第110話「番外編『シスコン誕生』:厳格護衛!狂愛?胃痛?」
アスパルテーム領の空に、透き通るような青空が戻ってきた。
先代当主であるパルスエットが、教国の聖女との死闘の末にこの世を去ってから、数ヶ月の月日が流れていた。
領民たちは皆、英雄として散った若き女当主の死を深く悼んだが、季節は止まることなく巡り、人々の生活は少しずつ日常を取り戻しつつあった。
領主館の執務室では、一人の男が山積みの書類と格闘していた。
彼こそが、パルスエットの夫であり、現在のアスパルテーム伯爵家当主代行を務めるマルチトールである。
「……はぁ。
こちらの治水工事の予算案はこれで良し、と。
次は、秋の収穫に向けた税の免除申請の確認か」
マルチトールは、疲労で少し窪んだ目に片眼鏡を当て直し、重い息を吐き出した。
パルスエットが遺したこの広大な領地。
そして、彼女の命と引き換えに産まれた愛娘、パルスイート。
彼はその二つを命に代えても守り抜くと、彼女の死の床で固く誓ったのだ。
「若旦那様。
少し休憩をとられてはいかがですか?
若旦那様が奥様に淹れられていたような、心安らぐハーブティーをこちらでご用意いたしました」
執事のソルビトールが、静かに執務室に入ってきてティーカップを差し出す。
彼は先代当主のお転婆に頭を抱えながらも、誰よりも彼女を案じていた男だ。
今は、悲しみを奥底に隠し、新米当主であるマルチトールを完璧にサポートしていた。
「ありがとう、ソルビトール。
君がいてくれて本当に助かるよ。
私一人では、到底この領地を回していくことなどできなかっただろう。
先代が胃痛持ちだったのが良くわかるよ…」
マルチトールがハーブティーを一口啜ると、心地よい香りが鼻に抜け、凝り固まった肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
パルスエットが好んで飲んでいた、少しだけ酸味のある爽やかな味だ。
「とんでもございません。
これもアスパルテーム家のため。
それに……お嬢様の健やかなるご成長を見守ることは、私の新たな生き甲斐でもありますからな」
ソルビトールの口元が、わずかに緩む。
パルスイートは、領主館の皆から愛されていた。
彼女のゆるふわなピンク色の産毛と、無邪気な笑顔は、パルスエットを失った悲しみに暮れる屋敷に、ひとすじの温かい光をもたらしていたのだ。
「パルスイートは、今どうしているかな。
そろそろお昼寝の時間だろうか」
「はい。
乳母によれば、先ほどミルクを飲み終え、ベッドで大人しくしているとのことです。
ただ……」
ソルビトールが、少しだけ言い淀んだ。
その眉間に、深い皺が寄っている。
「ただ?
何か問題でもあったのか?」
「問題、と言って良いのかどうか。
……アドバンテーム様の『護衛』が、日に日に苛烈さを増しておりまして。
乳母たちも、少々困惑している様子なのです」
アドバンテーム。
それは、パルスエットの遺志を継ぎ、パルスイートを生涯守り抜くために『絶鎧アスラムテイル』が人化した姿。
太陽の光を紡いだような眩い黄金の髪と、宝石のように澄み切った碧眼を持つ、三歳ほどの美しい男児だ。
彼は現在、アスパルテーム家の長男として正式に届け出られ、マルチトールの息子として扱われている。
「……またか。
彼は少し、真面目すぎるきらいがあるからな」
マルチトールは苦笑し、ティーカップを置いて立ち上がった。
彼の中身がインテリジェンスウェポンである以上、その使命感の強さは理解できる。
だが、度が過ぎれば周囲が疲弊してしまう。
「少し、様子を見に行ってみようか」
◇
子供部屋へと向かう廊下を歩きながら、マルチトールは先日の出来事を思い出していた。
アドバンテームは、パルスイートの護衛として、まさに『機械的』なまでの完璧さを追求していた。
彼はインテリジェンスウェポンとしての機能をフル活用し、子供部屋の室温や湿度が1度でも変化すれば、即座にメイドを呼びつけて調整を命じる。
パルスイートに近づく者がいれば、それが乳母であろうとマルチトールであろうと、厳しい碧眼でジロリと睨みつけ、微細な危険性がないかの確認を行うのだ。
『そこ、窓の隙間が1ミリ開いている。
微小な羽虫が侵入する確率が僅かながら上昇する。
直ちに閉めたまえ』
『その布は一昨日も使ったものだな?
微細な繊維の劣化と、目に見えない埃が付着している。
パルスエットの娘の肌に触れさせるには不適格だ。
新品を消毒して持ってきなさい』
三歳児の愛らしい姿から発せられる、冷徹で威厳に満ちた命令。
メイドや乳母たちは、「とても賢くて威厳のある坊ちゃまだ」と恐れおののきながらも、そのガチガチすぎる警備体制に息を詰まらせていた。
(彼は、パルスエットの娘を『任務の対象』として完璧に守ろうとしている。
だが、それだけでは……家族とは呼べないような気がするんだ)
マルチトールは、子供部屋のドアの前に立ち、そっとノックをして中に入った。
「アドバンテーム、様子はどうだい?」
部屋の中央に置かれた天蓋付きのベビーベッド。
その傍らに、小さな椅子を持ち出して座っているアドバンテームの姿があった。
彼は背筋をピンと伸ばし、瞬きすら惜しむように、ベッドの中で眠るパルスイートを凝視している。
「……父上か。
現在のところ、異常はない。
心拍数、呼吸の深さ、共に正常値。
だが、先ほどから南西の風が強まっている。
窓ガラスの微細な振動が、彼女の安眠を妨げる可能性があるため、結界魔法を多重に展開しておくべきか検討中だ」
アドバンテームは、マルチトールの方を見向きもせず、淡々と報告する。
「……そこまでしなくても大丈夫だと思うよ。
彼女はパルスエットに似て、少々のことでは起きない図太さを持っているみたいだからね」
マルチトールは苦笑しながら、ベッドの中を覗き込んだ。
パルスイートは、ピンク色のゆるふわな産毛を揺らしながら、スースーと穏やかな寝息を立てている。
その小さな手は、ギュッと固く握りしめられていた。
「アドバンテーム。
君がパルスイートを完璧に守ろうとしてくれるのは、本当にありがたいと思っている。
だが、君はもう『鎧』ではなく、彼女の『兄』なんだ。
もう少し肩の力を抜いて、彼女の寝顔を純粋に楽しむ時間を持っても良いんじゃないかな」
マルチトールの言葉に、アドバンテームは微かに眉をひそめた。
「……兄、か。
私は我が半身であるパルスエットの魂の残滓を受け継ぎ、彼女の遺した命を外敵から守るためにこの姿をとった。
楽しむなどという感情的な揺らぎは、護衛の任務において不確定要素による危険を煽る可能性でしかない。
私はあくまで、絶対防御の要として彼女の傍に在るのみだ」
彼の言葉は固く、インテリジェンスウェポンとしての論理的思考に支配されている。
パルスエットを内側から守れなかったという強い自責の念が、彼をより一層、完璧な「機械」であろうとさせているのかもしれなかった。
「……そうか。
でも、彼女が大きくなったら、きっと君と遊びたいと思うはずだよ」
マルチトールはそう言うと、静かに部屋を後にしようとした。
その時だった。
「……うー……」
ベッドの中から、微かな声が聞こえた。
パルスイートが目を覚ましたのだ。
「おや、起きたか。
泣く前にミルクを……」
アドバンテームが、機械的な動作で立ち上がろうとした瞬間。
パルスイートは、パチリと目をパッチリ開け、目の前にいる黄金の髪の少年をじっと見つめた。
彼女のピンク色の瞳が、キラキラと輝く。
「あー、あー」
パルスイートは、小さな両手を伸ばし、空を掻くようにバタバタと動かした。
その手は、ちょうどアドバンテームの顔の高さに向かっている。
「……なんだ?
私に何か異常があるのか?
それとも、視界に邪魔なゴミでも……」
アドバンテームが不審に思い、彼女の顔を覗き込むように身を屈めた。
その瞬間。
パシッ。
パルスイートの小さな、本当に小さな柔らかい手が、アドバンテームの垂れ下がった黄金の髪の毛を、ギュッと握りしめたのだ。
「……ッ!?」
アドバンテームの動きが、完全にフリーズした。
「あーっ、きゃっきゃっ!」
パルスイートは、アドバンテームの髪を握ったまま、満面の笑みを浮かべてキャッキャと声を出して笑い始めた。
それは、彼が初めて見る、無垢で、何の計算もない、純粋な『笑顔』だった。
アドバンテームは髪を掴むその手を、自らの手でそっと包み込む。
触れた瞬間、柔らかな温もりが彼の指先に広がった。
「……」
アドバンテームの碧眼が、限界まで見開かれた。
彼の脳内で、今まで築き上げてきた『インテリジェンスウェポンとしての論理回路』が、音を立てて崩壊していくのを感じた。
パルスエットの娘だから守る。
契約者の最後の願いだから守る。
絶対防御の任務だから守る。
そんな、理屈にまみれた義務感が、彼女の無邪気な笑顔と温かい手の感触によって、一瞬にして消し飛んだのだ。
代わりに彼の魂を埋め尽くしたのは。
(……何だ、この感情は)
アドバンテームの全身が、微かに震え始める。
(温かい。
柔らかい。
……そして、何よりも。
この存在自体が……圧倒的に、尊い……!!)
ショートした彼の脳内(魔力回路)で、新たな感情が爆発的に産声を上げた。
それは、パルスエットへの忠誠心を遥かに凌駕する、強烈で狂信的なまでの『愛情』だった。
「あ、ああっ……!!」
アドバンテームの口から、抑えきれない歓喜の呻き声が漏れた。
「パルスが……!
パルスイートが、僕の髪を握ってくれた……!
僕に向かって、笑ってくれた……!!
ああ、なんという愛らしさだ!
なんという神々しさだ!!」
「えっ?
アドバンテーム?」
マルチトールが驚いて振り返る。
そこにいたのは、先ほどまでの冷徹な護衛としての姿を完全に捨て去り、頬を赤く染め、涙目になりながら妹を見つめる『ただの変態(三歳児)』だった。
「なんてことだ……!
この小さな手が、僕の髪を引っ張っている……。
少し痛いが、それが心地よい……!
いや、むしろもっと強く引いてくれても構わないぞパルス!
僕の髪など、君の指の運動の道具として引きちぎられても本望だ!!」
アドバンテームは、パルスイートの手を優しく両手で包み込み、頬ずりをするように擦り寄せた。
ブチッ。
勢い余って、アドバンテームの黄金の髪が数本、パルスイートの手に絡まって抜け落ちた。
「あっ!
いけない、パルスイート。
アドバンテームの髪の毛を抜いては……」
マルチトールが慌てて止めようとしたが、アドバンテームの反応は彼の予想の斜め上を光速で突き抜けていった。
「……っ!!
パルスが、僕の髪を……!!」
アドバンテームは、パルスイートの小さな指に絡まった自分の抜け毛を、震える指先でそっと回収した。
そして、それをまるで国宝でも見つけたかのように、恭しく両手で掲げたのだ。
「おおぉぉぉ……!!
これは……パルスが初めて僕にくれた、愛の証……!!
この抜け落ちた数本の髪の毛は、一生の宝物にしよう!
いや、特注のクリスタルケースに入れて、アスパルテーム家の家宝として末代まで語り継ぐべきだ!!」
「……は?」
マルチトールの口から、間抜けな声が漏れた。
三歳児が、自分の抜け毛をクリスタルケースに入れて家宝にすると叫んでいる。
完全に常軌を逸している。
「パルス!
僕の愛しいパルス!!
君が望むなら、この命も、この世界のすべてさえも君に捧げよう!
君が笑ってくれるなら、僕はどんなことだってする!
ああ、今日も息をしていて偉いね……尊い……!!」
アドバンテームは、ベッドの柵に縋り付きながら、うっとりとした顔でパルスイートを褒めちぎり始めた。
先ほどまでの「任務」や「異常なし」といった言葉は、彼の辞書から完全に消去されたようだ。
パルスイートは、兄のそんな奇行を理解しているのかいないのか、ただ「あーうー」と機嫌よく笑っている。
「……あ、アドバンテーム……?
君、大丈夫かい……?
なんか、急に性格が変わったような……」
マルチトールがドン引きしながら声をかけると、アドバンテームはキッと彼を睨みつけた。
「父上!
パルスが目覚めました!
この天使のさえずりのような産声を聞き逃すとは何事ですか!
急いで最高級のミルクを用意させてください!
温度は人肌よりわずかに高め、彼女の胃腸に負担をかけないよう、三度の濾過を経たものを!!」
「えっ?
あ、うん……わかったけれど……」
マルチトールは、完全にタガが外れた『長男』の勢いに押され、後ずさった。
これが、後に王国全土にその名(奇行)を轟かせることになる、常軌を逸した変態シスコンお兄様が産声を上げた瞬間であった。
◇
それからの数日間で、アスパルテーム家の日常は劇的な変化を遂げた。
アドバンテームの過保護は、機械的な護衛から、狂信的な愛情による監視へとベクトルを変え、さらに異常な方向へと加速していった。
「おお……!
パルスが泣いている……!
なんという美しい高音……!
これはもはや泣き声ではない、天使のさえずりだ!
宮廷音楽家を呼んで、この旋律を即座に楽譜に書き起こさせろ!!」
「ああっ!
パルスがミルクを吐き戻した!
なんという芳醇な香り……!
この吐瀉物は聖水だ!
すぐに瓶に詰めて保存するんだ!
僕が自ら拭き取ろう!!」
乳母たちが悲鳴を上げて逃げ出すほどの奇行の数々。
彼はパルスイートが使用したおむつやよだれ掛けをこっそり収集し、自室の「隠し部屋」にコレクションし始めていた。
「……うっ」
執務室で、その惨状(報告書)を読んでいたマルチトールは、急激なストレスから胃の辺りを強く押さえた。
「だ、若旦那様……。
また胃が……。
すぐにお薬を……」
ソルビトールが顔面を蒼白にしながら、胃薬の瓶を差し出す。
「……ありがとう、ソルビトール。
……パルスエット」
マルチトールは、薬を水で流し込みながら、亡き妻の顔を思い浮かべた。
『私が死んだら、アンタは苦労の連続よ。
でも……頼んだわよ、マルチトール』
あの時、パルスエットがいたずらっぽく笑いながら言った言葉が、今になって重くのしかかってくる。
「……君の言う通りだったよ、パルスエット。
君がいなくなっても、この家は……全く退屈しないようだ……」
マルチトールは、窓の外を見上げ、痛む胃をさすりながら苦笑いを浮かべた。
狂信的なシスコンへとクラスチェンジを果たした絶対防御の兄。
そして、彼らの奇行に振り回され、胃薬が手放せなくなった気弱なお父様。
パルスエットが遺した強烈な個性たちは、こうして見事な化学反応を起こし、新たなドタバタ劇を繰り広げ始めたのである。
アスパルテーム伯爵家は、今日も平和(?)だった。
この、我欲と過保護にまみれた一家が、十数年の時を経て、辺境の地でさらなる伝説を築き上げるまでのプロローグは、かくして静かに……いや、かなり騒がしく幕を閉じたのであった。




