第114話「悪意拡散!悲劇?大作?」
『ホーリースイート2』の主人公が、端役のパルスイートに変更された。
その決定から数日後、私はスタジオの控室で、信じられない光景を目にしていた。
「……はぁ、はぁ。
今日もサービス残業、お疲れ様です……」
パルスイート役の三間江里菜――エリリンが、重い足取りで廊下を歩いている。
その背中は丸まり、肩は落ち、まるで数十年の疲労を背負い込んだような、見事な『社畜』の哀愁を漂わせていた。
アイドルのキラキラしたオーラなど、そこには微塵もない。
すり減った靴の裏を引きずるような、特徴的な歩き方。
「え、エリリン?
どうしたの、その歩き方……具合でも悪いの?」
私が思わず声をかけると、彼女はハッと我に返り、いつもの人懐っこい笑顔に戻った。
「あ、千歳先生! えへへ、役作りの練習です。
今回のパルスイートは、中身が『34歳11ヶ月の過労死OL』じゃないですか。
だから、普段からその設定になりきってみようと思って、まずは歩き方や息遣いからアラサーの疲労感を出せないかと……」
「アラサーの疲労感って……」
私は苦笑いしながら、彼女の手元に視線を落とした。
彼女が大切そうに両手で抱き抱えている台本は、まだ渡されてから数日しか経っていないというのに、すでにボロボロだった。
無数の付箋が隙間なく貼られ、余白にはびっしりとキャラクターの心情や、彼女なりの背景の考察が書き込まれている。
「34歳のOLさんが、どうしてあんなに守銭奴になっちゃったのか。
きっと、毎日必死に働いても誰にも報われなくて、裏切らないお金だけが信じられるものだったんだと思うんです。
だから、転生してからも無意識にお金に執着してしまう……。
私、新しいパルスイートの気持ち、すごく分かります!」
彼女の大きな瞳は、純粋な情熱でキラキラと輝いていた。
ただのコメディ設定として私が生み出した背景を、彼女は一人の人間の人生として真剣に咀嚼し、自らの中に落とし込もうとしているのだ。
「……すごいわね、エリリン。
まさか、そこまで深く考えて演じてくれるなんて」
私は、クリエイターとして深い感動を覚えていた。
自分が生み出したキャラクターを、これほどまでに愛し、命を削るようにして向き合ってくれる役者がいる。
彼女になら、私の新しいパルスイートを安心して託せる。
この作品は、絶対に面白くなる。
そう、確信していた。
だが、私たちが新しい作品に向けて希望を膨らませていたその裏で、誰にも見えない暗闇の中から、どす黒い悪意の泥水が、音もなく溢れ出そうとしていたのである。
◇
異変は、ネットの匿名掲示板へのたった一つの書き込みから始まった。
『ホリスイ2の主役、パルスイートに急遽変更。中の人は枕営業で役を強奪』
最初こそ、誰も信じないようなゴシップの類だった。
だが、その書き込みは業界の内部事情を知らなければ書けないような、妙に生々しいディテールを伴って連投され続けた。
『プロデューサーと関係を持っていたチクロ役から、横取りしたらしい』
『ライターの千歳結衣に媚びを売って、自分を主役にするように設定を変えさせた』
『あんな無名のアイドルが主役なんて、裏があるに決まってる』
火のない所に煙は立たないというが、放火魔がいれば別だ。
激怒したチクロ役の華城麗華が、裏アカウントやゴシップ記者へのリークを駆使して、陰湿な工作を行っていたのだった。
彼女は自分自身が黒田プロデューサーに対して枕営業をしていたという事実を巧妙にすり替え、すべてを江里菜の罪としてネットの海に放流した。
前作が大ヒットした注目作の続編。
その主役交代というスキャンダルは、大衆の格好の餌食となった。
悪評は、あっという間にネットや週刊誌を通じて爆発的に拡散された。
「……何よ、これ」
私はスマートフォンの画面を見つめ、怒りで手が震えるのを感じた。
そこにあるのは、江里菜に対する謂れのない誹謗中傷の嵐。
『ホリスイを汚すな』
『枕営業アイドルは消えろ』
『サンマのせいで作品が死ぬ』
純粋に役と向き合っているだけの彼女が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。
「エリリン……」
スタジオに現れた彼女の姿を見て、私は胸が締め付けられる思いがした。
あんなに明るかった彼女の顔から、笑顔が完全に消え失せていたのだ。
目の下には濃い隈ができ、ふっくらとしていた頬はこけてしまっている。
現場の空気も、最悪だった。
スタッフたちは、腫れ物でも触るかのように彼女を遠巻きにし、ヒソヒソと噂話をしている。
華城麗華に至っては、冷ややかな嘲笑を浮かべながら、あからさまに彼女を無視していた。
「エリリン、大丈夫?
ネットの書き込みなんて、見ちゃダメよ。
あんなの全部嘘なんだから、気にすることないわ」
私は彼女の肩を抱き、必死に励ました。
「……千歳先生」
江里菜は、力なく私を見上げた。
その瞳は、いつか見たあの純粋な光を失い、深い絶望に濁っていた。
「私……そんなこと、してないのに。
ただ、パルスイートを演じられるのが嬉しくて、頑張りたかっただけなのに……。
なんで、みんな私のこと、嘘つきだっていうんですか……?」
ボロボロとこぼれ落ちる涙。
彼女の両腕には、付箋だらけになったあの台本が、大切に、本当に大切に抱きしめられていた。
「分かってる。私は分かってるわよ。
貴女が誰よりも真剣に、この作品を愛してくれていること。
だから、負けないで。一緒に、最高の作品にして見返してやりましょう」
「……はい。
私、頑張ります。
パルスイートの人生を、ちゃんと生きなきゃいけないから……」
彼女は、無理やりに口角を上げ、痛々しいほどの笑顔を作って見せた。
だが、その心はすでに、千切れる寸前の糸のように限界を迎えていたのだ。
◇
悲劇は、あまりにも唐突に訪れた。
「……嘘でしょ」
ある日の朝。
ニュースの速報を見た私は、持っていたコーヒーカップを床に落とし、そのままへたり込んだ。
『人気アイドルグループのメンバー、三間江里菜さんが、昨夜未明、自宅マンションから飛び降り……』
頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
彼女が。
あの純粋で、真っ直ぐで、ドンキの歌を歌いながら笑っていた彼女が。
自ら、命を絶った。
限界だったのだ。
謂れのない悪意の奔流。
自分の愛したキャラクターを演じることすら許されない、理不尽な世界。
彼女の優しすぎる心は、それに耐えきれずに壊れてしまったのだ。
「エリリン……っ!!
なんで……なんでよぉぉぉっ!!」
私は自宅の部屋で、一人で声を上げて泣き叫んだ。
自分がシナリオを変更しなければ。
パルスイートを主役に抜擢などしなければ。
彼女がこんな目に遭うことはなかったのに。
激しい自責の念が、私の心を容赦なく切り刻んでいく。
主役声優の急逝というスキャンダルにより、制作現場は完全に凍りついた。
世間は彼女の死を悼むどころか、「無責任だ」「作品を壊した」とさらに非難の声を強めさえした。
そして数日後。
重苦しい空気が漂う会議室で、プロデューサーの黒田が冷酷な決定を下した。
「……三間江里菜の件は残念だったが、立ち止まっている暇はない。
パルスイート主役のシナリオは、縁起が悪い。お蔵入りだ。
物語は、当初の予定通り『チクロ主人公のダークストーリー』に戻す」
「……ふざけないでください!!」
私は立ち上がり、黒田を怒鳴りつけた。
「江里菜ちゃんは、あの役のために命を削って役作りをしていたんですよ!?
彼女が遺した思いを、無かったことにするんですか!」
「死んだ人間の思いなど、ビジネスには関係ない。
我々はユーザーに求められる作品を提供する使命がある」
黒田は冷たく言い放った。
その隣には、華城麗華が座り、薄ら笑いを浮かべて私を見下している。
彼女が黒田を完全に篭絡し、この決定を引き出したのは明白だった。
自らの手を汚さずに競争相手を死に追いやり、まんまと主役の座を奪い返したのだ。
「それに、君がシナリオを元に戻さないというなら、別のライターを立てるまでだ。
代わりなどいくらでもいるんだよ、千歳くん」
「…………ッ!!」
私はギリリと唇を噛み締め、拳を握りしめた。
反論したかった。
この汚い業界の闇を、すべて暴露してやりたかった。
だが、私にはその力がなかった。
そして何より、私の心を激しく切り裂いたのは、黒田が下した『チクロ主人公のダークストーリーに戻す』という決定そのものだった。
(……冗談じゃないわ)
そのプロットは、一度は黒田のゴリ押しで書き上げたものだ。
だが、会議で没になり、私はエリリンのために『34歳過労死OLのパルスイート』という新しい物語を紡ぎ出した。
私の中で、チクロ主人公の物語は、エリリンの笑顔と共に完全に『捨てた』はずのものだったのだ。
それを、今更拾い上げろというのか。
あまつさえ、エリリンを死に追いやった元凶である華城麗華を、その物語のヒロインとして輝かせるために。
自らの手で、その女のために物語を完成させなければならないというのか。
それは、クリエイターとしての矜持を泥靴で踏みにじられるような、そして死んだ友を裏切るような、耐え難い屈辱だった。
ゴミ箱に捨てた残飯を、這いつくばって食えと言われているのと同じだ。
「……お断りします。
そんなこと、できるわけがない……!」
私が震える声で拒絶しようとした、その時。
「そうか。ならば降りたまえ。
だが言っておくが、君が降りても『ホーリースイート2』の開発は止まらない。
別のライターが、君の設定を引き継いで適当に書き上げるだけだ。
……三間江里菜が命を懸けようが、作品の世界観がどうなろうが、そんな事は知ったことではないがね」
黒田のその言葉が、私の心臓を冷たく串刺しにした。
(……私がここで降りれば)
エリリンが命を懸けて愛した『ホーリースイート』という作品世界そのものが。
この薄汚い大人たちによって、無残に書き換えられ、汚されてしまう。
あの子が大切に台本に書き込んでいた、キャラクターたちの魂までもが、見ず知らずの誰かの手によって弄り回されてしまうのだ。
それだけは。
それだけは、絶対に嫌だった。
「…………」
私は、奥歯が砕けるほどに強く噛み締めた。
口の中に、血の味が広がる。
エリリンの愛した世界を、これ以上汚させないためなら。
私は泥を啜り、自分が捨てた過去の原稿を漁ることも厭わない。
「……分かり、ました」
血を吐くような思いで、私はその決定を受け入れた。
「私が、書きます。
チクロ主人公の、ダークストーリーを」
私は自分の魂を殺し、彼女を死に追いやったこの業界の歯車として、生きることを選んだのだ。
◇
それからの私は、ただの「仕事マシーン」と化した。
感情を封じ込め、機械のようにキーボードを叩き続ける日々。
私が仕上げた『ホリスイ2』のシナリオは、前作の甘い王道展開とは打って変わった、血生臭く、ダークな復讐劇となった。
アクション要素をふんだんに取り入れたその内容は、皮肉なことに、乙女ゲームの枠を超えて多くの男性ファンをも取り込む結果となった。
ゲームは発売されるや否や、前作を凌ぐ大ヒットを記録。
世界的な格闘ゲーム『KOF』とのコラボレーションまで決定し、作品は社会現象とも言えるほどの熱狂を生み出した。
だが、その華々しい成功の裏で、私の心は完全に死んでいた。
「……先生、おめでとうございます!
すごい売り上げですよ!」
「……ええ、ありがとうございます」
スタッフの祝福の言葉も、私の耳には空虚にしか響かない。
売り上げが伸びるたびに、絶賛のレビューを目にするたびに、私の心には消えることのない棘が深く、深く突き刺さっていく。
『私が、彼女を殺した』
自分が安易なシナリオ変更を提案しなければ。
彼女があんなにも純粋に役と向き合わなければ。
こんな理不尽で凄惨な悲劇は、起きなかったはずなのだ。
私は、自分が創り出した『チクロ・ズルチン』というキャラクターを、心底憎んだ。
そして同時に、何よりも激しく自分自身を憎悪した。
真実を握りつぶし、悪意を見て見ぬふりをした業界の闇。
それに抗うこともできず、ただ流されるままに生きている自分。
この消えない後悔と絶望は、決して私を許すことはないだろう。




