第111話「前世軌跡!受賞?転身?」
土の匂いが好きだ。
プランターに敷き詰めた培養土に、じょうろでたっぷりと水を含ませる。
乾いていた土が水分を吸い込み、ふわりと独特の香りが立ち上る瞬間が、私にとっての何よりの癒やしだった。
「よしよし。今日もいい子だねぇ。
お、バジルの芽がしっかりしてきたじゃん。
こっちのミニトマトも、そろそろ支柱を立ててあげないとなぁ」
狭いアパートのベランダ。
そこに所狭しと並べられたプランターたちが、私のささやかな「領地」だ。
都内のブラック寄りな中堅企業で事務職として働く私にとって、休日の朝にこうして植物たちと向き合う時間は、すり減った精神を回復させるための重要な儀式だった。
人間関係のストレスも、理不尽な上司の小言も、終わらないエクセルのデータ入力も。
植物たちは何も言わず、ただ私が手をかけた分だけ、素直に育ってくれる。
その真っ直ぐな生命力に触れていると、荒んだ心が浄化されていくのがわかるのだ。
「ふぅ……。
さてと。園芸の次は、もう一つの趣味の時間っと」
私は手を洗い、お気に入りのマグカップにコーヒーを注ぐと、部屋の隅にあるパソコンデスクの前に座った。
電源を入れ、テキストエディタを立ち上げる。
真っ白な画面にカーソルが点滅するのを見つめると、私の頭の中は現実世界から離れ、果てしない剣と魔法のファンタジー世界へと飛翔していく。
そう、私のもう一つの趣味。
それは、ネットの「Web小説投稿サイト」で、オリジナルのファンタジー小説を執筆することだ。
私が書いているのは、ド直球の王道ファンタジー。
特別な力を持ったヒロインが、イケメンの王子様や騎士たちと出会い、様々な困難を乗り越えて世界を救い、そして愛されるという物語。
奇をてらった設定や、風変わりで毒のあるキャラクターなんていらない。
読者が安心して没入できる、キラキラとした夢のような世界。
私が仕事の疲れを忘れて没頭できるように、読んでくれる人たちにも「明日も頑張ろう」と思ってもらえるような、とびきり甘くてハッピーな物語を紡ぐのが、私のこだわりだった。
「さて、今日はヒロインが星空の下で、騎士団長に想いを告げられる甘々イベントからだぞー。
気合入れて書くぜ!」
私はキーボードに手を乗せ、軽快なタイピング音を響かせ始めた。
頭の中でキャラクターたちが動き出し、セリフを喋る。
それを文字に書き起こしていく作業は、時を忘れるほどに楽しい。
ただの趣味だ。
誰かに頼まれたわけでもないし、お金になるわけでもない。
それでも、コツコツと設定を練り、物語を紡ぐことが、私の毎日の生きがいになっていた。
◇
そんな平凡な私の日常に、とんでもない転機が訪れたのは、それから数ヶ月後のことだった。
仕事から帰り、いつものように投稿サイトのマイページを開いた私は、そこに届いていた一通の運営からのメッセージを見て、持っていたコーヒーを吹き出しそうになった。
「……は?
えっ?
うそ、マジで!?」
画面に表示されていたのは、私が何気なく応募していた『ゲーム会社協賛・王道ファンタジー小説コンテスト』の結果発表だった。
そこには、信じられない文字が躍っていた。
『大賞受賞のお知らせ』
「ええええええええっ!?」
私は思わず画面に顔を近づけ、文字を二度見、三度見した。
間違いない。私のペンネームと、私の書いた小説のタイトルが、大賞の欄にデカデカと掲載されている。
しかも、協賛しているゲーム会社からの講評コメントまでついている。
『奇をてらわない、まさに王道を行くストーリー展開が素晴らしい。
キャラクターたちの心情が丁寧に描かれており、読み手を惹きつける魅力に溢れています』
「……夢じゃないよね?
これ、新手の詐欺メールとかじゃないよね?」
私は自分の頬をつねってみた。
痛い。間違いなく現実だ。
そこからの展開は、まさに怒涛だった。
サイトの運営を通じて出版社の編集者と繋がり、とんとん拍子で書籍化の話が進んでいった。
仕事の合間を縫っての改稿作業や、イラストレーターさんとのキャラデザインのすり合わせ。
寝る間も惜しんでの作業だったが、少しも苦ではなかった。
むしろ、自分の頭の中にしかなかった世界が、多くのプロの手によって形になっていく過程は、最高にエキサイティングだった。
そして。
ついに私の小説が、一冊の「本」として世に送り出される日がやってきた。
発売日の会社帰り。
私は足早に大型書店へと向かった。
心臓が早鐘のように鳴っている。
「……あった」
ライトノベルの平積みコーナー。
そこに、美しいイラストの表紙に包まれた私の本が、確かに並んでいた。
自分の頭の中で生まれた言葉たちが、こうして物理的な質量を持って存在している。
その事実が、どうしようもなく嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。
私が少し離れたところから不審者のように自分の本を見つめていると、一人の女子高生らしき女の子がコーナーに近づいてきた。
彼女は私の本を手に取り、裏表紙のあらすじを読み……そして、そのままレジへと向かっていったのだ。
「……っ!」
震えた。
全身の鳥肌が立つような感動だった。
誰かが、私の作った物語をお金を出して買ってくれた。
私の世界に、触れようとしてくれた。
「……私、もっと書きたい」
その時、私の胸の奥に、確かな熱が宿った。
ただの趣味ではなく、誰かの心を動かすために、物語を紡ぎ続けたい。
そんな、クリエイターとしての純粋な欲求が芽生えた瞬間だった。
◇
書籍の売れ行きは予想以上に好調で、重版もかかった。
私のささやかな日常は、少しずつ「作家」としての色を帯び始めていた。
そんなある日、出版社を通じて、私宛に一通のメールが転送されてきた。
差出人は、例のコンテストに協賛していたゲーム会社のプロデューサーからだった。
『ぜひ一度、弊社にお越しいただき、お話をさせていただけないでしょうか。
先生の描く世界観とキャラクター描写に、弊社の新規プロジェクトの可能性を感じております』
「ゲーム会社から……直接のオファー?」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
指定された日時に有休を取り、私は都内の一等地にある立派なオフィスビルへと足を運んだ。
通された会議室に現れたのは、やり手そうな雰囲気のプロデューサーだった。
「本日はお越しいただきありがとうございます。
早速ですが、本題に入らせていただきます」
プロデューサーは、真剣な眼差しで私を見据えた。
「先生に、弊社が企画している新規の『乙女ゲーム』の、メインシナリオライターをお願いしたいのです」
「乙女ゲームの、シナリオ……私が、ですか?」
「はい。
コンテストで拝読した先生の作品は、まさに私たちが求めているものでした。
奇をてらわない真っ直ぐな王道展開。
それでいて、ヒロインが愛される過程に説得力があり、登場する男性キャラクターたちが実に魅力的でキラキラしている。
あの世界観を、そのままゲームのシナリオとして構築していただきたいのです」
プロデューサーの熱のこもった言葉に、私の心は大きく揺さぶられた。
ゲームのシナリオライター。
それは、私の作った物語が、声優のボイスや美しいスチルと共に、一つの総合芸術として世に放たれるということだ。
そんな魅力的な仕事、やってみたいに決まっている。
だが、私には「普通の事務職」という安定した本業がある。
「あの……。
大変ありがたいお話なのですが、私、今は一般企業でフルタイムで働いておりまして。
ゲームのメインシナリオとなると、膨大な作業量になりますよね?
兼業でこなせる自信が……」
私が正直な不安を吐露すると、プロデューサーは深く頷いた。
「おっしゃる通りです。
ルート分岐や個別シナリオを含めれば、数十万文字規模の執筆をお願いすることになります。
兼業では、体力的にもスケジュール的にも厳しいでしょう」
プロデューサーは、一枚の契約書をテーブルに滑らせた。
「ですから、これは『専業』としてのオファーです。
もちろん、現在の収入を上回るだけの原稿料と、ロイヤリティはお約束します。
先生の才能を、私たちのプロジェクトに全て注ぎ込んでいただきたいのです」
「専業……」
会社を辞める。
安定した給料と、社会的な信用を手放す。
それは、20代後半の独身女性にとって、非常に勇気のいる決断だった。
もしゲームが売れなかったら?
もし次の仕事が来なかったら?
失敗した時のリスクが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
だが。
『私、もっと書きたい』
あの書店で、自分の本が買われていくのを見た時の感動が、私の背中を強く押した。
自分の作った世界で生きる。
キャラクターたちに命を吹き込み、物語を紡ぐことを職業にする。
それは、私がずっと心の奥底で憧れていた、本当の「夢」だったのではないか。
「……わかりました」
私は、顔を上げてプロデューサーを真っ直ぐに見つめた。
その時にはもう、私の中の迷いは消え去っていた。
「やらせてください。
私、会社を辞めて、シナリオライターになります。
私の書く物語で、たくさんの人をキュンキュンさせてみせます!」
「ありがとうございます!
一緒に、最高のゲームを作りましょう!」
プロデューサーと固く握手を交わした瞬間。
私はただの「趣味で小説を書いているOL」から、「プロのシナリオライター」へと転身を遂げたのだった。
◇
数週間後。
退職手続きを済ませ、晴れてフリーランスのシナリオライターとなった私は、ゲーム会社の広い会議室で、開発チームのメンバーたちと企画会議を行っていた。
ホワイトボードの前で、私は熱弁を振るっていた。
「いいですか、皆さん!
私たちが目指すのは、とにかく『王道』です!
ユーザーが乙女ゲームに求めているのは、変に拗らせたキャラクターや、鬱々としたダークな展開ではありません!
圧倒的な光! そして圧倒的な愛です!」
私はバンッとホワイトボードを叩いた。
「特別な力を持ったヒロインが、キラキラしたイケメンたちから無条件に愛され、守られる。
風変わりな要素なんて一切いりません。
王子様はどこまでも王子様らしく!
騎士はどこまでも騎士らしく!
ただひたすらに甘く、プレイヤーが安心して夢の世界に浸れるような、究極の逆ハーレムを作ります!」
私のプレゼンに、ディレクターやプランナーたちがウンウンと深く頷いている。
「いいですね、そのストレートな方向性。
最近は奇をてらった設定のゲームが多い中、逆にそういう王道ど真ん中のタイトルが求められているはずです」
「はい!
ヒロインの設定は……そうですね、癒やしの力を持つ『聖女』なんてどうでしょう。
誰にでも優しく、健気で、ちょっとドジだけど放っておけないタイプ。
そして攻略対象は、国の第一王子、第二王子、近衛騎士団長、そして天才魔法使い……」
私は次々とアイデアを出し、開発チームと議論を重ねていく。
キャラクターの性格、出会いのシチュエーション、甘いイベントの数々。
私の頭の中にある「最高にキュンとする世界」が、プロのスタッフたちの意見と融合し、一つの巨大なプロジェクトとして形作られていく。
「……素晴らしい。
これなら、間違いなくヒットしますよ」
プロデューサーが満足げに微笑む。
「では、この企画のタイトルですが……。
先生、何か良い案はありますか?」
タイトル。
物語の顔であり、ユーザーに一番最初に届く言葉。
私は少しだけ考え、そして、一番しっくりくる言葉を口にした。
「『ホーリースイート』」
「……ホーリースイート?」
「はい。
神聖で、そしてどこまでも甘い物語。
『ホーリースイート ~光の聖女と救いの世界~』。
これで行きましょう!」
私がそう宣言すると、会議室に拍手が湧き起こった。
満場一致でのタイトル決定だ。
こうして、後に乙女ゲーム界に大旋風を巻き起こすことになる名作『ホーリースイート1』の制作が、本格的にスタートした。
自分の作った世界が、キャラクターが、これから多くの人の元へ届く。
胸の高鳴りが止まらない。
家に帰ったら、ベランダの植物たちにも報告してあげよう。
私、ついに夢を叶えたよ、と。
この時の私は、希望とやる気に満ち溢れ、自分の書く物語が、まさか自分自身の運命を、そして他の誰かの運命を狂わせるような事態に発展するとは、夢にも思っていなかった。
純粋に「最高の王道乙女ゲーム」を作るという熱意だけで、私はキーボードに向かい、狂ったようにシナリオを書き進めていくことになる。
だが、その『ホーリースイート』が1の大ヒットを経て、続編である『2』の制作へと移っていく中で。
大人の事情と、理不尽な要求が、少しずつ私の書く物語を、そして現実の世界を侵食していくことになるのである。




