第87話 賭け
見かけによらず、意外と純情派な男じゃないか。
見た目はまさに、ハーレムに大勢の側室を囲っているようなツラをしておきながら、実際は一途な男だったなんて……どこかのロマンス小説の素材にぴったりだ。
「あの日、城では血の雨が降ったそうですよ」
なんだって?
「エルパシャ様があのように亡くなられた後、それまでエルパシャ様をいじめていた侍女や城の者たちが、根こそぎ切り捨てられたという話を聞きました」
男の言葉は、ルセテリの目の前に血塗られた半月刀を握りしめ、恐ろしい表情で剣を振るうシェイク・ミルザの姿を鮮明に描き出していた。
あのギョロギョロとした目を血走らせ、血を撒き散らすミルザの姿だなんて……想像しただけでも身の毛がよだった。
「でも、階級をなくしたというなら大問題じゃないか?」
「だろ? みんな知らないんじゃないか?」
「そうしたところで、すぐに何かが変わるわけでもないしな」
「まあ、それもそうか」
男たちの会話を聞いていたルセテリも頷き、彼らの考えに同意した。
人々の認識というものは、そう簡単に変わるものではない。
今すぐ法律として施行されたとしても、その法律が定着するまでには多くの時間が必要だった。
特に、社会的に根深く定着しているものなら尚更だ。
「じゃああの時、なんで……その、あれだよ」
男の一人がふと思い出したことがあるというように指を鳴らした。
「自分たちのことを市民軍連盟だと吹聴して回っていたあの連中だよ……あいつらが言っていたことが、全部本当だったってことじゃないか」
市民軍連盟?
「そういえば、市民軍連盟だと言って、もう身分制度は廃止され、神の前にすべての人間は平等だと言いふらしていた連中がいたような気もするな」
「誰もが鼻で笑って、そんなわけないって信じてなかったのに……」
そのすべてが事実だったとは……少なからぬ衝撃に、男たちの間にはしばらく何の言葉も行き交うことなく、ただ沈黙だけが押し寄せていた。
「どうしてダメなんだよ」
外へ出たカイランは慌ててジアの後を追い、華奢な手首をグッと掴んだが、ハッとして手を離してしまった。
女の子の手首は、カイランが想像していたよりもずっと細くて柔らかかった。
万が一力の加減を間違えて手首でも折ってしまわないかと、カイランは怖くなった。
「そんなんじゃ腕なんて折れないわよ」
カイランの心配を見透かしたかのように、ジアの声は無関心だった。
「それに、そういうのは自分で気づかなくちゃ」
再びクルッと体を翻したジアは、市場の商人たちの掛け声の中へと飛び込んでいった。
ルセテリがいつもジアにかけていた言葉だった。
わざと避けていたわけではないが、一人で皇帝が作ってくれた図書館で本を読んでいるジアに近づき、一つずつ問題を出していた。
時には単純な計算問題や歴史、あるいは帝王学で扱うような問題だった。
問題を出してからの最後の言葉は、いつも同じだった。
『そう。問題は俺が自分で気づかなければならないって言ったんだ』
そうやって放り投げられた問題を一人でウンウン唸りながら解いている間、ルセテリは本当に何一つ手伝ってくれなかった。
おやつを持ってきて山のように積み上げ、横に寝そべってダラダラと食べながら昼寝をすることはあっても、決して手を差し伸べて手伝ってくれたことは一度たりともなかった。
おかげで、故事から現代書まで、帝国で出版されたありとあらゆる本はすべて読み尽くすことができた。
それだけでなく、本の中の内容も、どこに何が書かれているのかまで完全に暗記している。
そのおかげでね。
ふわふわのスフレケーキにフォークを突き刺し、大きな口を開けてからかうように食べていたルセテリが、決して憎らしかったからではない。
あのくらいママが焼いてくれたパンケーキなんか……ちぇっ。
私だって思い切り食べたかったのに!
あの時のことを思い出しただけでも、ジアはフーフーと腹が立ってくるようだった。
「品物が安いよ、安いよ。たったの銅貨3枚!」
「お客さん、今日新しく入ってきた乾燥薬草を見ていきませんか? フロベンから今日到着したばかりのラベンデュラの花の香りが最高ですよ」
「貴重なバニリンが入荷しました。見るだけでも結構ですよ!」
市場はやはりガヤガヤと人で賑わっている活気がなければ市場らしくない。
同じ市場でも、庶民には手が出せないような値段の帝国の商店街とはかけ離れた活気がここにはあった。
「いらっしゃい、お嬢ちゃん。何かお探しかい?」
綺麗に乾燥されたカレンデュラの黄金色の花びらの色に惹かれるように入った店の女主人は、まだ子供であるジアを見ても明るい笑顔で出迎えてくれた。
リバーピルだったらルセテリとよく通っていた店でない限り、門前払いされるのがオチだったのに、ここテランカナは全く違う雰囲気だった。
年が幼いからと見下すのではなく、きちんとした客として扱ってくれていた。
「このカレンデュラの花びら……」
「お目が高いね。これは遥か遠くの西のイングラ地方から来たもので、最高級品だよ」
女主人は幼いジアにも親切に手招きし、自らカレンデュラの花を一つジアの手に握らせると、息つく暇もなくこの花の長所について説明を並べ立てた。
「この黄色い花びらには女神様の祝福がいっぱい詰まっているから、傷や皮膚の炎症に抜群の効果があるんだよ」
半分は薬が混ざっているようだったが、どんな商売でもそうであるように、誇大広告はどこにでもあるものだ。
女主人の商魂もなかなかのものだった。
「それじゃあ、ラベンデュラやメラルーカの葉の乾燥したものもありますか?」
「もちろん、全部あるよ。ラベンデュラはフロレンから、メラルーカはアバリスで採れる最上級品さ。テランカナで手に入る一番質の良い薬草は全部うちの店に集まってるからね」
その言葉通り、陳列棚に並べられている薬草はどれもキラキラと状態の良いものばかりだった。
「モリおばさんの店の品物は信頼できるぜ。高いのが玉に瑕だけどな」
「このくらいの品質の品物なら、これくらいの値段が妥当なんだよ」
いつの間にか後からついて入ってきたカイランが、女主人と知ったかぶりをした。
「とにかく、ここの品物は俺が保証する」
自分の店でもないところで、まるで自分の品物であるかのように威風堂々とした態度で見栄を張っている姿を見ると、もう諦めの境地に入ってもいい頃かと思う。
もちろん品物自体は、リバーピルの貧民街でルセテリと一緒に干していた薬草と比べても、はるかに上等なのは確かだ。
崩れやすいカレンデュラの花も明るく綺麗な黄色で形が保たれているものが多いのを見れば、店主の薬草に対する情熱とプライドが並々ならないことはすぐに分かる。
だけどそれはあくまで店主のことであって、カイランが威張ることじゃないでしょ?
ジアは情けない目でカイランを見つめた。
「それをなんであんたが保証するのよ?」
「そりゃあ、ここはテランカナだからな」
「だから? テランカナの市場とあんたに何の関係があるのよ」
「冷たいこと言うなよ! ここテランカナの市場は、俺カイランの厳しい審査を通過した人間だけが商売できる場所なんだぜ?」
あ、そうですか。
ジアは腕組みをして、どんよりとした目で再びカイランを見た。
その自信は一体……どこから来るの?
「確かに、カイラン様が保証してくれなきゃ、ここで商売して食べていくことはできないからね」
女主人はクスクスと笑いを堪えながら、堂々と胸を張ったカイランの背中を叩いた。
「え?」
「知らなかったのかい? テランカナの市場で商売するには、カイラン様が認めた証がなきゃいけないんだよ」
外に出た女主人が、壁の柱に貼られている看板のようなものを手の甲でポンポンと叩いた。
看板には、プレシア公国を象徴する月桂樹と半月刀が交差したシンボルの上に、飛翔する鷲の紋章のエンブレムが描かれていた。
「ここをよく見ると、半月刀が一つあるだろ? これがカイラン様の印さ。ちなみにシェイク様は半月刀が二つ重なってるんだよ」
「あ、そうなんですか?」
「ああ。これがあれば、俺が保証する店って意味だ」
だから、それをなんであんたが保証するのよ?
いやそもそも、保証って言葉の意味分かってるの?
ジアはそんなカイランが激しく疑わしかった。
「な、何だよ! その目は!」
顔を赤くしたカイランが言葉を詰まらせながら叫んだ。
「何って……あんた、保証って意味分かってる?」
「俺はバカじゃないぞ!」
「だからどういう意味なのよ」
「俺が認める店って意味だろ!」
「……よく分かってるじゃない? あ、もちろん完璧じゃないけどね」
「とにかく間違ってはないだろ」
「そうね、間違ってはいないわ。でも中途半端に知ってるより、ちゃんと知っておくべきじゃない?」
「え……何?」
やっぱりね。
ジアは深いため息をついた。
「あんたのエンブレムを入れた店、そうね……あんたが認めた店には全部このエンブレムが入った看板があるってことね?」
カイランが慌てて首を縦に振った。
よっぽどジアにバカ扱いされるのが嫌だったようだ。
「じゃあ、このエンブレム自体がどれほどの価値を持っているかは分かってるの?」
やっぱり、そう来たか。
カイランの首が横にコテンと傾いた。
あのバカな奴が、考えるということをしてこのエンブレムを店に出したわけではないだろう。
「ハハハ。それが分かってれば、そもそもカイラン様じゃないさ」
女主人はついに大爆笑し、目尻に浮かんだ涙を拭った。
「おチビの坊ちゃんがカイラン様に望むことが多すぎるんじゃないのかい? あの人はただ本能で動くお方だから、そんなこと分からないはずだよ?」
「はぁ、そうでしょうね」
片頭痛がしてきた。
指で額を押さえながら、ジアはカイランを一度キロッ! と睨みつけた。
その動物的な感覚だけは、ジアも認めざるを得なかった。
それに加えて真実を見抜く目。
その感覚だけはジアもカイランに敵わないだろうという事実を、あまりにもよく分かっていた。
だから、あまりにも惜し……いのではなく、嫉妬してしまった。
「お前! 私と賭けをしなさい」




