第98話 デーツの木の下に愛を乗せて
その当時の瞬間を回想するヤパの目がハート型になっているのは、おそらく気のせいだろう。
カイランはそう信じたかった。
子供として両親のラブストーリーを聞かされることほど恥ずかしいことが他にあるだろうか。
穴があったら入りたいほど恥ずかしさで火照った顔を、なかなか冷ますことができなかった。
「その日は月明かりがとても美しい夜でした……」
「うわああああっ!」
ヤパが話をさらに続けようとすると、カイランが突然獣のような悲鳴を上げ始めた。
「ちょっと静かにしてよ」
ついに我慢しきれなくなったジアは、カイランの後頭部をひっぱたいてしまった。
「うるさくて聞こえないじゃない」
「そんな話聞いてどうすんだよ!」
「そんな話って……? あんたは気にならないの?」
自分の両親のラブストーリーなのに気にもならないの?
ジアには恥ずかしさで死にそうになっているカイランが理解できなかった。
[まあ、それが男の子と女の子の違いだろうな]
優雅にカファのカップを手にしているのとは裏腹に、ルセテリの手は目にも留まらぬ速さで動いていた。
目の前に置かれているバクラヴァが盛られた皿が、瞬く間に空になっていっているという事実に、誰も気づいていないようだ。
「月明かりの下で女神ガエリアに捧げる踊りの練習をしていたエルパシャ様を、夜の散歩に出てこられたシェイク・ミルザ様がご覧になり、一目惚れされたのですよ。あの時、シェイク様がおっしゃったお言葉が忘れられません。『そなたは妖精か……?』とおっしゃって……キャア〜!」
ヤパは両手で両頬を包み込み、まるで自分がシェイクから告白でもされたかのように頬を赤らめてキャーキャーと騒いだ。
そこらへんのロマンス小説の素材として使うにはぴったりの話だった。
おまけに実話だというなら言わずもがな。
興奮するのも無理はなかった。
「本当にお似合いのカップルでした。美男美女そのものでしたから。デーツ(ナツメヤシ)の木の下での告白は、永遠に語り継がれるべきですよ!」
もはや目から火花が飛び散る勢いだった。
「珍しいな。デーツの木の下での愛の告白とは……北の方じゃ、ミスルトゥ(ヤドリギ)の木の下でだけはキスしてもいいっていう話もあるがね」
「あら、北にはそんなロマンチックなお話があるのですね! 南部ではデーツの木の下が一番有名なんですよ。もちろん、シェイク・ミルザ様がエルパシャ様に告白されてからさらに有名になりましたけどね」
ルセテリが付け加えた言葉に、ヤパのロマン指数は最高潮に達した。
握り合わせた両手はどれほど強く握りしめているのか、関節の節々が真っ白になっていた。
「おい、もうその辺にしておいたらどうだ?」
到底抑えきれないロマンスに向けたヤパの熱気に耐えられず、カイランが隅っこでしゃがみ込んでいるのを目撃したハッサンが、彼女の肩を掴んで止めた。
一歩間違えれば子供たちには聞かせられないような場面が飛び出してくるのではないかと、ヒヤヒヤしていたところだった。
「まだ四分の一のそのまた半分も始まっていないのに」
「もちろん久しぶりにカイラン様にお会いしたお前の気持ちは分かるが……旅の疲れもあるだろうから、少し休んでいただくべきじゃないか?」
「あらあら。そういえば……! 私としたことが。お食事と寝床の準備もして差し上げなければならないのに!」
忘れていたとばかりにヤパは慌てふためいて居間を出て行った。
その後ろ姿を見つめながら、ハッサンは大きくため息をついた。
「申し訳ありません。妻が久しぶりで少々興奮してしまったようです」
「久しぶりに懐かしい顔を見れば、そういうこともありますよ」
わざとらしく、ルセテリは一切の表情を変えることなくカファのカップを持ったまま、ハッサンに向かって限りなく慈悲深いような笑みを浮かべた。
ジアが見る限り、何か下心でいっぱいの表情だった。
一言で言えば、あ・や・し・い。
まさにその言葉が今の状況にぴったりな言葉のように見えるのが問題だった。
「エルパシャ様と非常に仲がよろしかったようですね」
「はい、同じ村でほとんど実の姉妹のように育ちましたから、随分と恋しかったようです」
それにしても反応が少し過剰じゃない?
もちろん、両親の恋愛話なんか聞きたくないと子供のようにすねているカイランもカイランだけど。
「鳥肌が立ったんだよ。あの二人が一緒にいると……」
隅っこで両膝を抱え込み、ブツブツと不満を並べ立てているカイランを、ジアはチラリと見た。
落ちた影の間に、ふと形容しがたい深い憂鬱と悲しみを垣間見たような気がしたからだ。
全くカイランらしくなく。
「愛の物語は万人が好む話題でもありますから、理解できますよ」
「そのようにご理解いただき感謝いたします」
ハッサンは依然として両膝の間から顔を上げる気配がないカイランを注視していた。
「カイラン様」
「お前なんでここにいるんだ」
「ハハハ。私もどういうわけか、こうなりました」
「王国最高の職人がこんな田舎の片隅でくすぶってるのがもったいないって言ってんだ!」
キーキーと叫ぶ様子が、少しももったいないと思っているようには見えないんだけど。
ムッとした表情でジアが穴が開くほどカイランを見つめていると、カイランの顔が再び赤くなり、慌て始めた。
「何! どうした!」
あいつはあの言葉以外に言うことはないのかしら。
小さくため息をついたジアは、ルセテリの服の袖を引っ張った。
「ル先生。ティシャールまではまだ道のりが遠いですよ」
「おいおい、ちょっとだけじゃないか」
「そのちょっとの間に、これはどう説明するおつもりですか?」
空の皿が並んでいる居間の床を指差してジアが叫んだ。
間違いなく少し前までは、全部食べ切れるか疑わしいほど山盛りに盛られたバクラヴァがあったのに……ありませんでした。
「そ、そうだな。どこへ消えたんだろうな?」
ジアの痛い視線をそっと横に逸らしながら、ルセテリの額にはしっとりと冷や汗が流れ落ちた。
美味しくてもあまりに美味しくて、つい理性を失ってしまった。
「これだけ食べればお腹いっぱいですよね? いっぱいでしょ? いっ・ぱ・い・で・しょ・う・ね?!」
一言一言口にするたびにだんだんと顔が近づいてくるのは、気のせいだけではないはずだ。
「いや、お菓子だろ……腹を満たすために食べるものじゃ……」
「たくさん、召し上がりましたよね? すでに十分だと思いますけど?」
腰に手を当てて問い詰めてくるジアに、ルセテリ自身がどうして勝てるというのか……。
おまけに適当に降伏を宣言しなければ、残りの旅路、間違いなくずっと苦しめられるだろう。
「分かった。これからは自制するから……」
「ハハハ。私共としては美味しく召し上がっていただいただけで感謝しておりますが」
空の皿を片付けていたハッサンが、ルセテリに食ってかかるジアに向かってニッコリと微笑み、ルセテリを擁護した。
料理人として最高の瞬間は、やはり綺麗に空にされた皿を見ることだという。
ハッサンは今、空の皿を片付けながら久しぶりに満たされる満足感にニッコリと微笑んだ。
「でも、ヤパの腕はどうしたんだ?」
そっと顔を上げたカイランがハッサンに向かって尋ねた。
カイランが記憶していたヤパの姿は、ぽっちゃりとしてある程度肉付きが良かったのは事実だった。
だからといって、あの時もあんなに無骨なほど肩と腕の筋肉が発達していたわけではなかったと思うが。
一体どんな激変があって、まるで魔獣の腕と合体したかのような凄まじい筋肉量なんだよ。
「ああ、それは……うーん。もしかしてバクラヴァをどうやって作るかご存知ですか?」
ハッサンの質問に、ジアとカイラン、そしてルセテリは揃って首を横に振った。
ただ、何層にもなった生地が積み重なってサクサクとしたパイの皮が崩れるのを見て、一つ推測できることはあった。
「もしかしてパティスリー生地ですか?」
「北の方ではパティスリーと呼ぶのですか? それと似たような生地ではあります。やはりカイラン様のご親友ですね、違いますな」
どういうわけか、ジアが受けた称賛にカイランの肩が得意げに上下しているような気がするんだけど?
「バクラヴァは生地を非常に薄く伸ばして餡を包む方式です。生地が薄いのが特徴なのです」
「それと腕と肩の筋肉が何の関係があるんだよ」
相変わらず何が不満なのか、カイランはブツブツと文句を言うのをやめなかった。
「直接ご覧になった方がはるかに理解が早いでしょう」
照れくさそうな笑みでカイランを見つめていたハッサンは、三人を厨房へと案内した。
厨房は小さな家にあるような広さではなかった。
居間の二倍はある広さの厨房には、大きなテーブルが真ん中に置かれていた。
そのテーブルの前でヤパは、非常に大きな麺棒をためらいなく持ち、何かを一生懸命に伸ばしているところだった。
「あれがまさに、バクラヴァの餡を包む生地です」
「どこ? 見えないけど?」
カイランの言う通り、テーブルの上には何も見えなかった。
それなのにヤパは滝のように汗を流しながら、長い麺棒で一生懸命何かを伸ばしていた。
「ハハハ。そうですか? よくご覧になってください」
目をこすってもう一度見てもテーブルの上には何も見えな……あった。
薄く伸ばされた何かがテーブルの上を覆っていた。
おそらくあれがハッサンが言っていたバクラヴァを作る生地のようだった。
「バクラヴァを作るためには、この薄くて薄い生地が核心なのです。これをどれだけ薄く伸ばしたかが、バクラヴァの食感を決定するほど重要です」
確かに……餡を包む生地の厚さが薄ければ薄いほど、バクラヴァのサクサク感は天と地ほど変わってくるだろう。
今ヤパが伸ばしている生地は薄いどころか、テーブルの木目がそのまま透けて見えるほどだった。
「これを破れないように薄く伸ばすための筋肉なのです」
ハッサンは愛おしそうな眼差しでヤパの腕と肩の筋肉を見つめていた。
まるでそれは、自分が持っていないものに対する憧れの眼差しというか、羨望の眼差しというか。
ハッサンの痩せこけた筋肉を見ると、ある程度理解はできた。
「私が持っている技術がいくら優れていると言っても、肉体的には限界がありますからね……ヤパは本当に、最高です!」




