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悪役令嬢は甘くない!  作者: スパイシーシェフ
第07章:シナリオライター
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第115話「白色空間!悲願?上書?」


 風を切る音が、耳の奥で轟々と鳴り響いていた。


 真っ暗な夜空。

 頬を打つ冷たい風。

 急速に近づいてくる、硬く冷たいアスファルトの地面。


(……あぁ、これで、全部終わるんだ)


 私は、目を閉じた。


 最後に脳裏に浮かんだのは、ボロボロになるまで付箋を貼った、あの台本の重みだった。

 ネットの匿名掲示板に溢れ返る、私を罵倒する言葉の数々。

 同僚たちの冷ややかな視線。

 そして、私の大好きな作品を、私が汚してしまったという、耐え難い絶望感。


 もう、限界だった。


 私みたいな、何の取り柄もない日陰者が、身の丈に合わない夢なんて見るべきじゃなかったのだ。


 『パルスイート』の人生を、もっともっと、生きたかった。

 ただ、それだけを胸に抱きながら。

 ドンッ、という衝撃が私を包み込む……はずだった。


     ◇


「…………え?」


 痛みは、なかった。

 骨が砕ける音も、肉が弾ける感覚も、血の匂いも。

 恐れていた死の苦痛は一切訪れず、私はそっと、固く閉じていたまぶたを開いた。


 そこは、果てしなく広がる、真っ白な空間だった。


 上も、下も、右も左もない。

 ただ、絶対的な『白』だけが視界を埋め尽くしている。


「……ここは、どこ……?」


 私は自分の体を見下ろした。


 飛び降りた時に着ていた、いつもの地味なパーカー姿のままだ。

 傷ひとつない両手。

 私は確かに、あのマンションの屋上から足を踏み出したはずなのに。


『――ここは、狭間だ。

 死という概念すらも届かぬ、魂の寄り代』


 ふいに、頭の中に直接響き渡るような、重く、そしてどこまでも透き通った声がした。


「だ、誰……!?」


 私は慌てて周囲を見回した。

 だが、姿は見えない。

 声は、この白い空間そのものから発せられているようだった。


『我は、ことわりを紡ぐ者。

 お前たちが、神と呼ぶ存在に近いものだ』


「神様……?」


 私は、その場にへたり込んだ。


 死んだのだ。

 やはり私は死んで、死後の世界……神の御前に呼び出されたということなのだろう。


『三間江里菜よ。

 お前の魂は、あまりにも深い絶望と、理不尽な悪意に削り取られ、本来の寿命を全うすることなくここへ落ちてきた』


 神の声は、哀れむように、優しく響いた。


 だが、その優しさが、逆に私の心の中にくすぶっていた黒い感情に火をつけた。


「……優しくなんか、しないでよ」


 私は、膝を抱え、ギリッと唇を噛み締めた。


「今更、神様ぶって……

 私が、どれだけ苦しかったか……どれだけ、悔しかったか……!」


 ボロボロと、涙が溢れ出してきた。


「私、何も悪いことなんてしてないのに……!

 ただ、一生懸命頑張ってただけなのに……!

 誰も信じてくれなかった!

 みんな、嘘の噂ばっかり信じて、私を叩いたじゃない!!」


 私は、白い空間に向かって叫んだ。


 枕営業なんてしていない。

 媚びなんか売っていない。


 千歳先生の作品が大好きで、パルスイートというキャラクターが大好きで。

 だから、血を吐くような思いで、役作りに向き合ってきたのだ。


 それなのに。


 『ホリスイを汚すな』『サンマは消えろ』という心無い言葉たちが、私の全てを否定し、私の生きる世界を粉々に壊してしまった。


「もう、誰も信じない……!

 あんな世界、あんな理不尽な世界なんて、大嫌いよ……っ!!」


 私はのようなものを両手で叩き、声を上げて泣きじゃくった。

 優しくて、気弱で、いつも一歩引いていた『三間江里菜』の、最初で最後の、魂の底からの怒りだった。


 神は、そんな私の絶叫を、静かに受け止めていた。

 やがて、私の泣き声が少し落ち着いた頃。


『――哀れな娘よ。

 我は、理不尽に命を散らしたお前の魂を、救済しようと思う』


 神の声が、荘厳に響いた。


『お前は、何を望む?

 お前を陥れた者たちの不幸か?

 それとも、あの忌まわしき人類そのものの滅亡か?

 お前のその深い絶望に見合うだけの、願いを叶えよう』


 復讐。

 私を死に追いやった、華城麗華への復讐。

 私を見殺しにした、プロデューサーへの復讐。

 無責任に石を投げた、大衆への復讐。


 神の言葉は、私の心の奥底にある、最も黒い部分を撫でるように甘く囁いた。


「……私の、望み」


 私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


 私を陥れた者たちの不幸。

 そんなもの、願って当然だ。

 あいつら全員、地獄に落ちればいい。


 だが、私の脳裏に浮かんだのは、憎い連中の顔ではなく――。


 『あなたが、次回の主役よ』と、私に最高の笑顔を向けてくれた、千歳結衣先生の顔だった。


 そして。


 『お母さん! 私、主役になったよ!』と田舎の家族に電話した時の、あの震えるような喜び。


 毎晩、毎晩。

 アパートの狭い部屋で、ボロボロになった台本を抱きしめながら、必死に作り上げた『彼女』の人生。


(34歳11ヶ月。

 ブラック企業で働き詰めになって、誰にも認められず、過労死した孤独な女性。

 彼女は、どうしてあんなにお金に執着する守銭奴になったんだろう……)


 私は、彼女の孤独に寄り添った。


 きっと、毎日必死に働いても報われなくて、裏切らないお金だけが信じられるものだったんだ。

 だから、転生してからもお金に執着する。

 口が悪くて、強欲で、でも、どこか人間臭くて憎めない。

 私が命を削って、魂を込めて作り上げた、私の愛する分身。


「……返して」


 私は、ぽつりと呟いた。


「返してほしい……。

 私が、必死で生きてきた世界を……。

 家族に喜んで語った夢を。

 毎晩、血が滲むほど練習した台詞を……!」


 私が望むのは、他人の不幸なんかじゃない。

 私が本当に、心の底から望んでいたこと。


「私は……。

 私は、『パルスイート』になりたいわよ。

 出来るものならね」


 私は、神に向かって、はっきりとそう宣言した。


『……パルスイートになりたい、と?』


 神の声に、微かな戸惑いが混じる。


『それは、お前が演じていた架空の存在だろう。

 その者になるということは、三間江里菜としての己の記憶や生を、捨てるということになるのだぞ?

 自我を上書きし、架空の存在に魂を明け渡すというのか』


「ええ、構わないわ」


 私は、涙を拭い、真っ直ぐに虚空を見据えた。


「三間江里菜としての人生なんて、もう未練はない。

 ただ、苦しくて、悲しいだけだったもの。

 でも、あの子の……パルスイートの人生は、これから始まるはずだったのよ。

 私は、最後まで演じきりたかった。

 あの子の人生を、私が全うしてあげたかった!」


 狂気とも言える、役への執念。

 アイドルではなく声優として、ただ一つの役に命を懸けた私の、それが最後の願いだった。


「あの子なら……あの子なら絶対に、あんな理不尽な悪意になんて負けない。

 図太く、強欲に、どんな手を使ってでも這い上がって、自分の幸せを掴み取れるはずだもの!」


 私は拳を強く握りしめた。


「だから、神様。

 私を、パルスイートにして。

 34歳11ヶ月で過労死した、あの強欲で逞しいOLの記憶を持った、パルスイート・アスパルテームに!」


 神は、しばらくの間、沈黙していた。


 私の狂気にも似た悲壮な覚悟を、推し量っているようだった。


 やがて。


 『……よかろう』


 神の声が、荘厳な響きを取り戻した。


 『己の生を捨ててまで、創られた物語の生を全うしたいというその執念。

 見事なり。

 ……他に、望みはないか?』


 「……そうね」


 私は、最後に一つだけ、心の奥底に残っていた黒い炎を言葉にした。


 「出来るなら、復讐したいわね。

 あの世界で、私から全てを奪った『彼等』に」


 私を陥れた、華城麗華。


 そして、彼女と結託し、あるいは私を見下していた、あの傲慢な星野レンのような、権力者たち。


 もし、あいつらが同じようにあの世界にいるのなら。


「私……パルスイートは、あいつらの思い通りになんて絶対にならない。

 誰よりも幸せに、誰よりも左団扇で生き抜いて、あいつらの野望を根底から叩き潰してやるわ。

 それが、私の……最高の復讐よ!」


 私の言葉に、神は深く、満足げに頷くような気配を見せた。


『……承知した。

 お前の願い、確かに聞き届けた。

 好きに生きるがよい。

 江里菜だった娘よ。

 お前は今日、この瞬間から……物語のパルスイートそのものだ』


 神の言葉と共に、白い空間が眩い光に包まれた。

 光が、私の体を貫いていく。


(あ……)


 私の頭の中から、『三間江里菜』としての記憶が、砂のようにサラサラと崩れ落ち、薄れていく。


 アイドルとしての苦悩。

 ネットの誹謗中傷。

 飛び降りた時の絶望。


 それらが急速に色褪せていく代わりに。

 私の魂の奥底に、焼け付くように強烈な『新しい記憶』が刻み込まれていく。


 連日のサービス残業。

 理不尽な上司のパワハラ。

 安月給で切り詰めた生活。

 そして、パソコンの前で心臓を押さえて倒れ込んだ34歳11ヶ月の過労死の記憶。


(そうよ……。

 私は、ブラック企業で死ぬまでこき使われた、哀れな社畜……!

 だから、来世では絶対に……絶対に、働かずに楽して生きてやるんだから……!)


 新しい自我が、私の魂を完全に上書きした。


 もう、そこに気弱で優しい『エリリン』はいない。

 いるのは、金に汚く、図太く、不労所得を夢見る強欲なアラサーOLの魂を持った、一人の悪役令嬢だけだ。


「あはは……

 待ってなさいよ、異世界……

 私が、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるんだから……!」


 私は、光の奔流の中で、最高に不敵な笑みを浮かべた。


 悲劇の少女の死は、こうして終わりを告げた。

 そして、物語の幕が上がる。


 ソーヴィニヨン王国、王城「ブラン」。

 その最奥にある謁見の間で。


『……パルスイート・アスパルテーム。

 貴様を王都より追放し、辺境ピメントでの謹慎を命じる!』


 という、理不尽な断罪の言葉と共に。

 私の、いえ……パルスイートの、逞しくも強欲な第二の人生が、高らかに産声を上げたのであった。



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