第100話 嫌いな理由
ヤパが手際よく包んでくれたお弁当をベッチーが引く荷車に積んだ三人は、村の入り口ですべての村人たちの盛大な見送りを受けながらラジスタン村を後にした。
カイランの代わりにベッチーのて綱を握ったジアも、荷台の弁当の間に陣取って座ったルセテリも、さらには荷車を引いていくベッチーでさえも、ずっと無言だった。
唇をギュッと噛み締めたジアは、て綱を握った指の関節が真っ白になるほど手に力を入れており、ルセテリは弁当箱を抱え込んでだらしなく上がりそうになる口角を無理やり引き下げながら、ジアの顔色をそっとうかがうだけだった。
ベッチーも耳をピンと立てたり寝かせたりを繰り返していた。
みんな何も言わず、ただ大人しく道に沿って走るだけだった。
パカラッ、パカラッ、パカラッ――
ベッチーが荷車を引く音だけがやけに大きく響いた。
道路脇の茂みからは魔物の気配も、鳥のさえずりも、風の音さえも止まったような静寂が周囲を支配していた。
弁当箱を抱きしめてだらしなく魂が抜けているルセテリはともかく、じっとカイランの横顔を見つめているジアの視線が、やけにチクチクとカイランの頬を刺した。
「シェイク・ミルザ様が……嫌い?」
沈黙に耐えきれなくなったジアが、ついに不意に口を開いた。
「嫌い……なわけじゃない」
「じゃあなんでシェイクの座は嫌だって言うんだよ?」
「なんとなく?」
「……チッ。分かった、言いたくないならいいよ」
望む答えを得られなかったジアは、鈍感なカイランが見ても明らかにすねていた。
実のところ、そこまで大層な理由があるとは言い難いのも事実だ。ただ、ハーレムが嫌だっただけだから。
「そういうお前だってル先生だって、本当のことを言ってくれないじゃないか」
瞬間、カイランは背後から感じる殺意にビクッと体が震えた。
これまで感じたことのない凄まじい威圧感に、いくら空気が読めないカイランであっても口を塞がざるを得なかった。
「何でも見抜く真実の目を持っているというのに、お前みたいに鈍い奴は初めて見たな」
「ヒック」
「そんなの分かったところで、お前が何に使うって言うんだ?」
「そ、それは、ギブアンドテイクってやつですよ!」
カイランは口にしてすぐに後悔した。
それが通じるような相手なら、とっくの昔に通じているはずだ。
今度はどんな雷が落ちるかと、カイランは両手で頭を抱え込んでブルブルと震えた。
「確かに間違ったことは言っていないが、また俺たちの関係がそこまで信頼を交わせるような間柄でもないだろう」
「え?」
意外にも素直に認めるルセテリが新鮮だった。
いや、次にどう出てくるか全く予想がつかないからこそ恐ろしいというか。
実際にルセテリは、カイランを全く温かみのない恐ろしい顔で見下ろしていた。
腕を組んだまま荷車から立ち上がり、厳格な表情で、
「他人の腹の底が気になるなら、まず自分の腹の底から見せるのが礼儀って話だ」
「ル先生……こいつがそんな難しい言葉を理解できるはずないじゃないですか」
案の定、すぐにジアのツッコミが飛んできた。
「俺はバカじゃない。しきりに忘れてるみたいだけど、10歳がみんな俺みたいじゃないからな?」
「……俺、そこまでバカじゃないんだけど」
ジアが突然クルッと体を翻し、カイランに向かって鋭い視線を突き刺した。
「僕はバカだなんて一言も言ってないけど?」
初めて会った時からずっとそうだったが、ル先生といいプーというこの奴といい、この二人の前でだけはどんなことを考えても隠すことができなかった。
この二人の前では、無意識のうちに自分の考えを口に出してしまっているのではないかと疑うほど、正確にカイラン自身を見透かされていた。
まるで自分のような凡人には絶対に越えられない大きな障害物が目の前に立ちはだかっているような、そんな感覚?
「間違ったことは言ってないじゃない。10歳にもなってまだ掛け算も割り算もまともにできなかった奴のくせに」
これ以上耐えられなくなったカイランの顔が真っ赤になった。
まさに疾風怒濤の10代の思春期に突入したばかりのカイランは、時々雰囲気を漂わせて憂鬱そうにしてみたり、何か深みのある? そんな美少年に見られたかったが、この二人の前では何をしたところで無駄だった。
「俺が悪かった」
ただひたすら自分が悪かったと謝るのが最善だ。
幸い、カイランは処世術においてだけは自信があった。
恥を忍んで頭を下げたカイランを見るジアとルセテリの眼差しが、一段と柔らかくなったのが空気から感じ取れた。
「それで?」
「ん?」
「なんでシェイクの座は嫌だって言うんだよ?」
指をチッチッと動かすジアは、カイランに向かって早く吐き出せと急かした。
唇をギュッと噛んでいたカイランは、大きな決心でもしたように両拳をギュッと握ったり開いたりした。
「ハーレムが嫌なんだ」
「ハーレム? 理由は……まあ、お決まりのパターンか」
前後の状況を見た時、カイランがハーレムを嫌う理由は想像がついて余りあるものだった。
頼る場所一つない田舎の踊り子出身の娘。
そして彼女を愛した身分の高い男。
当然のことながら、二人の純粋な男女間の愛を良く見る貴族たちが世の中のどこにいるというのか。
「母さんが病気になっても、来て診てくれる人は誰もいなかった。お腹が空いても誰一人水一杯持ってきてくれる人もいなかった。あのたくさんいるハーレムの人間の中で誰一人として」
カイランの目元は怒りで揺らぎ、涙が滲んでいた。
ギュッと握りしめた両拳はどれほど強く握っているのか、爪が食い込んで裂けた肉から血がツーッと流れ落ちた。
「シェイク様には話してみたの?」
「忙しくて会えないという言葉だけを伝え聞いた。母さんを……愛していたなら、どんなに忙しくても一度くらいは……来てくれたって良かったんじゃないのか?」
あの妻バカのシェイク・ミルザが?
まるでアメリア帝国のジョゼフ皇帝が妻であるミエリア皇后を見つめる時のような眼差しでエルパシャ妃を恋しがっていたあのシェイク・ミルザの態度だったというには、信じがたい話だった。
そっとルセテリの様子をうかがったジアは、案の定、首をコテンと横に傾げているルセテリを見ることができた。
「誰がそんなことを?」
「誰って……シェイクが……」
「だから、シェイク・ミルザが直接そう言ったのかって聞いてるんだ」
「いや、大臣が……」
「大臣? じゃあナビルか?」
「いや、前大臣が……」
「じゃあ、その前大臣が今どうしてるか知ってるか?」
「え? 今?」
そう言われてみれば、カイランはルセテリの質問が少しおかしいと思った。
今更になって前大臣の近況を聞くなんて、そりゃあ当然今は引退して……
「俺が聞いた話じゃ、その前大臣、シェイク・ミルザの怒りを買って今は平民以下の暮らしをしてるそうだが?」
全く知らなかった事実だったのか、カイランの目が丸く見開かれた。
そんなカイランの姿を見たルセテリは、チッチッと舌打ちをして話を続けた。
「前大臣が自分の娘をシェイク・ミルザの公妃にしようと推していたらしいな。ところが、どこからともなく現れた女にのめり込んだシェイクが、ハーレムに入れた自分の娘には見向きもしないもんだから、娘と一緒にエルパシャ様をいじめていたらしい」
「前大臣が……?」
「あの日も前大臣が、ハーレムからシェイク・ミルザ様へ行くすべての伝令を遮断していたそうだ」
突然明らかになった真実の前に、カイランは胸が締め付けられるのを感じた。
それと同時に、熱い涙が一筋、カイランの頬を伝って流れ落ちた。
「それでも……嫌だ」
「あんたって本当に臆病者なんだね?」
肩をガクンと落としてうなだれ、呆然と立ち尽くすカイランに向かって、ジアは冷たい一言を投げかけた。
臆病者だなんて……そういう言葉、結構嫌いみたいだったけど。
カイランの状態が心配になったルセテリは、閉じていた片目をそっと開けてカイランの顔色を窺った。
案の定、臆病者という言葉に指でツンと突けば今にも爆発しそうな真っ赤なジャガイモになっていた。
あ、クマートか。
「シェイクが嫌だから商人になるって、それただ逃げてるだけじゃない?」
「ち、違うってば!」
「違わないでしょ……。ただパッと見ても、シェイクがどんな仕事をしてるのか詳しく理解しようと努力もせずに、ただむやみにハーレムが嫌だっていう理由一つでシェイクは嫌で商人になりたいだなんて、それが逃げてるって言わずに何て言うのよ?」
「ぐぬぬ……!」
理路整然と問い詰めるジアの言葉に反論する言葉がなく、カイランはフーフーと鼻息を荒くするだけだった。
あいつに誰が勝てるってんだよ。
言葉だけの戦いならドラゴンだって丸め込んで食っちまうほどの実力者を。
「それに、商人はなんだ、簡単になれるとでも思ってるのか?」
「シェイクよりはるかにマシだ!」
魂を込めて大声を張り上げてみたようだが……。
それが通用しそうな言葉だったら、とっくの昔からこんな喧嘩をわざと仕掛けたりはしなかっただろう。
「どこが?」
「どこがって……」
「具体的にどんな点がどんな点でシェイクより商人がいいって言うのか説明してみなよ。そうしたら、認めてあげるから」
「何っ? 急に?」
「こういうのは急に聞かなきゃ意味ないでしょ? だからすぐに答えられない程度なら、ちゃんと分かってるとは言えないね!」
ジアの言葉にカイランの顔は青ざめ、ルセテリは腕を組んだまま目を閉じて黙って聞いていた。
『その通りだ』
本当にやりたいことだと言うなら、すぐに口から理由が飛び出してきたはずだ。
静かに頷いていたルセテリは、こっそりヤパが包んでくれた弁当の蓋を一つ開け、柔らかいゼリーのような食感のお菓子を一つ掴んで素早く口の中に放り込んだ。
目が覚めるほどの強烈な甘さが舌の先を回り、口の中は芳しいバラの香りでいっぱいになった。
歯でクチャクチャと噛むたびに弾ける香りは、ゼリーにゴロゴロと埋まったピスタチャの香ばしい味と食感の対極のコントラストを成しているのが面白かった。
『一つじゃ物足りないな』
再びルセテリの手がコソコソと弁当へと伸びようとした時だった。




