第29話:閑話・泥濘に沈む白き祈りと、近づく慈愛の気配
第29話:閑話・泥濘に沈む白き祈りと、近づく慈愛の気配
熱い。痛い。苦しい。
全身を焼くような激痛と、魂まで侵食してくるような禍々しい黒い毒――『瘴気』が、私の体内で暴れ回っている。
かつて、私の鱗は白銀に輝き、この湿地帯は清らかな水と緑に満ちた、静かな聖域だった。
私はこの地の主として、ここに棲む全ての命を愛していた。
沼をスイスイと泳ぐ毒を持たない魚たち、泥の中でじっと時を待つカエルたち、そして、私の背中を巨大な流木だと思って遊んでいた、小さな沼ウサギの子供たち……。
あの子たちの、柔らかくて温かい、小さな鼓動。
それが、私にとっては、この世で最も尊い宝物だった。
「――グァァァァッ!!」
喉の奥から、苦痛に満ちた嘶きが漏れる。
数日前、湿地帯の奥底から突然、黒い瘴気が溢れ出した。
私は直感した。これが外の世界へ溢れ出せば、この湿地帯の命は全滅し、森も、人間たちの街も、全てが死に絶えると。
だから、私は動いた。
溢れ出そうになる猛毒の泥を、自らの巨大な体で堰き止め、防波堤となった。
そして、本来は泥を浄化するはずの私の体内に、直接、その猛毒を飲み込み続けた。
飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで……体内で、必死に浄化(ろ過)しようと試みた。
だが、瘴気の量は、私の許容量をとうに超えていた。
熱い。全身の細胞が、毒に焼かれて崩壊していくのが分かる。
白銀だった鱗は、今やどす黒い泥にまみれ、瘴気に侵されてボロボロと剥がれ落ちている。
意識が、遠のいていく。視界が、真っ黒な闇に塗りつぶされていく。
(ああ……もう、ダメかもしれない……)
私が力尽きれば、この溜まりに溜まった猛毒が一気に溢れ出し、全てを飲み込むだろう。
あの子たちが、苦しんで、死んでいく。
それだけは、それだけは嫌だ。
(誰か……誰か……。私を……あの子たちを……助けて……)
声にならない、悲痛な祈り。
神様がいるなら、どうかこの命と引き換えに、この湿地帯の命を救ってほしい。
もう、限界だ。私の心臓が、最後の拍動を刻もうとした、その時だった。
――バリバリバリバリッ!!
「ギャオオォォォォンッ!!」
(……えっ?)
死と怨嗟しか感じられなかった、真っ黒な世界に、異質な気配が纷れ込んだ。
それは、瘴気を切り裂くような雷の音と、天を揺るがすような竜の咆哮。
そして、何より――。
ドクン……。
毒に焼かれて感覚を失っていたはずの私の心が、ドクン、と大きく脈動した。
瘴気の毒霧の向こうから、これまで感じたことのない、圧倒的な、そしてとてつもなく『温かい』波動が近づいてくる。
それは、強力な魔力や武力ではない。
すべてを肯定し、すべてを包み込み、すべてを愛そうとする――圧倒的な『慈愛』の波動。
かつて私が愛した、小さな命たちの温もりを、何千、何万倍にもしたような、神聖で優しい気配。
(温かい……。何……これ……?)
薄れゆく意識の中で、その温かさに触れた瞬間、全身を苛んでいた激痛が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
誰かが、私を呼んでいる。
誰かが、私を、助けようとしている。
(私を……見つけてくれたの……?)
死を覚悟した絶望の闇の中で、私は、その近づいてくる慈愛の気配に、一筋の、奇跡のような希望を見出した。
あと少し。あと少しだけ、耐えなくては。
私に向かって真っ直ぐに伸びてくる、その温かい手を、掴むために――。




