第81話 家庭教師になってほしいそうです
ルセテリの爆弾発言は、ジアをカッ血させる決定打となった。
カイランの顔が真っ赤に染まったのは言うまでもない。
「ル先生! 何言ってるんですか!」
「そのままの意味だよ。お前がこいつをしっかり教えてやれってことさ。どうせお前、こいつをそれなりに要領よくガイドしてやったんだし、その分の働きはしてもらわないとな」
「でも、なんで私がこいつを教えなきゃいけないんですか!」
ジアはフーフーと鼻息を荒くしながら、ルセテリに向かって「どういうことだ」と不満をぶつけた。
いや、だってそうだ。
頼んでもいないテランカナのガイド役は、ルセテリがやりたがったから許可したのであって、そこにほんの一片たりとも自分の意見が反映されたわけじゃない。
そもそも依頼を受けたのはルセテリであって自分ではない。
なのに、なんで自分がその仕事をしなければならないのか!
「じゃあ俺に基礎から教えろって言うのか?」
「ル先生が先生でしょ? 私はただの先生の補助です。それに……」
ジアはガバッとカイランの方へ顔を向け、鋭く睨みつけた。
「年齢は私の方が下なんですからね!」
「……あ、そうか」
ルセテリは大したことではないように答えながら、カイランの表情を窺った。
今、カイランの顔が赤くなったのは、自分より年下のジアに教わるということよりも、別の意味で照れているように見えるのだが……。
「あんた、プライドもないの? 私、あんたより2歳下なんだけど?」
「か、関係ない」
「ちょっと、あんただけ良ければいいわけ? 私は嫌なんだけど?」
腕組みをして、ジアはカイランをぷいと無視した。
明白な拒絶の表現だった。
おまけにカイランの頭に生えている(ように見える)犬の耳がショボーンと垂れ下がっているように見えたのは、ただの気のせいだ。
「そう言わずに、補習させてやると思ってお前が勉強を見てやればいいだろ」
「ル先生は何するんですか?」
ルセテリなんて……決まりきっている。
遊んで暮らす給料泥棒だ。
「基礎科目」
開いた口が塞がらないルセテリの答えに、ジアは言葉を失った。
なんだって? たかが、基礎科目? 基礎ォ?
「それってタダ飯食らいってことじゃないですか? 泥棒」
「泥棒とは……れとした労働だよ」
「何の労働ですか? 本を持って突っ立ってるだけで仕事したって言いはるんですか?」
いつの間にか腰にまで手を当て、上体がだんだんとルセテリへと詰め寄るように近づいていく。
ジアの気迫は、いくらルセテリであっても恐ろしいほどだった。
「じゃあどうしろってんだよ……あいつを連れて応用問題なんてできるわけないだろ?」
というルセテリの言葉に、ジアは言い返す言葉がなかった。
テランカナへ向かう道中、どれほどの苦労をしたかが思い出されたからだ。
父親の後を継いで商団を盛り上げるという奴が、九九の一つもまともに覚えられなくて旅の間中苦労させられたことを思えば、間違ったことは言っていない。
「それじゃあ一体、なんで私がこのバカの補習をさせなきゃならないんですか?」
「そりゃあ、その方が効率が良いからだろ」
「効率って? 何の効率ですか? なんでここでそれが急に出てくるんですか?」
「それはこいつに聞かないとな」
ルセテリはブラブラとカイランをジアの目の前に突き出した。
「い……一生懸命やります……?」
キョロキョロと目を泳がせながら、カイランはルセテリの顔色を窺い、それから再びジアの顔色をそっと窺った。
ふうむ、それでもやる気がないわけではないのか?
ルセテリにすねて顔をぷいと背けていたジアは、片目をそっと開き、ルセテリの気迫にブルブルと震えていたカイランを見た。
「さ、そうやって合意したんだから、今日は楽しく勉強に行ってみようか?」
何がそんなに楽しいのか、ニコニコ顔のルセテリはカイランの首根っこを掴んだまま、ずるずると城の方へ引きずっていった。
「あ、朝食は美味しく召し上がられましたか?」
三人が本丸の入り口に到着すると、ちょうど山のような本や書類を抱えて歩いてくるナビルとバッタリ鉢合わせした。
目の下のクマは以前よりも黒く濃くなっていたが、なぜか嬉しそうな顔をしていた。
「おかげさまで美味しくいただいてきましたよ」
「あんな風に見えても、テランカナの隅々まで熟知している者は他にいおませんからね。適任ですよ……ついでに」
「そうですね、ついでに。ふふふ」
「ふふふ」
二人の笑い声は、まるで陰謀を企む裏切り者たちのそれと似ていた。
ルセテ리와ナビルの口元から漏れ出している笑い声に不吉さを感じているのは、決してジアだけではないだろう。
「栄養をしっかり摂らせましたから、今度は頭を使わせる時間です」
「もうそんな時間ですか。私もこの仕事が終わったら向かおうと思います」
「最高の成果をお見せしましょう、ククク」
ゾクッ。
カイランは全身に鳥肌が立った。
いや、悪寒か?
とにかく、正体不明の恐怖のせいで体がガタガタと震えてきた。
「それでは、また後ほど」
「はい、お疲れ様です」
ちょうどルセテリが逃げ出そうとしたカイランの頭根っこを掴んで引っ張っていこうとした時だった。
「ル先生」
忙しそうに歩みを進めていたナビルが、ルセテリを引き止めた。
「ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
「うむ、まあ。少しなら……」
ルセテリはカイランの頭根っこをジアへと押し付けた。
[連れて先に勉強部屋に行ってろ]
[はぁ、分かりました]
しぶしぶといった様子でジアはため息をつき、カイランの肩をグッと掴んだ。
[行って掛け算でもさせてなさいよ]
[掛け算ですか?]
[九九の次は掛け算だろ]
[……逃げ出さなければいいんですけどね]
[おいおい、逃げはしないだろ。まあ、問題は次々と間違えまくることだろうけどさ]
こういう時、どういう反応をすればいいわけ?
逃げ出さないこと?
それとも、答案用紙が不正解の雨でビショビショになる予定だということ?
ジアの眉間が凄まじく歪んだ。
「それでは、お先に失礼します」
ルセテリほどの腕力はないので、ジアは一歩も動きたがらないカイランを引きずりながら勉強部屋へと向かった。
「それで、何がお知りになりたいのですか?」
カイランが遠ざかったのを確認したルセテリは、キラリと光る眼鏡の向こうにその下心を隠しているナビルの目をじっと凝視した。
「ル先生はどのようにお感じになられましたか?」
「何をですか?」
「カイラン若君のことです」
「私のような者が何を知っているというのです。ただ言われた通りにしているだけですよ」
「……そうですか?」
ちょっと待って、その会話の間の沈黙は何なんだ?
なんとなくプレシア公国の人間は勘が鋭すぎて気が気じゃない。
何でも見抜くカイランもそうだが、プレシアの人間はみんな似たり寄ったりなのかと思えるほど、ルセテリの肝を冷やさせることが時々あった。
だからといって、自分の正体が本当に暴かれるわけではないが。
「どうしようもないバカなら、私もここまでしがみついたりしませんよ。容赦なく後継者の座から引きずり下ろさなければならないと、懇願していたでしょうね」
やはりルセテリが初めて会った時から感じていた、恐ろしいほどに冷静で、極めてナビルらしい評価だった。
「それなのに諦めなかったということは……」
「ひとえに支配者として民を思う心。それ一つだけに、私は自分の全人生を賭けました」
そう言うナビルの顔には、悲壮感すら漂っていた。
「あ、はい……」
ここで他に何と言えばいいんだ、とりあえず相槌を打つしかない。
「それでですね……ル先生がご覧になったカイラン若君に対する評価はいかがなものかと」
「私にそんなことをお尋ねになられましても、私はただの一介の薬師にすぎません。それに今はベビーシッターなんかをやっている状況ですし」
「私の勘が告げているのです。普通の方ではないと」
あー、もう……なんだよこの国の人たちは!
ルセテリは背筋が凍りついた。
集団でソラレティ様の祝福でも受けたのか、一癖も二癖もある人間しかいないじゃないか!
「いやあ、私のような一般人が何を知っているというんですか、ハハ」
ルセテリの背中から冷や汗が流れ落ちていた。
いざとなったら全員殺……すのは無理でも気絶させてこの国を脱出するべきかと思った。
ナビルに気づかれないよう、あらかじめ呪文を唱えておくことも忘れなかった。
「プーのような英才を、どうやって育て上げられたのですか?」
あ、そっちだったのか……。
余計な緊張しちゃったな。
ナビルの裏をかこうとしていたルセテリは、こっそり唱えていた詠唱を静かに取り消した。
「英才だなんて……ただプーが勝手にすくすく育ってくれただけでして……」
間違ったことは言ってないだろ?
ジアが勝手に本を読んで勝手に育ったのであって、ルセテリが何かを仕込んだわけではない。
こういうのを何て言ったっけ……あ! 思い出した。
「労せずして益を得る(棚からボタ餅)」ってやつ?
とにかくそういうことだ。
ジアが育つ間、ルセテリが足したことといえば、ただ見守ること、それだけだった。
それなのにどんなノウハウを教えてくれと縋りつかれているのやら……。
困ったものだ。
「いいえ。絶対にノウハウがあるはずです。そうでなければ、あんな短期間で完璧に九九を覚えさせられるわけがありません」
え……それって……。
ただ単にカイランの野郎のプライドをチクチクと刺激した結果というだけなんだけど、それをノウハウと言うほどのことでもないのに……。
「もちろん、ただで教えてくれとは言いません。それなりの対価を支払えるよう、シェイクによく申し伝えておきます」
いや、いや、いや。
そこまでしなきゃいけないことなのかよ!
あまりにも真剣なナビルの態度にビビってしまったルセテリは、首を左右にブンブンと振って否定してみせた。
「あはは、何か誤解されているようですが……」
「隠さないでください。これは我がプレシア公国の未来がかかった重要な問題です」
違うと否定すればするほど、ナビルはますます執着を強め、まるで取り調べのように問い詰めてきた。
公国を背負うべき未来の後継者の頭の中が空っぽなら十分に心配にはなるだろうが、今のルセテリはただ通りすがりの平凡な薬師の先生にすぎないんだってば?
「方法が一つ、ないこともなかったんですが……」
ルセテリはそっとナビルの顔色を窺いながら、言葉を濁した。




