第93話 平和な拉致
「まだ赤ちゃんだな、こいつ」
バサッと、荷車に寝転がっていたルセテリが立ち上がった。
「ヒック、赤ちゃん……じゃないし、ヒグッ」
涙と鼻水を手の甲で拭いながら泣き始めたカイランは、誰が見ても10歳とは言い難いみっともない姿だった。
突然泣き出したことに呆れたのはジアとルセテリの方だった。
到底カイランがなぜ泣いているのか、見当もつかなかった。
からかうのはまだ始めてもいないのに……。
ルセテリはペチャクチャと舌なめずりをしながら、走る荷車の上でグーッと伸びをした。
首の骨がポキポキと鳴るあたり、どうやら大きくストレッチをしてやる時期が来たようだ。
「この辺りにどこか休めそうな場所はないかな?」
カイランが泣こうが泣くまいが気にする必要はないというように、ルセテリは無関心に辺りを見回した。
いくらなんでも泣いている理由くらい一度は聞くかと思いきやそれもなく、唐突に休む場所だなんて……。
ジアは急にカイランが可哀想に見えてきて、知らず知らずのうちにカイランの肩をトントンと叩いていた。
「何だよ?」
「ん? 別に」
「その手どけろよ」
「何をそんなに過敏になってるの? 大したことないでしょ」
ジアは急に気まずくなった手をカイランの肩からどけて、ブツブツと文句を言った。
「お前には大したことないように見えても、俺には違うんだよ」
「何が? 赤ちゃん扱いが? じゃあ10歳が大人なの?」
千歳は優に超えているであろうドラゴンのルセテリの前では、いくら年を取っていたとしても誰もが平等に赤ちゃん扱いされることには返す言葉もないだろうが。
さすがにカイランにルセテリがドラゴンだという事実を明かすわけにはいかず、ジアは唇をギュッと噛むことで代わりとした。
「おい、坊主」
荷台から御者席へと移り、カイランの手に握られていたベッチーのて綱を奪い取ったルセテリが、カイランを挑発した。
「大人扱いされたいなら、まずはヒゲでも生やしてきてから文句を言え。そうじゃないなら、ただ口を閉じて与えられたものをパクパクと受け取っていればいいんだよ」
「嫌です」
「嫌だと??」
嫌だと? ほう、このガキ?
ルセテリの眉がピクッと動いた。
反抗期全開のカイランの答えに、つい、て綱を握ったルセテリの手に力が入ってしまった。
ヒヒーン!
急にハミを引かれたせいで驚いたベッチーが前足を高く上げ、荷車が大きく上下に揺れた。
幸いジアやカイランは座っていたので少しよろめいた程度で済んだが、席を移ろうと荷車を跨いでいたルセテリは、て綱を離すこともできず宙にフワリと浮き上がってしまった。
驚いたジアが慌てて服の裾でも掴もうと手を伸ばしたが、すでに遥か前方を飛んで行った後だった。
「ルッ様!」
慌てたジアの口からは、ル先生の代わりにルセテリの名前が飛び出した。
そんなジアの心配をよそに、ルセテリは余裕でそのまま空中で二回転半した後、地面に着地。
着地時に曲げた膝を伸ばし、両手をパッと高く上げた。
3.0、3.0、2.9。
順番にジア、カイラン、そしてベッチーの得点板が上がった。
「これしきの事」
前に垂れ下がった髪をかき上げながら、ルセテリは自信満々にニヤリと笑ってみせた。
もう一度考えてみても完璧な着地だった。
たとえ最後のベッチーの得点板が少し、ほんの少しだけ気になったとしても、知ったことか。
「メシにしよう」
そろそろ飯時でもあるし、ちょうどいい具合に木もあるし、雲も流れてるし、天気は晴れだし、あっちの方では砂埃も上がってるし……ん? 砂埃??
見間違いではないかと、ルセテリは手で丸メガネを作ってもう一度確認してみたが、それは間違いなく砂埃だった。
それも、村に向かって走っていくラクダの群れに乗った、刀を持った男たちが巻き起こしている。
「襲撃だ!」
赤ん坊を抱えて家へ走る女から、走って転ぶ子供、持っている杖を振り回してならず者を追い払おうとする老人まで……村の中はまさに瞬く間に修羅場と化していた。
「ふむ、よし。昼飯にでもするか」
何事もなかったかのようにクルリと体を向けたルセテリの前に、呆れた表情を浮かべている三人の顔が見えた。
「何だ?」
「何だ、じゃないですよ……助け……ないんですか? あれ?」
ジアはあんな状況に出くわしても知らないふりをして真っ先にご飯を探すルセテリに呆れ果てた。
その証拠に、どんどん修羅場と化していく村を指差すジアの指先がブルブルと震えていた。
この状況でご飯の話が出ますか! このドラゴンめ!!
今や完全に敬称すら省略されていた。
「この状況でご飯のことが頭に浮かぶんですか!?」
「ああ」
あまりにも軽く頷くルセテリの姿に、ジアの手は自動的に首の後ろへと向かっていた。
「あそこに飛び込んで、俺に何の得があるって言うんだ?」
「それでも先生じゃないですか。困っている人を見たら助けなきゃとか……」
「今飛び込んだところで、ザコしかいないぞ?」
「……ザコ?」
見かねたカイランがもじもじしながら前に出てきたが、依然としてルセテリは動く気配がなかった。
むしろジアとカイランを引っ張って近くの茂みに身を隠し、辺りを窺うのに必死だった。
特に「ザコ」という単語がひときわジアの神経を逆撫でた。
もちろん、ご飯に対するルセテリの執念はリバーピルを離れて以来変わらない部分なのでとっくに諦めていたが、どこか少しおかしな感じだった。
[ルセテリ様、ちょっとおかしくないですか?]
ルセテリが導くまま大人しく茂みの間に身を縮めて隠れていたベッチーが、顔を少し上げてブルルッと鼻を鳴らした。
世界の大行者だと言ってルセテリを敬うことを厭わなかったベッチーでさえおかしいと言うほどなら、言うまでもない。
間違いなく、今のルセテリは怪しいのが正解だった。
[ルッ様、今何を待ってるの?]
巨大な草むらに隠れてカサッという音さえ立てずに目をギョロギョロと動かして辺りを窺っているルセテリの、長い銀青色の髪を引っ張った。
[グフッ! な、なんだよ。なんで髪引っ張るんだ?]
[なんでって、ルッ様がおかしいからよ]
[な、何がだ?]
お、焦ってる。
珍しく顔がクマート(トマト)のように赤くなったルセテリが慌てふためいてオロオロしている姿にも、ジアは表情一つ変えずに彼を真っ直ぐに見つめた。
[そうじゃなきゃ、なんで僕たちが隠れなきゃいけないんですか? ルッ様があの人たちに負けそうだから?]
[なんて馬鹿なことを!]
[じゃあ僕たちを追ってくる人でもいるんですか?]
もちろん、そんなはずはないだろうが。
ジアはルセテリの魔法を信じていた。
誰が見ても完全に別人である自分とルセテリを見破り、皇宮から二人を捕まえるために追跡隊がついてきたはずがなかった。
それに、世の中に恐れるものなどない世界の大行者であるドラゴンに勝てない存在がいるはずがない。
あ、たった一つあるとすれば、もう一人の世界の大行者である太陽のドラゴン・ソラレティ様くらい?
そんなルセテリが身を隠すのには必ず理由があるはずだというのが、ジアの結論だった。
「もしかして、あいつらのボスを探してるんですか?」
後ろでじっと状況を見守っていたカイランが、指を口に咥えたままモジモジと言った。
しばらくジアとルセテリが竜言で言い争いをしている間、周囲を冷静に見渡していたカイランはあることに気づいた。
そしてじっと二人の間に割って入る隙を待ち、ついに一言投げかけるチャンスが訪れるや否や、ポツリと口を挟んだのだ。
「ザコですよ、あいつら。別に後ろから来るボスを待ってるんでしょ?」
ルセテリの髪を引っ張っていたジアは、驚いてウサギのように目を見開き、カイランの方へ顔を向けた。
「ボス?」
「ああ。あいつらの後ろからついてくるもう一つの群れがいるな。あっちが本隊みたいに見えるけど?」
カイランの言葉が終わるや否や、遥か遠くから砂埃を巻き上げながら走ってくる群れがあった。
白い砂埃を被りながら走ってきた彼らは、ジアがよく読んでいた南部の砂漠のベドウィン族のような身なりだった。
日差しに焼けた浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、そして強い日差しから守るために布で頭をぐるぐる巻きにしたターバンを巻いた彼らが、月刀を振り回しながら村に向かって走ってきていた。
「直ちに止まれ!」
群れの中で馬に乗った非常に体格の良い男が、村を襲撃している群れの中へ飛び込み、月刀を振り回した。
男が飛び込むと、村を襲撃していた群れはパニックになり四方八方へ散り散りに逃げ出した。
やがて我に返った男の一人が素早く剣を構え、馬に乗った男へと飛びかかった。
「何だ、テメエ! 邪魔すんじゃねえ、失せろ」
「失せるのはテメエらの方だ!」
互いに刀をぶつけ合いながら唸り声を上げている二人の男を見守りながら、ルセテリは今日出発する時にナビルが包んでくれたお弁当箱を、ジアとカイランに一つずつ渡した。
二人の男がカキンカキンと火花を散らすほど深刻に剣を交えている最中にお弁当……。
カチャッ。丸い円筒形のお弁当箱の蓋を開けると、何段にも重ねられた箱の中には、それぞれ香りの良いミンティアチャツネと甘いマンギフェラチャツネが、下の方にはそれぞれナンと土窯で焼いた鶏肉の味付け焼きが入っていた。
蓋を開けるや否や漂うスパイシーなガラムマサラの香りは、周囲の状況とは全く不釣り合いに食欲を刺激していた。
呆れた状況ではあったが、その抗いがたいスパイシーな香りの誘惑には、ジアであっても耐えられなかった。
こぼれ落ちるよだれをそっと手で拭いながら、ジアは穴が開くほど喧嘩の見物に夢中になっている二人の男に囁いた。
「だから、どういう状況なんですかって」
もどかしい気持ちで急かすように尋ねたが、二人は黙々とナンに焼いた鶏肉を包み、チャツネにつけながら、ジアがもどかしかろうが何だろうが喧嘩の見物に浮かれていた。




