第112話「声優集合!配役?嫉妬?」
都内の一等地にある、重厚な造りのスタジオビル。
その地下に設けられたアフレコスタジオのコントロールルームには、独特の静寂と熱気が同居していた。
分厚い防音ガラスの向こう側には、何本ものマイクが立てられた収録ブースが見える。
「……ついに、ここまで来たのね」
私はコントロールルームの隅にあるレザー張りのソファに深く腰掛け、微かに息を吐き出した。
私、千歳結衣『ちとせゆい』が、安定した企業での事務職を辞し、専業のシナリオライターとして独立してから数ヶ月。
寝食を忘れて書き上げた乙女ゲーム『ホーリースイート ~光の聖女と救いの世界~』のシナリオが、本日、プロの役者たちの手によって「声」という命を吹き込まれようとしているのだ。
これまでの苦労が走馬灯のように蘇る。
ブラック企業での理不尽な労働、休日の限られた時間で書き進めたWeb小説、書籍化の喜び、そして安定を捨ててこの業界に飛び込んだ不安と覚悟。
その全てが、この瞬間のためにあったのだと思えるほど、私の胸は静かな高揚感に満たされていた。
「千歳先生、本日は長丁場になりますが、よろしくお願いいたします」
音響監督が、湯気を立てるコーヒーの紙コップを差し出してくれた。
「ありがとうございます。
こちらこそ、素人の書いた拙い台詞でお手数をおかけしますが……よろしくお願いいたします」
大人の女性として、無難で謙虚な笑みを返す。
だが、内心の心臓は早鐘のように鳴っていた。
ガラスの向こうのブースには、このプロジェクトの命運を握るキャスト陣が顔を揃えている。
まず目を引くのは、悪役令嬢『エリスリトール』役を演じる大御所声優の井原敦美『いはらあつみ』だ。
長年、業界の第一線で活躍し続ける彼女は、マイクの前に立つだけで、すでに圧倒的な威厳と気品を漂わせている。
台本に視線を落とす横顔すら、一つの完成された芸術品のようだ。
そして第一声を発した瞬間、コントロールルームの空気が震えた。
『お退き遊ばせ、この泥棒猫!』
圧倒的な演技力。
ただ高飛車なだけではない、貴族としての矜持と、裏に隠された孤独、そして哀愁までもが、その一言に込められていた。
私の頭の中にしかなかったエリスリトールが、生きた人間としてそこに顕現したのだ。
鳥肌が立つ。プロの仕事とはこういうものかと、ただただ言葉を失う。
そしてもう一人。
このゲームの最大の目玉であり、メインの攻略対象である第二王子『アーリー』役。
人気マルチタレントであり、モデル、プロゲーマーとしても活躍する青年『星野レン』だ。
『君のその瞳……僕だけに向けてくれないか?』
甘く、そして爽やかな声が、ヘッドホン越しに鼓膜をくすぐる。
端正なルックスと才能に溢れた彼が発するセリフは、王道乙女ゲームの王子様として完璧だった。
コントロールルームにいる女性スタッフたちの頬が、無意識に赤く染まっているのがわかる。
収録の合間にも、彼はスタッフたちに愛想よく笑いかけ、爽やかな好青年を演じ切っている。
(……さすがね。
画面越しに見る以上のオーラだわ。これがトップスターの輝きってやつね)
私は冷静に彼を観察していた。
だが、その完璧な笑顔の裏側に、他者を見下すような傲慢さと、女性をモノとしか見ていない冷酷さが隠されていることなど、この時の私には知る由もなかった。
◇
メインキャストたちの収録が順調に進む中、今日はもう一組、特別なキャストがスタジオに呼ばれていた。
悪役令嬢の取り巻き二人――『チクロ』と『パルスイート』役のキャストだ。
彼女たちは、プロの専業声優ではない。
今回、ゲームのオープニングテーマを担当することになった、売り出し中の新人アイドルグループからの抜擢。
いわゆる「タイアップの都合」という、大人の事情である。
とはいえ、私は彼女たちのキャラクターにも、私なりの強い思い入れを持っていた。
特に『チクロ・ズルチン』という名前。
これは、かつて実在した人工甘味料「チクロ(サイクラミン酸)」と「ズルチン」から取ったものだ。
どちらも砂糖の数十倍から数百倍という強い甘みを持ちながらも、発がん性や肝機能障害などの毒性の疑いから、使用が禁止されたという、いわくつきの甘味料である。
私はこのキャラクターに、ただの取り巻きではなく、物語の「毒」としての役割、少しだけ悪意を含ませた裏の顔を持たせる意図を込めて命名していた。
二つの劇薬(使用禁止甘味料)を掛け合わせるという、この悪意に満ちたネーミングには、クリエイターとしての私の深いこだわりが詰まっているのだ。
だからこそ、プロデューサーの黒田から「アイドルグループから二人起用したい」と相談された時、私は少しでもマシな演技ができそうな方を『チクロ』役に当ててほしいと要望を出した。
結果として、チクロ役にはそのアイドルグループのセンターを務める、華城麗華『はなじょうれいか』という女の子がキャスティングされた。
「おはようございますぅ~!
今日はよろしくお願いしますっ♡」
スタジオに入ってきた麗華は、絵に描いたような「あざといアイドル」だった。
愛称は「レイレイ」だそうだ。
キラキラとした笑顔、完璧に計算されたメイクと、体のラインを強調する露出の多い私服。
彼女が動くたびに、少し強めの、甘ったるい香水の匂いが漂う。
彼女はブースに入るや否や、音響監督や黒田プロデューサー、そして何より星野レンに対して、猛烈なアピールを開始した。
「黒田プロデューサぁ~!
昨日の夜は、本当にごちそうさまでしたぁ♡
……あのお店、すっごく雰囲気が良くて、私、ちょっと酔っちゃいましたもん」
麗華は黒田の腕に自分の胸を押し当てるようにして、甘ったるい声で囁く。
周囲のスタッフが気まずそうに目を逸らすのも構わず、彼女はさらに星野レンへとターゲットを移した。
「レン先輩!
私、先輩のラジオいつも聴いてます!
今日、ご一緒できてすっごく嬉しいですぅ!
今度、ゲームの操作、手取り足取り教えてくださいね♡」
上目遣いで星野レンにすり寄るその姿は、我欲と野心に満ち溢れていた。
自分の立ち位置を少しでも上げるためなら、周囲を蹴落としてでも上に這い上がろうとする。
そして、そのためには自らの女性としての武器を使うことも厭わない。
そんな、ギラギラとした露骨な欲望(夜の営業の匂い)が、彼女の笑顔の裏から透けて見えた。
(……なるほど。
同性には嫌われるタイプだろうけど、『チクロ・ズルチン』という私の込めた毒の役回りには、ある意味合っているかもしれないわね)
私は社会の荒波を揉まれてきたOLとしての冷めた目で、彼女を分析していた。
一方、もう一つの役――パルスイート役を当てられたのは、同じグループのサブメンバー、三間江里菜『みつまえりな』という女の子だった。
愛称は「エリリン」らしいが、ネットや裏では「サンマ(三間を音読み)」などという不名誉なあだ名で呼ばれているらしい。
麗華が華やかに、そして生々しく立ち回る影で、江里菜はスタジオの隅のパイプ椅子に縮こまり、台本を必死に読み込んでいる。
派手さはない。
服装も地味なパーカーにデニムで、アイドルとしては少し垢抜けない印象を受ける。
「……あの、よろしくお願いします。
不慣れですが、精一杯頑張ります」
スタッフへの挨拶も、麗華に遮られがちで、いつも一歩引いた位置にいる。
グループの中でも、きっと損な役回りばかりを押し付けられているのだろう。
それでも、彼女の台本には、無数の書き込みや付箋が貼られており、この仕事に対して真摯に向き合っていることが伝わってきた。
◇
収録は長丁場となり、昼の休憩時間が設けられた。
スタッフたちが弁当を食べる中、私は少し外の空気を吸いたくて、スタジオの廊下へと出た。
自販機で冷たいブラックコーヒーを買い、ふと奥の休憩スペースの方へ足を向ける。
すると、非常階段の踊り場のあたりから、とてもご機嫌な、しかしどこかで聞き覚えのある旋律が聞こえてきた。
「♪ドンドンドン、ふっふ~」
「♪ド〇キ~、ホ~〇~」
それは、有名なディスカウントストアのテーマソングだった。
しかも、絶妙に気の抜けた、平和な鼻歌で。
(……えっ?)
私は思わず足を止めた。
こんなお洒落なスタジオの廊下で、ドンキの歌?
声のする方へそっと覗き込むと、そこにはパルスイート役の江里菜がいた。
彼女は、非常階段の段差に腰掛け、持参したらしい手作りのおにぎりを片手に、足をブラブラさせて上機嫌で鼻歌の続きを歌っている。
「♪ボ~リュ~ム満々~、激安ジャ……」
「……ふふっ」
私は、そのあまりのギャップと能天気さに、最後まで聞き終える前に思わず吹き出してしまった。
さっきまでスタジオの隅で緊張して縮こまっていたのに、一人の時間になった途端、これである。
「……っ!?」
私の笑い声に気づいた江里菜は、歌をぴたりと止め、ビクッと肩を跳ねさせた。
そして、慌てておにぎりを後ろに隠し、顔を耳の先まで真っ赤にする。
「ご、ごめんなさい!
あの、私、変な歌を……!」
「いいのよ、気にしないで。
私もあの歌、好きだから」
私は苦笑しながら、彼女の隣の段差に腰を下ろした。
「千歳先生……」
「お疲れ様、江里菜さん。
初めてのアフレコ現場、どう?」
私が気さくに話しかけると、彼女は少しホッとしたように肩の力を抜いた。
「すごく、緊張します。
周りの皆さんが凄すぎて……私なんかが、こんな素敵な作品のキャラクターに声を当てていいのかなって」
「大丈夫よ。
あなたのパルスイート、とても真面目で健気な感じが出ていて、良かったわ」
「本当ですか!?
ありがとうございます!」
彼女の顔が、ぱあっと明るくなる。
その笑顔は、麗華のような作られたものではなく、純粋で無垢なものだった。
それから、私たちは色々な話をした。
彼女は、見た目のおとなしさとは裏腹に、雑学が大好きで、ディスカウントストアに何時間も入り浸って面白い商品を探すのが趣味だという、少し風変わりな女の子だった。
「この前、100円で売ってたネギを細かく刻むカッターが凄くてですね!
あれでお豆腐とか切ると面白いんですよ!」
身振り手振りで熱く語る姿は、年相応の無邪気さに溢れている。
(……能天気な子ね。
でも、真っ直ぐで、裏表がない。
なんだか、一緒にいてすごく落ち着くわ)
過酷なブラック企業で神経をすり減らしてきた私にとって、彼女のその純粋さは、とても心地の良いものだった。
ふと、江里菜が改まったように姿勢を正し、少し照れくさそうに言った。
「あの、千歳先生。
私、実は……先生の作品の、大ファンなんです」
「え? 私のファン?」
「はい!
今回のゲームのシナリオだけじゃなくて、先生が昔、Web小説投稿サイトで書かれていた作品から、全部読んでます!」
「……は?」
私は固まった。
「クロクロ『黒猫クロニクル』も、シロシロ『白鳥の城』も、どちらも最高でした!
特にクロクロの後半で、主人公が雨の中で捨て猫を抱きしめながら泣く展開なんて、もう涙が止まらなくて……っ!」
江里菜が熱く語るタイトル。
それは、私がまだ何者でもなく、ただの趣味で書き散らしていた初期の作品群だ。
今思い返せば設定に粗があり文体も拙い、いわゆる「黒歴史」に近い代物である。
「ちょ、ちょっと待って!
え、あんな初めて書いたようなWeb投稿作品まで読んだの!?」
私は顔から火が出るほどの羞恥心に襲われた。
「な、なんか恥ずかしいな~。
あんなの、今の私から見たら直したいところだらけで……」
「そんなことないです!
先生の紡ぐ言葉には、いつも真っ直ぐな光があって、読んでいると元気がもらえるんです。
だから、今回先生の作品に関われるって知った時、私、本当に嬉しくて……!」
江里菜の瞳は、純粋な尊敬と憧れでキラキラと輝いていた。
そこに、一切の打算はない。
権力者に取り入ろうとする媚びも、自己顕示欲もない。
ただ純粋に、私の創り出した世界を愛してくれている、一人の読者の顔だった。
(……まいったわね)
私は、照れ隠しにコーヒーを一口飲んだ。
クリエイターにとって、自分の過去作まで愛してくれる純粋なファンというのは、どうしようもなく愛おしい存在だ。
年齢も立場も違う二人だったが、私たちはすっかり馬が合い、気づけば休憩時間が終わるまで、笑い合いながら話し込んでいた。
◇
だが。
光あるところには、必ず濃い影が落ちる。
私たちが非常階段で楽しく談笑しているその光景を。
少し離れた廊下の角の物陰から、冷たく、そしてドス黒い憎悪に満ちた目で睨みつけている存在があった。
チクロ役の、華城麗華だ。
彼女の整った顔は、激しい嫉妬で醜く歪んでいた。
(……なんで。
なんで、あの子ばっかり……!)
麗華は、自分の立ち位置を確保するために、常に気を張り、プロデューサーの黒田や星野レンに媚を売り、自分の体すら武器にしてのし上がろうと必死にもがいてきた。
昨日も、黒田に抱かれることで、自分の出番が増えないかと画策したばかりだ。
それが、この厳しい芸能界で生き残るための、彼女なりの「正攻法」だった。
這い上がるためには、汚い大人たちの欲望に塗れることだって厭わない。
そうやって、センターの座を勝ち取ってきたのだ。
しかし。
あのパルスイート役の江里菜は、そんな努力を一切していない。
ただヘラヘラと笑い、変な歌を歌い、自分が興味のある雑学を語っているだけ。
枕営業なんて言葉すら知らないような、無垢な顔をして。
それなのに、なぜか自然と、クリエイターであるシナリオライター(私)の懐に入り込み、純粋な寵愛を受けている。
権力者に体を売って媚びへつらうことでしか自分の価値を見出せない麗華にとって、打算のない純粋な関係性でクリエイターから好意を向けられる江里菜の存在は、自分の汚い生き方を根底から否定されているようで、我慢がならなかったのだ。
(ムカつく……。
あんな、何の取り柄もない日陰者のくせに。
私の足を引っ張るだけの、お荷物のくせに!)
彼女の心の中に、理不尽で、どす黒い『嫉妬』の炎が燃え上がる。
これまで、あまり同性に好かれなかった麗華。
彼女は純粋に人と打ち解ける方法を知らない。
だからこそ、自分が持っていない「自然な愛嬌」を持つ江里菜を激しく憎悪した。
ギリリ…
と、綺麗にマニキュアが塗られデコレーションされた爪を、自分の手のひらに食い込ませた麗華。
痛みが走るが、そんなものは胸の奥で渦巻く憎悪の炎に比べれば何でもなかった。
(絶対に許さない。
私の方が上なんだって思い知らせてやる。
あの子が持っているもの、全部、私が奪ってやるんだから……!)
この、一人の少女の心に宿ったどす黒い悪意の種。
それが、やがてゲームの制作現場そのものを巻き込む、取り返しのつかない悲劇へと成長していくことなど、この時の私には予想することもできなかった。
アフレコは順調に進み、『ホーリースイート』は無事に完成の日を迎える。
そして発売後、私の目論見通り、王道ど真ん中を貫いたストーリーは多くの乙女たちの心を掴み、大ヒットを記録することになる。
だが、その華々しい成功の裏で。
次回作へと続く不穏な影は、着実に、そして確実に、私たちの足元へと忍び寄っていたのである。




