど練習した台詞を……!」
私が望むのは、他人の不幸なんかじゃない。
私が本当に、心の底から望んでいたこと。
「私は……。
私は、『パルスイート』になりたいわよ。
出来るものならね」
私は、神に向かって、はっきりとそう宣言した。
『……パルスイートになりたい、と?』
神の声に、微かな戸惑いが混じる。
『それは、お前が演じていた架空の存在だろう。
その者になるということは、三間江里菜としての己の記憶や生を、捨てるということになるのだぞ?
自我を上書きし、架空の存在に魂を明け渡すというのか』
「ええ、構わないわ」
私は、涙を拭い、真っ直ぐに虚空を見据えた。
「三間江里菜としての人生なんて、もう未練はない。
ただ、苦しくて、悲しいだけだったもの。
でも、あの子の……パルスイートの人生は、これから始まるはずだったのよ。
私は、最後まで演じきりたかった。
あの子の人生を、私が全うしてあげたかった!」
狂気とも言える、役への執念。
アイドルではなく声優として、ただ一つの役に命を懸けた私の、それが最後の願いだった。
「あの子なら……あの子なら絶対に、あんな理不尽な悪意になんて負けない。
図太く、強欲に、どんな手を使ってでも這い上がって、自分の幸せを掴み取れるはずだもの!」
私は拳を強く握りしめた。
「だから、神様。
私を、パルスイートにして。
34歳11ヶ月で過労死した、あの強欲で逞しいOLの記憶を持った、パルスイート・アスパルテームに!」
神は、しばらくの間、沈黙していた。
私の狂気にも似た悲壮な覚悟を、推し量っているようだった。
やがて。
『……よかろう』
神の声が、荘厳な響きを取り戻した。
『己の生を捨ててまで、創られた物語の生を全うしたいというその執念。
見事なり。
……他に、望みはないか?』
「……そうね」
私は、最後に一つだけ、心の奥底に残っていた黒い炎を言葉にした。
「出来るなら、復讐したいわね。
あの世界で、私から全てを奪った『彼等』に」
私を陥れた、華城麗華。
そして、彼女と結託し、あるいは私を見下していた、あの傲慢な星野レンのような、権力者たち。
もし、あいつらが同じようにあの世界にいるのなら。
「私……パルスイートは、あいつらの思い通りになんて絶対にならない。
誰よりも幸せに、誰よりも左団扇で生き抜いて、あいつらの野望を根底から叩き潰してやるわ。
それが、私の……最高の復讐よ!」
私の言葉に、神は深く、満足げに頷くような気配を見せた。
『……承知した。
お前の願い、確かに聞き届けた。
好きに生きるがよい。
江里菜だった娘よ。
お前は今日、この瞬間から……物語のパルスイートそのものだ』
神の言葉と共に、白い空間が眩い光に包まれた。
光が、私の体を貫いていく。
(あ……)
私の頭の中から、『三間江里菜』としての記憶が、砂のようにサラサラと崩れ落ち、薄れていく。
アイドルとしての苦悩。
ネットの誹謗中傷。
飛び降りた時の絶望。
それらが急速に色褪せていく代わりに。
私の魂の奥底に、焼け付くように強烈な『新しい記憶』が刻み込まれていく。
連日のサービス残業。
理不尽な上司のパワハラ。
安月給で切り詰めた生活。
そして、パソコンの前で心臓を押さえて倒れ込んだ34歳11ヶ月の過労死の記憶。
(そうよ……。
私は、ブラック企業で死ぬまでこき使われた、哀れな社畜……!
だから、来世では絶対に……絶対に、働かずに楽して生きてやるんだから……!)
新しい自我が、私の魂を完全に上書きした。
もう、そこに気弱で優しい『エリリン』はいない。
いるのは、金に汚く、図太く、不労所得を夢見る強欲なアラサーOLの魂を持った、一人の悪役令嬢だけだ。
「あはは……
待ってなさいよ、異世界……
私が、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるんだから……!」
私は、光の奔流の中で、最高に不敵な笑みを浮かべた。
悲劇の少女の死は、こうして終わりを告げた。
そして、物語の幕が上がる。
ソーヴィニヨン王国、王城「ブラン」。
その最奥にある謁見の間で。
『……パルスイート・アスパルテーム。
貴様を王都より追放し、辺境ピメントでの謹慎を命じる!』
という、理不尽な断罪の言葉と共に。
私の、いえ……パルスイートの、逞しくも強欲な第二の人生が、高らかに産声を上げたのであった。




