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第35話:閑話・蒼海に沈む慈愛と、主の誇りを護る壁

第35話:閑話・蒼海に沈む慈愛と、主の誇りを護る壁

 私の棲む『蒼海群島(そうかいぐんとう)』は、かつて水晶のように透き通る、美しく穏やかな海だった。

 海面から顔を出して岩山で日向ぼっこをする海亀たち。

 美しい歌声で波を凪がせるマーマンたち。

 私の長いヒゲに絡みついて無邪気に遊ぶ、シーサーペントの子供たち。

 私は東の海を統べる龍として、この賑やかで愛おしい家族(眷属)たちと共に、悠久の時を平和に生きていくのだと信じていた。

 あの日、海底の亀裂から『黒い泥(瘴気)』が噴き出してくるまでは。

     ◇

 最初は、ほんの小さな亀裂だった。

 しかし、そこから溢れ出した瘴気は、触れた海草を枯らし、小魚たちを狂暴な化物へと変えた。

 私は海の守護神として、眷属たちを守るため、その亀裂の真上に陣取り、噴き出す瘴気を自らの体内に取り込んで浄化し続けた。

 数ヶ月、あるいは数年が経っただろうか。

 限界は、唐突に訪れた。

「――ギャルルルルッ……!!」

 ある日、私の喉の奥から、私自身のものではない、禍々しい獣の咆哮が漏れた。

 視界が真っ赤に染まり、頭の中で「すべてを破壊しろ」というおぞましい声が響き渡る。

 ハッと我に返った時、私の鋭い爪は、心配して近づいてきたシーサーペントの子供を、あわや真っ二つに引き裂く寸前だった。

(……あ、あぁ……なんということを……)

 恐怖で震える子供の姿を見た瞬間、私の心は絶望に打ち砕かれた。

 私の体は、とうに瘴気の毒に負け、理性を失いかけていたのだ。

 このままでは、私は自分の意志とは無関係に、愛する家族たちをこの手で皆殺しにしてしまう。強大すぎる私の力は、ひとたび暴走すれば、この海を死の海に変える最悪の厄災と化す。

(私が、私でいられるうちに。……みんなを、遠ざけなければ)

 私は、泣き叫んで後を追おうとする眷属たちを威嚇して追い払い、群島の最も深く、暗い海溝の底へと身を隠した。

 そして、残された最後の正気を振り絞り、自らを岩穴に封じ込めるための『分厚い水の結界』を張った。

 外からの侵入を防ぐためではない。私が完全に狂い、外へ出て皆を殺そうとした時、私自身を閉じ込めておくための『牢獄』として。

(来ないでくれ……。誰も、私に近づかないでくれ……)

 暗い水底で、私は身を丸めて毒の苦痛に耐え続けた。

 しかし、私の眷属たちは、私を見捨ててはくれなかったのだ。

 群島の外周に、マーマンや海亀たちが集まっていく気配を感じる。

 彼らは、私が狂ったことを知りながら、決して逃げようとはしなかった。代わりに、群島へ近づこうとする外洋の魔物や人間たちの船の前に立ち塞がり、必死に「水の壁」を作って追い返し始めたのだ。

『主様を、刺激しないでくれ』

『誇り高き我らの主様が、完全に我を忘れて破壊の怪物に堕ちてしまう前に……どうか、そっとしておいてくれ』

 彼らが壁を作る理由。

 それは、部外者の刺激によって私が暴走するのを防ぐため。

 そして何より――『愛する者を守るために自らを封印した、誇り高き青龍の尊厳』を、怪物の悪名で汚させないためだった。

 私は深海で、ポロポロと大粒の涙をこぼした。

 なんて優しくて、愚かな子たちなのだろう。そんな壁を作っても、私が完全に狂って結界を破れば、真っ先に殺されるのは君たちだというのに。

 痛い。苦しい。頭が割れそうだ。

 もう、家族の顔も思い出せなくなってきた。

 殺したい。壊したい。暴れたい。

 黒い衝動が、私の意識を完全に呑み込もうとしていた。

 あぁ、もうダメだ。

 ごめんね、みんな。さようなら。

 私が最後の一線を越え、牢獄の結界を内側から破壊しようと、禍々しい爪を振り上げた――その時だった。

『どけええええっ!! 俺は、お前らの主を助けに来たんだ!!』

 ――ビリビリビリッ!!

 深海の底まで届くはずのない、空気を震わせるような人間の少年の声。

 それは、私の意識を塗りつぶしていた分厚い瘴気の闇を、一撃で叩き割るほどに強烈で、真っ直ぐな響きを持っていた。

(……助けに、来た……?)

 その声には、一切の打算も、敵意もなかった。

 ただ純粋な、底なしの慈愛と、絶対に救い出すという強烈な意志の光。

 振り上げた私の爪が、ピタリと止まる。

 誰かが、私を呼んでいる。

 絶望の暗闇の底で、もう一度だけ、その温かい光を信じてみろと、私の魂が打ち震えていた。

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