第99話 ペイストリーと筋肉の相関関係
なかなか落ち着かないハッサンのヤパに対する筋肉賛美は、しばらく続いた。
だからといって、鼻に力を入れまくって鼻息まで荒くする必要はないと思うんだけど……。
「本当に最高だったんです。初めて私の元へ来た時、一目で分かりましたよ。少し鍛え上げれば最高の黄金の腕を手に入れられると!」
うーん、他のことは分からないけど、ヤパがバクラヴァ職人として十分な素質があったということだけはよく分かった。
「それで、ヤパに筋トレさせたのか?」
「もちろんです! 見てください!! 最高じゃないですか?!」
「いやーん、恥ずかしいわ!」
ヒルデの腕をガシッと掴んで顔に擦り付けている様子を、三人は呆れ返ったまま見守るしかなかった。
おまけに顔を赤らめてひときわ恥ずかしがっているヤパの顔はおまけだ。
「最高だよ! この上腕筋! この二頭筋!!」
「もう、やだ……みんな見てるじゃないですか」
何か言いたいことは山ほどあったが、ただ何も言わないのが正解だと思える雰囲気だった。
カイランはただ口をパクパクさせながら、ハッサンとヤパを指差すだけだった。
[あっちのカップルもなかなか手強いみたいだな]
[そうですね。むしろ目の前で見ていると現実感がないみたいです]
[まあ、あんな形もあるってことさ]
痩せこけた男が、どんな男が来ても一振りするだけで吹き飛ばしてしまいそうな腕の筋肉にスリスリしている様は、到底正視に耐えない光景ではあるな。
「あの……まあ……」
「ただ諦めろ」
「ハハハ、仲睦まじい夫婦の姿じゃないですか」
老人の言う通り、香ばしいごま油の香りがフワフワと漂ってきそうな姿だった。
いや、ごま油じゃなくて甘い砂糖の匂いか……?
「デーツですよ」
「え?」
「うちは砂糖ではなく、蜂蜜とデーツだけで甘みを出しているんです」
「アハハ。そ、そうでしたか」
突然不意打ちを食らったハッサンの攻撃に無防備だったルセテリが、慌てたように言葉を濁した。
「砂糖を使うよりも豊かで深い甘みが出るんですよ。だからうちは砂糖は使いません。それに無駄に高いですからね」
まるでルセテリの心を読んだかのように、ハッサンは説明を続けた。
「こうして薄く伸ばした生地の上に澄ましバターを塗り広げ、生地を何層にも折り重ねます。程よい大きさに切った後、間に餡を挟んで焼けばサクサクのバクラヴァになるんですよ」
「ああ、生地の間に塗ったバターが層を作り出すんだな!」
「はい、その通りです。だからバクラヴァは、どれだけ生地を薄く伸ばすかに命を懸けているのです」
それが命まで懸けるようなことか?
危うく口から飛び出しそうになった質問を飲み込みながら、ルセテリはそっとハッサンを見た。
もしかして読心術でも使えるのだとしたら、少しでも油断すれば大ごとだ。
「この生地こそ職人の誇りです!」
ハッサンの目が輝いていた。
身内びいきだとばかりに、ヤパが作るバクラヴァの称賛を永遠に続ける勢いで押し切るハッサンを見ていると、ただの愛妻家なだけだったようだ。
「……だから、この天賦の肉体を強化するために、私は涙を飲んでヤパに腕立て伏せ1000回を4セット、ダンベルカール300回を4セットやらせたのです」
ん???
ルセテリは何か聞き間違えたのかと思った。
もしかしてゼロを一つ勘違いして間違って言ったのではないかと思いハッサンを見たが、そうではなさそうだった。
でも本当だとしたら、騎士団の訓練でもそこまでじゃないぞ?
「途中で何度も山場はありましたが、結局は克服してくれましてね」
「それはあなたの愛があったから可能だったことですよ」
「そうそう。愛の力だったのかしら」
再び目の前で繰り広げられる二人の過剰な愛情表現に、息が詰まって死にそうだった。
いや、別に過剰な愛情表現が嫌だとかそういうわけではなかったが、何というか。
二人の熱気があまりにも熱すぎるんだよな。
「コホン」
「あ、そうでした。お食事になさらないと」
ルセテリの空咳でようやく正気に戻ったのか、ハッサンが妻のヤパの腕から離れた。
今更照れくさそうにしているハッサンの姿に、カイランは呆れ果てた。
「いや、道のりが長いので結構です」
ジアでさえも、これ以上ここに長居していてはこの異常な空気に圧死してしまいそうだったため、きっぱりと彼の好意を断った。
「いや、それでもご飯は召し上がらなければ」
食事はしないという言葉に、ヤパとハッサンは戸惑ったように慌てふためいた。
当然、食事までしていけば楽ではあるだろう。
しかしご飯を食べている間中ずっと、二人のドラマを見せられ続けなければならないこちらの立場というものもあるじゃないか。
「大丈夫です。出していただいたお茶とバクラヴァだけでもう十分です」
急いで食事の準備をしようとするヤパのスカートの裾を掴み、ジアは親切な笑顔を浮かべて必死に彼女を止めた。
ルセテリの方は分からないが、ジアのお腹はすでに飲んだお茶とバクラヴァでいっぱいで、チャプチャプと音が鳴りそうなほどだった。
ここで何か他のものが入ってきたらすぐに吐き出してしまいそうなのに、これ以上何を食べるって言うのよ。
ジアが止めるのには理由があった。
「もう十分だよ、ヤパ。もうその辺でいいと思う」
「それでもせっかくお会いできたのに……」
「いや、本当に。俺ももうこれ以上は食べられそうにないし」
カイランも立て続けの甘いお菓子の爆撃に、これ以上は無理だった。
そして立て続けの夫婦の愛の物語に、これ以上は耐えられそうになかった。
すでに許容量の限界を超えたというか。
少しの間、三人はそれぞれの理由でボロボロになった気分だった。
「それならお弁当! お弁当をお包みしますね!」
いや、本当にそこまでする必要はないんだけど……。
カイランが前に出て止める間もなく、ヤパは素早く体を動かして食べ物を用意し始めた。
「またお弁当……」
「いいから。もう少しだけ我慢しろ」
お弁当で終わるだけマシじゃないか。
今台所に出されている食器や材料が何の宴会でも開くのかという勢いなのに、お弁当だけで済んだことが幸いだ。
そうでなければ、今日このラジスタンを発つのは諦めなければならなかっただろうから。
カイランを止めながら、ジアはチラリとルセテリの状態をうかがった。
大量のお茶とバクラヴァを平らげたルセテリだったが、ジアは知っていた。
間違いなくそれでは、ルセテリの普段食べる量から考えれば到底足りないということを。
もしかして邪魔をするんじゃないかとハラハラしていたその時、
「お弁当もいいですね。ありがとうございます」
何なの? 食べたバクラヴァにあたって腹でも壊したの?
ルセテリらしくない姿に、ジアは目を丸くするしかなかった。
[ルッ様、急にどうしたの?]
[なんだ、早く行こうって言っただろ?]
[ルッ様らしくないよ]
[俺らしくないってどういう意味だ?]
こんな厚かましいドラゴンがどこにいるのか……。
今更になって食べられる席を断るルッ様は初めて見ますけど? と聞くわけにもいかず。
いつの間にかヤパは大きな包みを三つ持ってくると、ヒョイと持ち上げて外に停めておいた荷車の上に積んだ。
「入れるついでにバクラヴァやあれこれお菓子も入れておきましたから、旅の道中でお召し上がりください。日持ちするものを用意しておきました」
やはりただ見ないふりをしていただけだったのは明らかだった。
ルセテリが空にした皿で山を作っても二つは作れるほどの高さだったのに、空気が読めないわけでもないし。
「おやまあ、ありがとうございます。いただきます」
そう……それでこそ僕たちのドラゴン、ルセテリ様だ。
上機嫌なルセテリがニコニコしながら荷車へと走っていく姿を見守るジアは、ため息をついた。
もはやピョンピョンとステップまで踏みながら飛び出していくルセテリの後ろ姿は、本当に楽しそうに見えた。
「カイラン様」
ヤパが荷車に乗ろうとするカイランを呼び止めた。
「あまり気になさらないでください」
「……何を」
「エルパシャ様のことです」
「……」
無言のカイランを、ヤパが哀れみいっぱいの目で見つめた。
「シェイク様もそれが最善だったのですよ。だからあまりシェイク様を憎まないでください」
「俺がいつ」
「シェイク様に商人になりたいとおっしゃったそうですね」
ヤパの言葉に、カイランはもちろんジアとルセテリまでもが驚いてヤパを振り返った。
「それをどうして……」
「どうしてって。私が若君をどれほど大切にしていたか。シェイク・ミルザ様が、カイラン様は私の息子も同然だと言って、時々近況を知らせる早馬を送ってくださるのですよ」
どうりでシェイクが、雇ったばかりのベビーシッターがティシャールへ旅行に行きたいと言い出した時に快く許可してくれたのが怪しいと思っていたら。
別に下心があったのだ。
「商人にどうしてなりたいのですか?」
「俺の勝手だろ」
せっかく答えるのにも可愛げのない答え方をするのが、ルセテリは気に入らなかった。
心の中では頭を思い切りゴツン! と一発殴ってやりたかったが、さすがに赤ん坊の頃から見てきたというヤパの前ではそんなことはできず、拳をワナワナと震わせるだけだった。
「商人になるということを怒ろうとしているのではありません。ただ、他のことも考えてみてはということです」
「他のことって何? シェイクの座?」
「必ずしもそういうわけではありませんが」
「嫌だ」
カイランのきっぱりとした答えに、ヤパはどこか残念そうな表情を見せた。
「まあ……嫌だというのなら仕方のないことではありますが」
言葉の端々から未練がポタポタとこぼれ落ちているが、なんだ?
文脈から察するに、カイランがシェイクの座にあまり関心がないのが残念だからというわけではなさそうだった。
何か別の理由があるような顔つきだ。
ルセテリはハッサンとヤパが短く互いに視線を交わしたのも見逃さなかった。
「誰が何と言おうと、俺は大陸一の商人になるんだ!」
その小さな胸を拳でドンドンと叩きながら、カイランが力強く叫んだ。
本人としては大きな決心でもしたように大口を叩いていたが、果たして……?
カイランの年齢はまだ10歳、これから世の中を学び、挫折を繰り返しながら成長していく年齢だ。




