第80話 駆け引き
「何言ってんだよ?」
「お前、聞いてなかったのか?」
「何を?」
「今日からお前、俺と一緒にル先生のところで過ごすことになっただろ」
「え?」
「ナビル様から何も聞いてないのか?」
カイランはジアが何を言っているのかさっぱり分からないという表情になり、首を左右に傾げるばかりだった。
「当分の間、私たちがあなたの勉強を見てあげることになったってさ」
ジアの言葉を聞いたカイランの目が飛び出さんばかりに見開かれた。
ようやくジアの言葉の意味を理解したカイランは、か細い断末魔の叫び声を上げ、絶叫し始めた。
「嫌だ! 絶対嫌だ!」
自分の髪の毛を引っ掴んでまで全身で拒絶を表現するカイランを、ジアは腕組みをして冷ややかな目で眺めた。
「嫌ならどうするのよ」
「嫌なら選択肢は一つだ」
正直、まさかルセテリの前にして肝を冷やして逃げ出すとは思わなかった。
まばたき一つしない刹那のことだった。
一瞬にしてジアの前で暴れ回っていたカイランがかき消え、土埃だけが虚しく舞い散っていた。
「逃げ……たの?」
「逃げたな」
ジアは呆れ返った。
あんな短い間にジアとルセテリの目を盗んで逃げ出すとは、並大抵の運動神経ではなかった。
もちろん、最初から普通の奴ではなかったが、まさか二人で包囲しているのに逃げ出せるとは思っていなかったからだ。
「足だけは早いな」
「捕まえなくていいんですか?」
「早いと言ってもたかが知れてる。のんびりやっても遅くはないさ」
ルセテリはのろのろと方向を変えた路地へと足を踏み入れた。
「逃げたところで俺の掌の上だけどな」
とっくに逃げ出すことを見越して、ルセテリにはカイランに追跡魔法をかけておいた。
万が一逃げ出してもすぐに追撃できるように、逃げた経路がマナで作られた光で見えるようにしておいたのだ。
ハッキリとカイランの逃走経路が見えているのに、焦る必要など全くなかった。
まき্দたと安心して油断した瞬間を急襲すればそれだけで済む。
そう考えたルセテリは、余裕を持って朝の市場見物も兼ねて、ついでにカイランを捕縛するつもりだった。
確実にそうだったはずなのに……。
「この野郎! どこに隠れてるんだよ?!」
いかに足が早いのか、狭く複雑な市場の通りでカイランが残した痕跡を探し出すというのは、思っていたほど簡単な仕事ではなかった。
なかなか痕跡が見つからなくなると、ついにルセテリは激しく苛立ちを募らせた。
ライ麦を撒いたような……いや、
「捕まえてみろ、足の裏に火がつくってどういうことか教えてやるからな!」
口から炎こそ噴き出さなかったものの、ルセテリはほとんどブレスを吐き散らす勢いだった。
実際にルセテリの口から、炎とは言わないまでも煙が噴き出しているのが危険に見えた。
「ルッ様!」
「なんだ!」
「そんな風に探したって、何の役にも立たないでしょ?」
「じゃあどうしろってんだよ?」
「もう少しスマートな方法が良くないですか?」
怒り狂うルセテリをなだめるように、ジアは彼の背中をポンポンと叩いた。
テランカナを歩き回ってみて感じたことだが、カイランと市場の商 इंसानたちは非常に親しい間柄のようだった。
彼の気性をよく知っている商人たちは、ともすれば傲慢に見えかねない彼の態度にも気兼ねない様子を見せており、カイランがかなり人々を大切にしているのが目に見えるほどだった。
意外と言えば意外な姿だったが、口癖のように「上の者は下の者を守らなければならない」と言うカイランを考えれば当然のことかもしれない。
誰かさんのように口先だけで民を愛していると喚くのではなく、実際の行動を起こしているという意味なのだから。
それなら答えは一つだ。
こうしてサボってもしっかりと隠れていられる理由は、人々がカイランを見ても知らぬふりをして彼の盾になってくれているからだ。
彼らはそれがカイランを助けているつもりなのだろうが、おかげでカイランの頭の中はお花畑そのものになってしまったわけだが。
私のいる前でそんな小細工が通用するわけがない。
「おっちゃん、この胡椒いくら?」
ジアは近くの香辛料を売る店に行くと、胡椒がぎっしり詰まった麻袋を指差して尋ねた。
「一貫(※約3.7kg)に銀貨一枚だ」
「高くないですか? 見てよ。胡椒の色が薄いじゃない。匂いも弱いし」
胡椒に鼻を近づけて匂いを嗅ぐふりをしながら粗探しをすると、商人は驚いて手をブンブンと振った。
「高いだと! この貴重な胡椒を。これでも南部の最高の地域で栽培された胡椒だぞ? 銀貨一枚どころか三枚はもらえる代物だ」
「それはもう一度人の手を経ればそうな話で、おっちゃんは違うでしょ」
「違うとは何だ! なんだその言いがかりは」
「おっちゃんが銀貨一枚も取るから胡椒の値段が高くなるんでしょ。それだけの価値を持つ品物でもないのに」
実際には言いがかりをつけていると思われても仕方がなかった。
胡椒の状態が小粒なものがいくつか見受けられ、色も黒さが均一ではないとはいえ、一貫に銀貨一枚ならまあまあ妥当な値段と言えた。
こっそり他の香辛料の店と値段を比べてみた時も、だいたい似たようなものに見えたからだ。
「これくらいなら銀貨じゃなくて銅貨九枚で十分なんじゃありません?」
「そんな言いがかりをつけるなら他所へ行きな、まったく」
不服そうに商人は眉間のシワをこれでもかと寄せた。
彼の立場からすれば、朝から始まった厄介な客の一人に違いない。
「九枚だってば?」
「おい、この辺りはどこも似たような胡椒なのに、なんでよりによってウチのだけでそんなに騒ぐんだ? 買わないなら邪魔だからさっさと消えな」
商人はジアを追い払うように手をヒラヒラと振って文句を言った。
「ふむ、やっぱり質がちょっと落ちるのは確かだな」
どこからか不意にカイランが飛び出し、胡椒の状態を確かめるように一掴みして手のひらに乗せた。
「こいつの言う通り、銀貨一枚ってのはちょっとあれだし、銅貨九枚が妥当ではあるな」
ちょっとした悪質な客の真似事ではあったが、カイランとテランカナの商人の関係を見るに、どこかに隠れていようとも面倒なことが起きればひょっこり飛び出してくるのではないか?
まさに今のように。
哀れなことに、姿を現すや否やカイランはルセテリの手によって首根っこを掴まれ、ブラブラと揺らされた。
「それでも見る目の一つくらいは使い物になるってわけだ」
「これ放せ!」
「銅貨一枚程度のぼったくりは大したことないが……」
ルセテリの手を掴んで暴れるカイランを持ち上げた。
誰も止められない怪力を持つカイランといえども、ドラゴンの力を振り払うのは力不足だった。
ブラブラとぶら下がりながら、カイランはルセテリの目とバッチリ目が合った。
人間の姿にポリモーフしたとはいえ、ドラゴン特有の威圧感は瞳にそのまま残っていた。
「お前が素直に姿を現したのには、理由があるんだろ?」
「な……ない。そんなの……」
ないと言うには、視線がそっとジアの方へ流れているのを俺が知らないとでも?
言葉と行動が真っ向から反対を向いているじゃないか。
「ないわけないだろ……。でも、それならお前、俺に気に入られなきゃいけないのは分かってるよな?」
ルセテリはカイランの耳元で囁いた。
カイランの行動は明らかに、「お前のことが好きだ」と直接的に表現していた。
いくら空気が読めない人間でも、カイランの行動を見れば「あ、あいつはあの子が好きなんだな」と分かるほど単純に動いていた。
その点を利用して、ルセテリは大きく苦労することもなくあっさりとカイランを検挙することに成功した。
少しばかり、問題点というか……。
他の人たちの目にはジアが「プー」という名の男の子に見えているという点が問題だろうが。
「座って勉強するの嫌なんだよ……」
肩をすっかり落としたカイランは、珍しく声に力が抜けてじっとしていた。
よっぽどじっと座っているのが嫌なのか、唇が前にすっかり突き出していた。
「でもどうする? あいつは座って勉強するのが一番好きなんだぜ」
その一言だけで、ルセテリの手から逃れようとジタバタ暴れていたカイランが急におとなしくなった。
うなだれて大人しく両手を前に揃えている姿が、同年代に比べて大柄なカイランを、可哀想というよりむしろ痛々しく見せるほどだった。
「俺だって分か……るよ」
「そっかそっか。よく分かるよな、当然だ」
カイランを見つめるルセテリの目つきが意地悪だった。
明らかに別の悪だくみを企んでいる、そんな顔をしていた。
「お前、本当にあいつと親しくなりたいなら、今からでも一緒に勉強しなきゃいけないんだぞ。そうしなきゃ何て声かけていいかも分からないだろ」
「だ、誰が分からないって……でも勉強、難しいんだもん」
「そうそう、難しいよな。お前みたいに何も入ってない頭に、うちのプーと同じ勉強をしろと言ったら難しいだろ? な?」
ルセテリの脅しともつかぬ脅しのような言葉に、カイランは大人しく首を縦に振るだけだった。
違う、間違っていると一度くらい反抗してもよさそうなものなのに、なぜかおとなしかった。
「だから俺にいい方法が一つあるんだけどさ……」
ゴクリ。
カイランの喉から唾を飲み込む音が大きく聞こえてきた。
「そんなに難しい方法じゃないんだぜ? まず城に戻って、じっと机の前に座っていればいいだけだ」
「それが難しくないなら、何が難しいって言うんだよ……」
カイランにとって、じっと座っていれというのは拷問そのものだった。
いっそその代わりとして外に出て演武場を100周走る方がはるかにマシだった。
「ちなみに俺はお前を教えないからな」
「え?」
「俺じゃなくて、あいつがお前を教えるんだよ」
ルセテリの人差し指は、正確にジアを指し示していた。




