第83話 敗者は泣きながら逃げ出します
まるでカイランの首根っこを掴んで引っ張るように、シェイクが用意してくれた教室へと入ってきたジアは、持っていた荷物を放り投げるように適当に投げ出し、カイランを部屋の中に放り投げた。
ジアの力が強いのか、それともカイランが踏みこんだ反動のせいか、カイランはよろめきながら教室の中に足を踏み入れた。
「あ、なんだよ! 勉強しないとは言ってねえだろ」
カイランは納得いかないとばかりに大声を張り上げたが、他の人ならともかく、ジアにはそんな手は通用しなかった。
「逃げ出さないとは言わないんだ?」
「それは……!」
反論しようと口を開いたカイランは言葉に詰まった。
ジアの言う通り、逃げるチャンスを窺っていなかったとは言えなかったからだ。
「それは……? 何、なんでよ? やっぱり逃げようとしたんじゃない」
「いや、するって……。やるからさ」
「本当にやる気? じゃあ、これ」
「これ何だよ?」
ジアがカイランの目の前にひらひらと一枚の紙を突き出した。
紙にはびっしりと数字で何か書かれていた。
「かけ算の問題」
「は? 俺を何だと思って……」
カッとなって怒鳴ろうとしたカイランは、急に縮こまった。
「できる? 二桁と一桁のかけ算だけど」
「え?」
「100問。全部解けるよね?」
ゴクリ。
白紙のように顔が真っ青になったカイランの喉仏が大きく上下した。
チラッと見ただけでも、書かれている数字の数々にクラクラした。
ちらりと問題用紙を一度見渡したカイランは、ジアの顔色を窺った。
「逃げることなんて考えない方がいいよ。おケツから火を噴きたいわけじゃなければね」
「誰が逃げるかよ! こんくらいの100問、すぐに解けるし!」
ペンを握る手にぐっと力が入り、青筋が浮き出た。
目は爛々と燃え上がり、問題に向かって突進したが……それだけ。
最初の問題から難関にぶち当たった。
「『39×9』って……なんだ? どうやって解くんだよ?」
目の前がぐるぐると回った。
「解けそうにないなら、前もって手伝ってって頼みなよ?」
からかうようなジアの言葉に、カイランはカッと怒りがこみ上げてきた。
「できるって! 一人でやるから!」
ブツブツと文句を言いながら問題用紙に向かって頭を垂れるカイランを見て、ジアは心の中で舌打ちした。
プライドが飯を食わせてくれるわけでもないのに、無駄な頑固さだった。
「あの100問、10分以内に解かなきゃいけないって言ったら、泡吹いて気絶するかな? それともすぐ逃げ出しちゃおうとするかな?」
カイランを監視するジアの目はさらに鋭く見開かれた。
カイランは意外にも、ブツブツと口で不満を呟きながら机に座り、着々と問題を解き進めていた。
ジアはカイランの肩越しにこっそり解答を覗き見した。
所々間違っている問題はあったが、予想外にほとんどが正解だった。
ほんの少し前まで九九もまともに覚えられなかったとは信じがたいほどだった。
「坊っちゃん、問題は順調に解けたかな?」
ガチャンと教室の扉が開き、満面の笑みを浮かべたルセテリが入ってくると、その後ろにナビルとアークが続いた。
ナビルとアークは、逃げ出すこともなくおとなしく座って問題を解いているカイランの姿に衝撃を受けたようだった。
いつも授業の前といえば、追いかけっこをするのがカイランとの日常だっただけに、机に座って大人しく問題を解いているカイランの姿は非常に新鮮だった。
「おお、若君。教室に座って勉強している姿とは新鮮だな。もう若君を探してテランカナ市内を駆けずり回らなくてもいいのか?」
皮肉なのかそうでないのか、投げやりなアークの言葉にカイランの眉がピクッと動いた。
顔を歪めながらカイランは問題用紙から顔を上げ、アークを睨みつけた。
「明日は太陽が西から昇りそうですね。さすがル先生のお言葉通りです」
これはまたどういうこと?
今度はジアがワケが分からないという表情でルセテリをしみじみと見つめた。
痛いようなジアの視線にも、ルセテリはただ肩を一度すくめるだけで知らぬふりをして顔をそむけた。
[ルッ様。一体二人がどんな話をしたの?]
[大した話はしてないよ]
[大した話じゃないって言う割に、ナビル様とアーク様の反応があんななのなんで?]
[ただカイランが机に座ったのが感動的だったんじゃないの?]
[それ本当?]
ジアはルセテリの答えがどうにも信用できなかった。
明らかに何かを隠して話していないことがあるに違いのない顔つきだった。
なんだ? かなり不気味な不快感だった。
「何だよ。これ解いてろって言われたんじゃないのかよ?」
カイランは椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、ナビルの前に問題用紙を突きつけた。
「解いてろって言われたから解いてただけなのに、何か問題でもあんのかよ?」
「いつも授業の時間まで入ってこなくて、アークが連れ戻しに走り回った苦労がどれほどのものか。胸に手を当ててよく考えてみてください」
「そうです。おかげでテランカナの路地裏はすべて網羅しちゃいましたよ。ちなみに屋根伝いの道も含めてね。知りたくなくても知るハメになりましたよ」
ナビルとアークの合わせ技の攻撃に、カイランはなす術もなくその場に座り込み、ジアの顔色を窺った。
やっぱりジアは冷ややかな目でカイランを見つめ、小さく舌打ちしていた。
カイランは顔がカッカと熱くなった。
こう分かっていれば普段から適当にサボるんじゃなかったという遅すぎる後悔が押し寄せてきたが、時はすでに遅かった。
「おとなしくしてましょう……私から授業を受けたのが何回でしたっけ? 指折り数えるほどしかなさそうですけど……合ってますか?」
トクトクと事実で滅多打ちにするナビルに、カイランはうかつに言い返すこともできず、頭がどんどん下がっていくだけだった。
違うと一度くらい言い張ってみてもよさそうなものだが、根拠が乏しすぎた。
「当分の間はル先生が主にカイラン様をご指導してくださるでしょう」
「は? じゃあナビルは? 俺の先生はナビルだろ」
「私はいそがしいのです。シェイクが特別にお願いしてこられたので仕方なくカイラン様をお任せしましたが、いつもうちの若君が逃げ回ってばかりいるせいで、私の仕事にどれほど大きな支障が出ているかご存知ですか?」
チャンスとばかりにナビルはこれまで溜まりに溜まった不満を次々とぶちまけた。
アークもまた、ナビルの不満を横で聞きながら何度も激しく頷いて同調しており、崩れたイメージを挽回するのはすでに手遅れのようだった。
「やるよ! やるからさ!」
机をドーンと叩きながら、カイランは発狂するように大声を張り上げた。
よっぽど小言を聞くのが嫌なようだった。
「本当ですか?」
「ちぇっ、騙されてばかりだと思ってんのか? 勉強するって言ってんだろ?」
「ほお、本当に良心に毛でも生えたようですね。一つの口で二枚舌を使うとは」
「くっ!」
チャンスとばかりにナビルはここぞとばかりにカイランのプライドをチクチクと刺激し、さらに煽り立てた。
正直、ナビルとしては今でなければ溜まっていた鬱憤を晴らす機会がいつまた来るか分からないため、船が来ているうちに思い切り漕がなければならなかった。
ただ、副作用が一つあるとすれば、あまりにも楽しく煽りすぎたせいでカイランの目元が赤くなっていることに気づかなかった点だ。
「ひどいよ! 俺だって自分なりに努力してたのに!」
カイランは机に突っ伏し、肩まで震わせてすすり泣いているように見えた。
その様子を見守っていたアークは、こっそりナビルを止めようとするように近づき、ナビルの袖を引っ張った。
『やりすぎじゃないですか?』
『これまで私もやられたことがあるんですから……』
『その気持ちは分かるけど、それでまた逃げ出したりしたら?』
『まさか……』
二人はカイランには聞こえないほどの小さな声でヒソヒソと囁き合った。
『お二人さん、「まさかが人を殺す」ってことわざがあるのはご存知ですか?』
ルセテリがナビルとアークの間に割って入った。
静かに指さした方向を見ると、そこには傷ついたと言わんばかりに露骨に肩を大きく震わせているカイランがいた。
カイランらしくない行動に不審を抱いた二人は、カイランをじっくりと観察した。
ルセテリの指摘通り、足の向きが窓の方を向いており、今にも窓から飛び出して逃げ出しそうに落ち着きなくピクピクと震えていた。
「お前、何してんだ?」
「冷ややかに腕組みをしたジアがカイランに尋ねた。
「俺だって一生懸命やってるんだよ」
「一生懸命? 一生懸命やるっていうのは、誠実に授業に参加することも含まれるんじゃないの?」
ジアの皮肉はカイランのプライドに直撃弾を打ち込んだ。
もう我慢できなかったのか、顔をガバッと上げたカイランはフーフーと鼻息を荒くした。
「勉強は、道端でもできるんだよ!」
「誰が何だって? 外で学ぶことも大事だろうけど、本から学ぶことも大事でしょ? 頭の中に何か詰まってなきゃダメなのよ」
決定打だった。
これ以上我慢できなかったのか、カイランの目に涙がたっぷりと溜まった。
「お前、嫌い! みんな大嫌いだ!」
ガタンッ!
ガバッと立ち上がったカイランによって、机と椅子が倒された。
そして止める間もなく、カイランはひらりと窓に向かって飛び降り、足早に逃げ去った。
「俺たち、ちょっとやりすぎましたかね?」
「これまで溜まってきたものがあるんだから、これくらい……」
「追いかけなくていいんですか?」
「それでも今日は勉強するって言って問題を解いたじゃないですか」
ナビルはカイランが解いた問題用紙をひらひらと揺らした。
ざっと答え合わせをしてみても半分は間違っていそうな問題用紙に、教室内の四人の口からは自然とため息が漏れた。
[捕まえに行かなくていいの?]
[ゆっくりでいいさ。こうなると思って目印をつけておいたからね。あいつが逃げたところでドラゴンの足元さ]
[目印? どんな目印をつけたの?]
[俺のマナをしみ込ませておいたんだ。マナが流れていった道筋なら、お前なら見えるだろ]
ルセテリはカイランが飛び降りた窓を見つめながらニヤリと笑った。




