第96話 愛のバクラヴァ
「ただの……老人じゃなかったの?」
これはルセテリでさえ気づかなかった事実だ。
老人が突いている杖、ごくありふれたもののように見えたが、よくよく見てみると全く違った。
杖が触れた部分が深く抉れているのを見ると、杖だけでもかなりの重さがあることが分かった。
そして老人のわりには贅肉一つない引き締まった筋肉。
すでにそれだけでも普通とはかけ離れた老人だった。
「お前らもここに宝があるという噂を聞きつけて、盗みに入ってきたのだろうがな」
「ゲフッ! カーッ!」
そのかなりの重量がありそうな杖で、老人はうつ伏せに倒れている盗賊のボスの背中をグサグサと突いた。
突かれるたびに、ボスの口からは内臓でも傷ついたのか、赤い血がドクドクと吐き出された。
「こ、降参……」
「ええ? 降参だと? もうか?」
「そ、そうさ……降参だ……だからこれはもう……」
「ちぇっ。最近の若いもんはこうもひ弱では……こんな真似して食っていけるのかね」
老人はチッチッと舌打ちをして、ルセテリとカイランがいる場所へ近づいてきた。
老人は盗賊たちを相手にしていた時とは打って変わって、とても慈悲深く優しい老人の姿だった。
「シェイク・カイラン様であらせられますか? よくぞお越しくださいました、ラジスタンへ」
「ラジスタン? ここが?」
「おや、ご存知でいらしたわけではなかったのですな」
「ただ通りがかったところ、盗賊のような奴らが見えたもんで……」
「そうでしたか。それでもお立ち寄りいただいただけで、私は嬉しゅうございます」
老人は村人たちに向かって手招きし、誰かを呼び出した。
村人たちの中から、頭一つ分は大きい女が一人前に出てきて、カイランに向かって礼を尽くして頭を下げた。
「お久しぶりでございます、カイラン様」
南部では珍しい燃えるような赤い肩まで伸びるくせ毛に、筋骨隆々とした肩幅を持つ、なんとも頼もしそうな印象が深く残った。
「お前の知り合いか?」
カイランの耳元でルセテリが小声で尋ねると、カイランは首を左右にブンブンと振った。
今度ばかりは本当に記憶の欠片すらない人間だった。
それを察して見守っていたのか、女は落ち着いて言葉を続けた。
「覚えていらっしゃらないでしょう。カイラン様がお生まれになった直後、エルパシャ様をお手伝いして乳母として働いていたヤパでございます」
確かに、いくら記憶力が良いからといって、赤ん坊の頃のことまで覚えているというのはなかなか難しいことだった。
あの印象的な赤い髪は、たまに母親から聞いたことがあるような気もするし……?
「カイラン様が乳離れされた後は、シェイク・ミルザ様のお願いを受けて、エルパシャ様の故郷であるここラジスタンに滞在しておりました」
「ヤピ?」
「はい! 覚えていてくださったのですね! エルパシャ様が呼んでくださっていた愛称です」
ヤパと呼ばれた女は涙まで浮かべ、感激に胸を震わせる眼差しでカイランを穴が開くほど見つめていた。
「えっと、本当にヤピか? 俺の知ってる姿とは、うーん……ずいぶん違って見えるんだけど?」
カイランはなんだか渋い顔で、ヤパだと主張する女を上から下までジロジロと見た。
間違いなく母親のエルパシャからヤパについて聞いたことはあった。
目の前の女のように赤いくせ毛にそばかすがある、素朴だけど情に厚い田舎の女将さんのような姿だったという話は聞いてきたが、目の前の女の姿は……。
「一体どんなことを経験したら、体がそんな風になるんだ?」
専門の槍使いでも見て泣いて逃げ出しそうな、筋骨隆々とした腕と肩の筋肉。
それに比べて他の部分は田舎の女将さんのふくよかでおおらかな、そのものズバリの体……。
アークが見たら槍使いとして連れて行くと言って、ありとあらゆる手段を使って口説き落としたであろう体格だった。
到底こんな田舎に引きこもっていそうな、そんな体じゃないんだけど?
違うか? むしろ田舎だから可能なのか?
「これくらいじゃないと、師匠から生地を均等に伸ばせないと言われまして」
「師匠?」
「はい。城を出る前、城の料理長が師匠を紹介してくださったんですよ。バクラヴァの職人だということで」
「バクラヴァ?」
聞き慣れない単語、それも食べ物に関する単語に耳がピクッと動いたルセテリが、不意に割り込んだ。
「ああ、はい。バクラヴァと言って、何層にも重ねた生地にピスタチャやナッツを入れたシロップを挟んで焼いたお菓子……なんですよ。エルパシャ様が好んで召し上がっていたので、私が学びたいとシェイク様に切にお願いしたところ……」
「あ、そうか。バクラヴァのレシピは外部流出禁止だったよな……」
ふと思い出したように、カイランは手で口を塞ぎながら呟いた。
「はい。代々プレシア王国だけが保有していた技術でしたから」
「ああ、そういうことか」
ヤパが親切に説明を付け加えると、それでようやくルセテリは理解できた。
古くから高度な技術の流出を防ぐため、特に南部の方では王室以外の者に技術を伝授することを極端に厳しくしているというが、このバクラヴァというのも流出禁止品目の一つだったようだ。
「エルパシャ様がとりわけお好きでしたから」
筋骨隆々とした筋肉に似合わず、ヤパはどこか切なげな瞳で虚空を見つめ、目元を潤ませた。
「自分を温かく迎えてくれた村の人々に恩返しがしたいと、エルパシャ様が直接シェイク様にお願いしてくださり、私が学ぶことができたのです」
ああ、そういうことだったのか。
ルセテリはついに何かに気づいたように、拳で手のひらをポンと打った。
極端に閉鎖的に見える南部で、王国所有の固有の技術をなぜこんな田舎の片隅で見つけられるのかと思っていた。
結局は愛ってわけか。
一言で言えば、恋は盲目となったシェイク・ミルザが、自分の愛する女のために王室の高度な技術を田舎の女将さんに伝授して送り出したということだが……どれほど愛していれば、あんな重要なものをためらいなく教えることができるというのか?
どいつもこいつも、その愛ってやつは……。
「はぁ……」
ルセテリの口からは自然とため息が漏れた。
「どうしたんですか、ル先生? どこか具合でも悪いんですか?」
草むらに身を潜めて状況を窺い、適当なタイミングを待っていたジアは、ついに姿を現し、葉っぱを一つ二つと払い落としながらルセテリのそばに近づいて尋ねた。
「いや、何でもない」
何でもないふりをしてしらばっくれたものの、ジアの穴が開くような視線に、ルセテリはギクッとするしかなかった。
「ほーんとーに、何でもないんですか?」
「お、おう。いやただ……プレシア公爵がカイランの母親をすごく愛していたみたいだからさ」
片方は愛のせいで国がひっくり返ろうがお構いなしに真っ直ぐ突き進み、もう片方は愛のために国の技術を外部へ横流しする始末……その愛ってやつが何なのか、どっちもどっちで情けなく感じられたなんてことを口に出して言えるわけがないじゃないか。
「……まあ、分かりました」
その間の沈黙は一体何なのよ?
突然草むらから飛び出してきたジアのせいで、一瞬にして村人たちの間に緊張感が走ったが、カイランが前に出て人々を落ち着かせた。
「連れです。俺と一緒に来ました」
「おお、カイラン様のお連れ様でしたか。ならば歓迎せねば」
顔は笑っていたが、あの老人め、少し前までかなりの重量がありそうな杖を握る手にガチガチに力が入っていたのを、ジアは見逃さなかった。
少しでも気に食わなければすぐに杖を振り回す勢いだったため、万が一に備えてジアはすぐに防御魔法を展開できるように緊張を解いていなかった。
幸い使うことは永遠になさそうだったが、万が一ということがあるじゃないか。
「俺たちをどうするつもりだ!」
わざと忘れていたわけではないが、捕縄で両腕を縛られた盗賊のボスが地面に膝をつき、この世で最も卑屈に声を限りに叫び立てた。
「どうするも何も、明日夜が明けたら警備隊へ行くんだ、どうするもないだろう? 当たり前のことを」
老人は、今更慈悲でも乞うつもりかと言わんばかりに盗賊のボスを見下ろし、やがて首を横に振って短く舌打ちをした。
「罪を犯したなら償わねばならん。違うかね? それに最初から言ったじゃないか。宝などここにはないと。欲に目が眩んで何が価値あるものなのかすら見極められなかったではないか、若いの」
「たかが、お菓子ごとき……」
「たかがお菓子だと……技術とはそう安っぽいものではない。黄金よりも価値があるもの、それが技術というものだ」
「それが俺を金持ちにしてくれるわけじゃねえだろ」
「チッ。こんなに視野が狭くては……残りは罪を償いながらよく考えてみることだな。世の中には物質的なものよりも価値のあるものが、お前さんが思っている以上に多いのだ」
老人の言葉は盗賊のボスの心に響いただろうか、それともおせっかいな説教だと片耳で聞いて片耳から流してしまっただろうか。
何か得体の知れない表情で顔が歪んでいく盗賊のボスを見ながら、ジアは老人の言葉を反芻してみた。
「この村にあるという宝って、もしかしてバクラヴァのことですか?」
何かをじっと考えていたジアが、突然何かに気づいたように両手をパンッと打ち合わせ、目を輝かせた。
「お爺さんの話まで聞いて分かった気がします。そうでしょ? この村にあるという宝、形のあるものではなくて技術だというお話……それはバクラヴァを作る技術が宝だということですよね?」
盗賊のボスは『何を突拍子もないことを』と言わんばかりにジアを見たが、老人とヤパはそんなジアを感心したようにニコッと笑ってみせた。
「ほお、カイラン様のお客人はよく分かっていらっしゃる。その通りです。我が村の最大の宝は、まさにこのヤパが持っているバクラヴァを作る技術なのです」
やっぱり!
自分が間違っていなかったことに、ジアは誇らしげだった。




