第82話 逃れられない
案の定、ナビルは食いついてきた。
「何なのだ? どんな手を使ってもカイラン様を机に向かわせることができなかったのに……どんな方法を使ったのですか?」
ルセテリは、ナビルのこんな姿がなぜか見覚えがあった。
皇城でもよく見かけた光景だったが……。
あ、そうだ……ジアに群がる皇室の家庭教師たちに、目を血眼にして群がっていた貴族夫人たちのそれとそっくりだった……。
ギラギラと燃え盛る熱気に、ルセテリはナビルから一歩後ろへ下がって制止した。
「大したことじゃないさ。ただカイランのプライドをチクチクと刺激して、競争心を煽っただけだ」
間違ったことは言っていないではないか。
そこに少しばかり、「好きな女の子によく見られたい男の子の心理」というスパイスを追加してパラパラと振りかけただけだ。効果は満点だったろ?
おかげで燃え盛っていたナビルの熱気は一歩引いて落ち着いた。
「本当にそれだけでカイラン様に勉強をさせることができたというのですか?」
「考えてみてください。これまで私が何か特別なことをさせたことがありましたか?」
ある程度落ち着いたナビルは、ルセテリの言葉にじっくりと記憶を呼び起こしてみた。
本当に彼の言う通り、特別なことをしているように見える場面はなかった。
一つあるとすれば、それは隣でプーに散々小言を言われて悔しがっているカイランの姿があったことだけだ。
だけど、本当にそんなことであのカイランに九九を完璧に覚えさせたって?
これまで数々の教育法でカイランを教え込もうと悪戦苦闘してきたナビルにとっては納得しがたい方法だったが、結果が物語っていた。
一番効果的な方法だったと……。
ナビルは少しばかり虚しい気分にすらなった。
大したことのない、こんな簡単な方法で、これまで数々とナビルの胃を痛めてきた問題を一発で解決してしまうとは……。
やはり専門家は違うというのか?
「なるほど……そんな方法で……」
「特別なことじゃなかったろ?」
誤解を解いたようで、ルセテリはそこでようやく胸を圧迫していた大岩を下ろしたような気分になった。
これですべての問題を解決したから、平穏な気持ちで教室に戻って給料泥棒を決め込もうと喜んだのは早計だった。
「素晴らしいです!」
おっと? これはおかしいぞ?
予想とは違う反応に戸惑ったのはルセテリの方だった。
ナビルと少し距離を置くために軽く言っただけだったのに、どうしてナビルの目がさらに鋭くギラついているように見えるのは気のせいだというのか?
だんだんとルセテリはナビルが怖くなり始めた。
「あのカイラン様を机に座らせて勉強させることができるなんて! それだけでも私がどれほど苦労したか、お分かりにならないでしょう!」
今やほとんど泣きそうになりながらルセテリの腕にしがみついているナビルだった。
「そ、そうですか……」
ルセテリの額から冷や汗が流れ落ちた。
どうやって引き離す?
いや、そもそも可能なのか?
「後ろで見守っているだけでもいいんです。どうやって授業をされているのか、見学だけでもさせてくださーい!」
「そこまでしなくてもいいだろ……」
「本気で諦めかけていたんです。カイラン様は他のことは全部いいんですけど、その勉強だけはどうにもできなくて、私がどれほど気を揉んだことか、くすん」
いい大人の男を泣かせるとは、これも才能といえば才能だ。
それも「冷血宰相」と言われるナビルをここまで追い詰めたというのなら、言わずもがなだ。
「あはは……そうでしたか……」
大問題だ。
これでは話を切り上げて逃げ出す隙がない。
いつでも逃げる準備をしていたルセテリとしては困り果てるしかたなかった。
この難局に、いい大人のナビルをなだめるのも何だし、かといって放って去るのも気が引けるし……どちらに転んでも身動きが取れずにいたところだった。
「ル先生! 朝の散歩は楽しめましたか?」
遠くからアークが手を振りながら近づいてきた。
商団に同行していた時は少なくとも胸当ての鎧くらいは着ていたアークだが、今は上着をすっかりはだけて、男が見てもヨダレが出そうな見事な腹筋を露わにしていた。
ゆったりとしたズボンの腰回りには南部特有の半月刀の鞘が差されており、どう見てもどう見てもプレシア公国の騎士団長の姿そのものだった。
ルセテリは一瞬、アークから後光が眩しく射しているような錯覚に陥った。
間違いなく、この状況から抜け出させるために女神が遣わした救世主なのではないかという錯覚を、ほんの一瞬抱いてみたりもした。
「お二人、ここで何をしておられたのですか?」
「カイラン様を勉強させた秘法を聞き出していたところでした」
「おっ! それ、俺も気になってたんだよ」
朝日のように眩しい笑顔がアークから放たれた。
「授業をしようとすると目にも留まらぬ速さで消え失せるから、探し回るのが俺の仕事だったんですからね。それを解決してくれただけでも奇跡ですよ」
カイラン、この野郎。
今までどんな人生を送ってきたんだ!
ルセテリはあらかじめ痛み出す頭を抱え込んだ。
「奇跡だなんて、私はただカイランの心理を少し刺激しただけです」
「それが大事なんじゃないですか。俺たちは何度やってもダメだったのに」
「その通りです。同年代の子供を連れてきて一緒に教えようともしてみましたが、毎日逃げ出すのがオチでしたから」
「下手したらカイラン様のあだ名が『脱獄囚カイラン』だったくらいなんですからね」
これはまた一体どんな怪しげなあだ名だ。
脱獄囚って……。
どこかの牢獄に閉じ込められていたわけでもあるまいし。
ふん。
「本当に大したことありません。ただプーが傍で『そんなことも知らないの?』と呆れていたのをちょっと活用しただけですからね」
大事なのは、その小言を言っている相手の正体が、カイランが惚れた女の子だという点なんだけどな。
ルセテリはその点を執拗につついて刺激しただけなのだ。
年齢は10歳のガキだったが、一応男だというのに恥ずかしかったのか、テランカナへ向かう道中ずっと必死になって九九を全部暗記していたのだった。
二人は今、それを見て感激のあまり涙ぐみそうになっていた。
本当に大したことじゃないのに。
「それがすごいって言ってるんです。俺たちもル先生と同じ手を使ったのに失敗したんですから」
「あの子供たちを引き連れて集団で繰り広げた脱走劇を思い出しますね」
「あの時、市街地に飛び出して四方八方に散らばっちまったから、捕まえるために一箇大隊の騎士団を投入したこともありましたっけね」
ナビルの懐かしい思い出話に、ルセテリはポカンと口を開けた。
カイラン一人を捕まえるため一箇大隊の騎士団を投入したほどだなんて、逃げ回った規模が半端なかった。
普通、そこまでして捕まえようと血眼になっていれば、すぐに捕まりそうなものだが、それを耐え抜いたカイランも只者ではなかった。
まあ、初対面からしてただのタダの奴ではなかったがな。
「一緒に勉強する相手が違っていたから効果がなかったのではないでしょうか。おそらくプーがいるからこそ可能な方法だと思います」
言い終えて、ルセテリはしまったと思った。
ナビルとアーク、二人の表情がまるでウ○コでも踏んだ人のように歪んだからだ。
「まあ、カイラン様の好みがそうだと言うなら仕方のないことではありますがね」
「これまでずっと、ただ異性交際に興味がないからなんだろうと思っていたのに、そうじゃなかったなんて……」
昨日のカイランの告白が、二人にとってはよほどショックだったようだ。
ルセテリはジアが女の子だという事実を知っていたから何とも思っていなかったが、ナビルとアークの立場からすれば、カイランが男の子に告白したのだと思ってあれこれとショックが大きかったらしい。
「そうやってでも勉強するきっかけを作ることができるなら、十分に耐え忍ばなければなりませんね」
「その通りです。まだどうなるか分からないわけですし」
希望にあふれる言葉とは裏腹に、明らかにアークの声には力がなかった。
だからといって、二人に対して「実のところプーは女の子なんですよ」と明かすつもりは1ミリもなかったが、二人が気の毒にすら思えた。
よりによってカイランがあの場でジアに告白してしまったせいで、多くの人々の心を悩ませている。
「そういうこともあるじゃないですか。その、友情。そういうの」
本来、愛しているという言葉の意味には様々なものがある法だ。
男女間の愛はもちろん含まれているが、それ以外にも父母と子どもの間の愛、友人間の友情、兄弟間の愛……まあ、そんな類のものだ。
考えれば考えるほど、ルセテリは分不相応にもジアを狙うカイランが憎らしかったが、今置かれている状況を把握できずにカッとなって怒鳴り散らすほどのバカではなかった。
「おそらくお二人が心配されているようなそんなんじゃないと思いますよ」
ルセテリの声には確信の力がこもっていた。
「そ、そうでしょうか?」
「そうなってくれれば言うことなしですがね」
ルセテリの言葉にも二人の反応は微温的だった。
まあ、それほどまでに確信に満ちた告白ではあったからな。
もちろん、普通の女の子ならそこでちょっと顔を赤らめてそっと頷いて終わりだっただろう。
問題は、ジアがそんな普通の女の子とは100万ゼロサムほどかけ離れているということだ。
おまけに今のルセテリは、皇城から手配書まで出されている身の上。
身を慎んでいても足りないというのに、わざわざ額に貼り付けて宣伝して回る必要なんてないだろ?
慎重に、さらに慎重に。
いくら慎重にしても足りない状況で、大っぴらにカイランに「プーは女の子だ」と明かすには危険要素があまりにも大きかった。
ここはただ、カイランには悪いけれど、口を固く閉ざしてやり過ごすしかなかった。
「とりあえず良い現象ではないですか。少なくともプーにだけは負けたくないっていうことなんですから。その点をうまく利用しただけですよ」
「あ、そういうことだったんですね!」
「そういえば、テランカナへ来る道中、九九を一つ間違えただけでもの凄く悔しがってましたっけね」
ルセテリの言葉に、二人はある程度納得したように見えた。
秘法でも聞き出そうと上体をグッと突き出していたナビルも、気まずそうに頭をかくアークも、やがて冷静さを取り戻したように落ち着いていた。
少なくとも外見上は、だが……。




