ちぎれない
自分は人を壊したことがある。
同い年の女の子だった。
可愛らしい見た目の、人生を楽にお気楽そうに楽しんでそうなみてくれの、みてくれだけはそうだった女の子。
当時十三歳だった頃の自分は、そいつのことが大嫌いだった。
事情をよく知りもせず関係者でもないくせにずけずけとこちら側に土足で踏み込んできて、偽善を振るうそいつのことが。
しかもそいつは家出娘だった、立派なご両親がいるのに親の言うことなんて何一つ聞かない問題児。
家族を奪われていた自分にとって、そいつの存在が、言動が何もかもが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
あいつの存在が役立った場面があったということも、あの事件に、あの組織の壊滅のために必死の覚悟で挑んでいた自分の全てを否定されているような気になって、だから本当に、嫌いで、嫌いで。
だからある日自分は我慢できなくなって、そいつに全てをぶちまけた。
ちゃんとした家族がいるくせに、あんな立派な家族が生きていてくれるくせに、なんでお前はそんなにいい加減でどうしようもないんだって。
お前が妬ましいと、許せないと。
あんないい人達が家族で、普通に生きているのに、親の言うことをまともに聞かずいい加減に生きているお前が、憎いと。
そう言った直後、一瞬だけ奴の顔から全ての感情が消え失せた。
いつも、気持ち悪いくらいヘラヘラしているのに、それが一切合切消えた。
その直後に、奴は大声で笑い始めた。
馬鹿にされているのかと思った、けれど様子が違う、というかおかしい。
ただ笑っているだけじゃない、あれは普通の笑い方じゃなかった。
かなり長い時間そいつは笑い続けていたが、しばらくして急にふっとおとなしくなった。
彼女は自分に柔らかい微笑みを向けて、こう言った。
ありがとうございます。やっと、やっと自分のどうしようもなさに気付けました、と。
その顔に声に言葉遣いに、怯んだ。
普段のヘラヘラしたいい加減な口調と、その時の、いや、その時からの口調は異なっていた。
けれども怯んだのはその時だけ、次にそいつが言った言葉に、自分は激怒した。
羨ましくて妬ましいと言いやがったのだ、自分に向かって。
家族がいなくなって悲しめる人生が、羨ましいと言われて本気で怒れるあなたが羨ましい、と。
それはきっと、愛し愛された証拠だから、正しく生きられた人であるという証明だから、と。
いいなあ、と本当に、心の底から羨ましそうな声でそう言われた直後に、奴に掴みかかっていた。
ふざけるなと怒鳴り散らした自分に、奴はこう言った。
吐くほど殴られたことはありますか、と。
産むんじゃなかったという言葉を口癖のように言われた経験は、何年も傷跡が残るような怪我を当たり前にさせられたことはあるか、と。
それが当たり前でしかない、そう振る舞われて当然の不出来な子供として生まれ育った誰かのことを、簡単に想像できますか、と。
言っている意味がわからなかった、ただあまりにも物騒な言葉の羅列だったから、耳を傾けてしまっただけで。
何度か言葉を反芻して、ようやくそいつが何を言いたいのか、気付いた。
気付いた時点で、そこで口を噤むべきだった、あんなことを言ってはいけなかった。
少し考えれば、嘘なんかじゃないってわかっただろうに。
少なくとも自分の言葉であんなふうに豹変した彼女が、どうしようもない何かを抱えていることなんて、考えずともわかったはずだったのに。
けれども、当時の自分は今の自分が半殺しにしたくなるくらい、考えなしだった。
だからこう思った、嘘に違いないと。
しかもあんな立派でいい人であるあの両親が、あの家族がそんなことをしたとかいうとんでもない嘘を吐きやがって、なんて。
だから妄言を吐くな、と怒鳴った。
彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま、信じなくてもいいですけど、と言って何の躊躇いもなく服を脱いだ。
いくら相手がアレであれ、見た目は普通に可愛らしい女の子が目の前で服を脱ぎ出した。
それに当時の自分は大いに慌てたが、ちらりと見えた、見てしまったそれに、それどころではなくなった。
傷だらけだった。
比喩でも大袈裟でも何でもなくて、本当に傷まみれだった。
吐き気を催すほどに、今でも悪夢として見るほどに。
身体の中心、服を着ていれば見えない部分にだけ、傷が。
殴打の跡であるのだろう大きな痣が、火傷跡らしきものが、引っ掻き傷や切り傷のようなものが、他にもよくわからない、傷が。
そこでようやく気付いた、その時点でやっと気付くことができた、そこまで見なければ理解すらできなかった自分が、今でも嫌で嫌で仕方がない。
彼女が語った全てがあの時は本当のことだとは信じきれなかったけど、それでもその身体には確かに、自分のことを羨ましいと思っても当然だと思えるような傷が刻み込まれていた。
こんな傷を刻み込まれた女の子のことを、何も知らない自分は妬ましいと、憎らしいと言ってしまった。
今更のように思う、多分この時よりも前に気付ける瞬間はあった。
どこか動きがぎこちない時があった、あれはきっとあの身体に刻まれた傷が原因だった。
自分にとっては恩人である、ほとんど育ての親みたいなあの人が、よくやったと彼女の頭を撫でようとした時があった、その時に彼女が一瞬ひどく怯えた顔をしていた、その理由を何故自分は考えなかった。
後々になって、彼女がいなくなった後に、仲間達に聞いた話。
皆、気付いていたのだという、彼女がどこかおかしかったことに。
誰かにたくさん、傷付けられていたのだろうということに。
逆に何故あんたは気付かなかったのかと、片目が潰れた彼女に言われた。
何も気付いていなかった愚かな自分の前で彼女は穏やかな、穏やかすぎる笑みを浮かべていた。
──こういうのが、こういう扱いを受けるのが当然な私に、正常さも善良さもなかったのです。
当たり前のようにそう言って、ただ笑うだけの彼女にどうして俺は「それは絶対に違う」と言ってやれなかったのだろうか。
あの傷は、あれだけの傷を負わされるのは、異常なことだと。
けれど何もいえなかった、思考は完全に停止していた。
そんな自分に彼女は言葉を続ける。
はじめから人間として不出来だった自分は、どうしようもない、と。
他人の不幸を想ってしまうのだという、そうなる様子を想像して、きっとそうなるようにしてしまうと。
結構いろんなことを言われた気がする、いつかあなたが家族と再会できる日が来たとして、その瞬間に私はその再会を台無しにするような悪業を簡単にやってしまえるとか、そういうことも言われた気がする。
彼女は多分、生まれてからずっとずっと不幸だった分、他人の不幸を願ってしまうのだろう。
自分が不幸な分、他人の幸福が許容できず、その誰かを不幸にしたくなる。
あれだけの傷を負わされたのなら、それも家族に負わされたのだから、そうなってしまったのはきっと仕方がないことだ。
──私は、たくさんの人達がどうにか手繰り寄せた蜘蛛の糸のような細い希望を、無残に引き千切るような悪業をいつか犯すでしょう。
確か、そんなことを言っていた、けれどもそれよりもずっとずっと心に重く残った言葉がある。
──いい人になれば幸せになれるかと思ってたけど、だから色々頑張ってみたけれど、絶対にそんなことはないって今やっと気付けました。
不出来を理由に痛めつけられるだけの彼女の人生。
そんなクソッタレな人生の中で、彼女が自分自身を救うために、少しでも幸せになるために選んだ手段が、人助けだった。
その手段である人助けの対象に自分を入れたのは気に食わないが、それでもあれはきっと彼女なりの本気の悪足掻きだった、自分と同じで、どうしようもない何かから抜け出すための。
善行を行えば報われる、幸せになれる、何かが変わると。
だから、関わらなくていい事件に首を突っ込んで、誰かを助けようとしていた。
けど、そう簡単な話ではなかった。
人を救って簡単に報われるほど、彼女の傷は軽くなかった。
身体だけでなく心にも刻み込まれていたであろうその傷を、その程度でどうにかできるわけがなかった。
それでもそれを愚直に信じていられれば、まだ希望があったのだろう。
自分は、自分が彼女に向けた言葉はきっと、彼女がその希望を失う原因になってしまった。
ほんの僅かな希望をただのまやかしだと、そう思わせてしまった。
彼女に残っていた最後の希望を、きっと自分は粉々に打ち砕いてしまった。
それにやっと気付いたのは、彼女がいなくなった後のこと。
何も言えなった自分に彼女はこう言った、この事件から手を引くと。
そのうち、私は貴方達のような善良な人が不幸になるようなことをしでかすから、と。
服を着直して、それではさようならって。
また明日、とでもいうような軽い口調で。
去っていく背に、最後にどうにか声をかけることができた。
情けないことに身体は動かなかった、どう考えてもあれは強引にでも引き止めるべき場面だったのに。
あんなふうに、まるで死ににでもいくようにいなくなろうとする女の子を、どうして自分が引き止められなかったのだろう。
死ぬ気じゃないだろうな、という言葉を絞り出すのが精一杯だった。
彼女は振り返りもせずこう言った、そんな度胸があれば私はそもそもこんなところにいなかった、と。
その後、本当に彼女はいなくなった。
どこに行ったのか誰にも行方が追えなかった。
後悔してもしきれなかった、それでも彼女が手を引いた事件は、あの組織の陰謀は止まらない。
だから、あの組織を止めるために自分は行動するしかなかった。
あてもない彼女を探すための時間がなかった。
ここで、全てを投げ捨てて彼女を探しに行けるような人間だったら、俺は彼女を幸せにすることができたのだろうか。
それができる人間だったのなら、そもそも自分が彼女をあんなふうに追い詰めることもなかったのだろうが。
最終的に、その事件は収束した。
一時的ではあったとは言え、あの組織を行動不能状態に陥らせることには成功した。
壊滅させることができなかったので、失敗といえば失敗だったのだろう。
あの時全てが終わっていれば、全てを終わらせることができていれば、こんなことにはならなかった。
後悔ばかりの人生だった、無力を実感するしかない人生だった。
無力だからと無我夢中で力をつけて、それでも、どれだけやっても足りないだらけの、どうしようもないろくでなしが、自分という人間だった。
事件が収束して数週間後、ようやく自分は彼女の家族に、彼女に傷を負わせたのかと聞くことができた。
肯定された、当たり前のように。
あれはただのしつけだと、そう返ってきた。
あの大痣も、火傷跡も切り傷らしきものも、全部。
善良な人達だと思っていた。
尊敬できる立派な人達だって、信じたかった。
全部全部嘘だった、まやかしだった。
その場で全員殴り飛ばした、けれどすぐに育ての親に止められた、あんまりにもあっさりと。
本当は、殺してしまいたかったのに。
結局あいつらは、証拠不十分で何の罰も受けなかった。
その後、一応彼女のことを探していた。
全力で探していたわけではない、次があの組織が動くその時に備えて力をつける必要があったので。
片手間、だった。
しっかり探すべきだったと、今更のように思う。
それでもずっと探していた、忘れたことは一度もなかった。
傷らだけの身体はいつまでも悪夢に見た、あの笑い声が何度も何度も夢の中で響いた。
彼女を探す道中で、度々遭遇する奴がいた。
あの組織の構成員、自分と同世代の子供。
強力な力を持っていたからあの組織に目をつけられて、攫われて洗脳されて、あの組織の傀儡になっていた、そういう奴。
奴は何故か、彼女に執着していた。
自分が知らないところで何かがあったらしく、彼女があの事件から手を引く前から、執拗に彼女のことを狙っていた。
だから遭遇するたびに毎度毎度あの子は今どこにいるかと聞かれた。
それにこっちが知りたいと答えてから、殺し合いをおっ始めるのが何だか毎度毎度のお約束みたいになっていた。
結局互いに互いを殺し損なって、もう随分と経ってしまった。
今から、ちょうど三年くらい前のこと。
奴に似た風貌の不審者が暴れているという情報が流れてきたので、その対応をしに行った。
現場に向かうとすでにその不審者はいなくなっていたが、奴が残したであろう破壊痕を追ったら、容易にそいつに辿り着いた。
破壊痕は数年前にゴーストタウンになった廃墟に続いていた。
そこで、奴が少女を組み伏せて、その服を引き裂いていた。
その少女は、彼女だった。
奴が何をしようとしているのかなんて、見ればそれだけでわかった。
だからすぐに奴を殺しに行った、結局殺し損なってしまったが、どうにか彼女を奴から引き剥がして、奴を瀕死状態に追い込むところまではどうにかなった。
あの時とどめをさせていればどれだけ良かっただろう、あの時奴の仲間が様子見なんかに来なければ、絶対に殺せていたのに。
そのまま彼女を保護した、犯されそうになっていたくせに彼女は呑気な顔をしていた。
礼を言われた、助けてくれてありがとうございました、と。
礼とかどうでもいいからもうどこにもいくなと、これ以上心配させるなと縋り付くようにそう言った二時間後、彼女は姿を消していた。
だからほとんど何も話せなかった。謝ることもできなかった。
あの時、どんな手段を使ってでも彼女を引き止められていたら、こんなことにはならなかった。
彼女と偶然の再会をしてから一年、片手間ではあったがそれでも彼女を探していた。
そんなこんなしているうちに、あの組織の活動が激化していった。
そして、全てを終わらせるつもりで仲間達と共にあの組織の基地に踏み込んで、その先でそれを見つけた。
そこは奴の部屋だった。
大きな檻があった。
その中に白に赤と青が混じったような何かが閉じ込められていた。
その何かは、彼女だった。
一目見ただけで、どんな目に遭っていたのが嫌でもわかった。
そういえばと思い出す、あの後何度も奴と殺し合う機会があったが、いつの頃からだったか、奴はあのお決まりのセリフを言わなくなっていた。
具体的には、二ヶ月ほど前から。
そんなに前から、きっと彼女はここで。
何で気に掛けなかった、違和感を覚えた時点でこうなっている可能性に気付くべきだった。
誰かの絶叫が、聞こえた気がした。
最終的に、あの組織を壊滅させることに成功した。
彼女を犯して嬲ったあの男は念入りに殺した、息の根を止めた後も全身をバラバラに切り刻んだ。
仲間の誰かがそれを止めようとしていた気がするけど、あまり覚えていない。
あの戦いで多分、世間的には一旦全てが終わったのだろう。
世界を滅ぼすような大災害を数回に渡り引き起こした極悪非道の悪の組織は、多くの犠牲を出しつつも最終的にはしっかりと滅んだ。
滅んだところで、壊れたものが奇跡のように元通りになるなんてことはない。
どうにかして取り戻して、今度こそ連れ帰った彼女は、完全に壊れていた。
よほど酷い目に遭ったのだろう、どれだけ声をかけても、何をしても全く反応しない。
廃人、そんな単語を嫌でも連想してしまうような、そんな有様だった。
不幸中の幸いと言っていいのか、身体が負っていた傷の中で致命的な、もしくは後遺症が残るようなものはなかった。
それでも、ただそれだけだった。
彼女の心は、壊れてしまった。
自分がかつてそうした時のそれと比べ物にならないほどに。
元はと言えば、自分があんなことを言わなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
後悔がじわじわと全身を締め付ける、けれどもここであの時のようにただ立ち竦むわけにはいかない。
面倒な呼び出しの要件がようやく終わったので、彼女の病室に戻る。
本当はずっとそばにいたいのに、周囲と状況ががそれを許してくれなかった。
足早に廊下を進んでいると、誰かが目の前に飛び出してきた。
家族だった、自分の。
そういえばそんな話を聞いた気がする、あの組織のせいで行方不明になっていた人々のうち、一部が帰ってきた、なんて話を。
十数年ぶりだっただろうか、顔を見るのは。
家族が消えたあの日から、家族を取り戻すのが自分の悲願だった。
それだけのために生きていたつもりだった。
けれど今は、どうでもいい。
それどころじゃない。
「あとにしてくれ」
だから、淡々とそう言い捨てて、家族を置き去りにする。
なんて酷い息子だろうか、十数年ぶりの再会だというのに。
けれども本当に、今はそれどころじゃない。
追い縋るような家族の声を無視して、その病室に駆け込んだ。
名前を呼んでも、返事は返ってこない。
目は虚にぼんやりと、どこにも焦点があっていない。
彼女が横たわるベットの脇で、自分達よりも少し年下の少女が、泣き疲れたような顔で眠っていた。
二年ほど前に自分達の仲間に加わったその少女は、ちょうどその直前に彼女に助けられたことがあったそうだ。
その時に、彼女は少女にこんな話をしたらしい。
自分の幸福を願ってくれるような人でも、それでも自分は不幸に突き落とすだろう、と。
だからその人達から垂らしてもらえた蜘蛛の糸のような希望を、引き千切るしかなかったと。
だから彼女はそうやって、一人きりで生きることしかできなかった。
少女とは反対側に椅子を引っ張って、座る。
もう一度彼女の名前を呼ぶ、反応は返ってこなかった。
手を握る、やはり反応はない。
「お前を、これ以上不幸な目に合わせないと、そう誓う」
答えなんて返ってこないのはわかっていて、そんな決意を口にした。
ここで幸せにしてやるだなんていえなかった、言えるわけがなかった。
それでも、これ以上の不幸は全て跳ね除けるつもりだった、本気でそう思っている。
もう誰にも傷付けさせない、もう二度と恐ろしい目にも悍ましい目にも、嫌な目にも合わせない。
「お前がお前自身に垂らされた蜘蛛の糸のような希望を引き千切るっていうのなら、千切りきれない程の糸で雁字搦めにしてやる。もう二度と、お前を取り逃したりしない。お前がどう思おうが、どうでもいい」
自分は人として出来損ないなので、純粋に彼女のことを思えない。
自分はただ、彼女にこれ以上酷い目にあってほしくないだけだった、それを目の当たりにしたくないだけ。
何故なら。
「お前がこうなったのは、俺のせいだ。俺があんなことを言ったのがそもそもの発端だ。……俺のせいでお前はこうなった、だから」
その先は、言葉がつかえて何もいえなかった。
責任を取るだなんて、今更だった。
それでも、まだお前に何かできることがあるのなら、そうしたい。
何をしてでもお前を守るだなんて、今更すぎる話だろうけど。




