第77話 テランカナで朝食を
賑やかなテランカナの市場の入り口。ルセテリとジアの前では、朝っぱらから唇を尖らせたカイランが二人を待っていた。
昨日の宴が終わった後、確かにナビルが「テランカナの市場の隅々まで熟知している専門家を一人つけましょう」と言っていた。
まさかそれがカイランだとは……思ってもみなかったが。
「俺だって来たくなかったんだからな! 親父に命令されなきゃ」
そう文句を言うカイランの両耳の耳たぶは、真っ赤に熱を帯びていた。
「それで、お前はどんな風にガイドをしてくれるって言うんだ?」
カイランがどう言おうと、ルセテリは期待に胸を膨らませていたのに、ガイドがカイランだという事実に期待が一気にしぼんだのか、かなり機嫌を損ねていた。
「実は、ここの市場は俺の庭みたいなもんなんだ。俺が知らない場所なんて存在しないからな」
自信を持つのは良いことだが、それが度を過ぎると自意識過剰だ。
両手を腰に当てて堂々としているカイランを見て、ジアは密かに心配になった。
あんなに自信満々にしていても、またルセテテリに一発で奈落の底に落とされるのは一瞬だろうに、カイランの態度は以前と変わらなかった。
「あんた、商団について何ヶ月も離れてたじゃない。その間に新しい店ができてるかもしれないでしょ?」
「そんな場所が新しくできたとしても、みんな俺に教えてくれるから大丈夫だ」
威風堂々と、カイランは二人を市場の中へと案内し始めた。
気に入らなかったが、認めるべき部分は認めて進まなければならなかった。
市場でのカイランの人気は相当なものだった。
すれ違うすべての商人がカイランと挨拶を交わしたり、簡単な近況を尋ねて通り過ぎていき、市場の中の新しいニュースや噂を余すことなく教えてくれた。
自信を持つだけの十分な理由があった。
「おお、若君。いつ戻ったんだい?」
「この先の3番街の茶屋で、マメドさんのとこの次男が働くことになったんだとさ」
「パラパのところのドーサとチャツネが美味くなったらしいから、朝飯食いに行くんだったらそっちに行ってみな」
「今日はバタワ(ブドウ)の質が良いぞ」
「いただくよ」
チャリンと、銀色に輝く硬貨が宙を舞い、商人の手の中に落ちた。
バタワの代金として、カイランが商人に支払った硬貨だった。
バタワ一房の値段としては、かなり気前の良い金額だった。
意外だというように、ジアとルセテリが一斉に目を丸くしてカイランを見た。
「何だよ? なんで?」
「いや、意外だったから」
「俺が代金も払わずにタダ食いするチンピラにでも見えたか?」
心外だというようにカイランが二人に抗弁したが、ジアとルセテリにとってのカイランのイメージはまさにそれだった。
「いくらクズでも、さすがにそれはないんじゃないの?」
この子はまだ世間知らずなのかな?
皇城にいる貴族たちは、平気な顔をしてむやみやたらに奪っていくというのに。
「まあ、それなりに良心のあるチンピラだということにしておこう」
「そうですね。それなりに新鮮ですね」
「何言ってるんだよ? 当たり前だろ」
全く訳が分からないという表情で、カイランが首を左右に傾げた。
「もういいよ、坊や。お前が気にすることじゃない。お前は自分の将来のことだけ考えて、うまく立ち回ればいいんだ」
ルセテリがカイランの頭をポンポンと叩くふりをしながら、密かに感心したように撫でた。
もちろん、撫でていると思ったのはルセテリ一人の考えであり、カイランは態度が悪いと怒られていると勘違いしていた。
「くっ、分かった……ですよ。ちゃんとしろってことですよね」
急に言葉遣いがガラッと変わったところを見ると、そう思っているのは明らかだった。
「それはいいとして、朝飯だ」
「はい?」
「朝飯を食いに行こうぜ。さっき朝飯の美味いところがあるって言ってただろ」
そんな中でも抜かりなく、ルセテリは『ご飯』という単語をしっかりと拾い上げていた。
ドーサ? チャツネ?
ともかく初めて聞く単語だったが、なぜだか心が惹かれるというか、聞くだけでも口の中に涎を溜めさせる魔法の単語のようだった。
「パラパの店……ですか? あっちに行ってみ……ましょうか?」
タメ口になりそうになる度に、カイランはチラチラとルセテリの顔色をうかがい、すぐに言葉を長く繋げて上手いこと危機を回避した。
よくやるものだ。
「ドーサとチャツネって何?」
好奇心に勝てなかったジアが先に質問を投げかけた。
名前を聞いただけでは全く想像もつかない食べ物だった。
「リッジャっていう穀物を挽いて生地にして、薄く焼いたものだよ。その間にカレーで味付けしたマッシュポテトを入れて、チャツネっていうソースにつけて食べるんだ」
「ジャガイモだと?」
ジャガイモという言葉に、ルセテリの顔が途端に歪んだ。
数日前までうんざりするほど食べたジャガイモをまた食べなければならないのかというように、不満に満ちた顔でルセテリはカイランを睨みつけた。
気迫に押されたカイランは首をすくめて答えた。
「他にもいろいろあり……ます。サムサとか……」
「サムサ?」
「セモリナ粉の生地の中に、ひき肉をマサラで味付けした具を入れて揚げたもの……です」
まだ敬語を使うのに慣れていないのか、それともルセテリの殺気に反応したのか、カイランの動作はなかなか自然には見えなかった。
「肉? ひき肉だと?」
それでも念願の肉という言葉にすぐに気を良くしたのか、すっかり和らいだルセテリの顔に冷や汗を流しながら様子をうかがっていたカイランは、ジアの耳元で囁いた。
「お前んちの先生、肉食派なのか?」
「お前んちって、もうあんたの先生でもあるんでしょ?」
「とにかく、なんで肉にあんなに目がないんだよ?」
いくらなんでも目がない(狂ってる)だなんて……。
世界の大行者であるドラゴンに対して失礼な言葉じゃない?
もちろんジアも、ルセテリの執着に近い肉への執念が度を越しているという事実には同意するところだった。
だからといって、ルセテリの心情が理解できないわけでもなかった。
「あんたも2週間ジャガイモばっかり食べてみなよ。どうなるか……」
ルセテリだけがジャガイモを食べていたわけではない。
ジアもやはり、うんざりするほどジャガイモはたらふく食べた。
「何?」
「うちら、あんたの商団に会うまでずっとジャガイモばっかり食べてたの。うんざりするのも当然じゃない?」
2週間ジャガイモばかり食べていたという言葉は、カイランにとってショックだったようだ。
目をパチパチさせながら、全く理解できないという表情のカイランに向かって、ジアはチッチッと舌打ちをしてやった。
「ほんとにまだ何も知らない世間知らずの子供じゃない」
「……違うし。子供じゃないし」
「こういうことにムキになるところからして子供でしょ。あんた、今まで飢えたことすらないんでしょ?」
「違う! 俺だってご飯抜かれたことあるぞ!」
「いつ?」
「あの……授業サボって遊びに行って、親父にバレて……?」
それ、飢えたんじゃなくてただ罰を受けただけじゃないの。
情けない表情で、ジアが腕組みをしながらカイランを見つめた。
「それを飢えたって言えるわけ?」
「う、飢えたもん!」
「飢える前まではお腹いっぱい食べてたんでしょ」
核心を突いてくる言葉に、カイランは返す言葉を失った。
間違いなく、罰を受ける前まで市場で思い切り買い食いをしてから帰ったからだ。
だからといって、「あ、そう?」と引き下がるカイランでもなかったが。
「それなら? だからって飢えなかったわけじゃないだろ」
「それはただ食事を抜いただけ。飢えたって言えるわけないでしょ?」
「そ、それは……」
言い返そうとして、かえってこっぴどくやられるばかりのカイランだった。
モゴモゴと言い訳を探してどうしていいか分からないカイランの腕を、ジアがガシッと引っ張った。
「うるさいから早くご飯食べに行くわよ」
「え? うん……」
カイランのくせに腕を一度掴まれただけで、顔を真っ赤にしていた。
ただジアは、空腹のルセテリがどれほど面倒なことになるかよく分かっていたため、ルセテリのイライラが爆発する前に口の中に何かを入れるために急ごうとした行動なのだが。
真っ赤になった顔を隠すために、カイランは急いでジアとルセテリの前を大股で歩き出した。
「こ、こっちに行けばいい……いや、いいです。パラパの店は、ここを右の路地に曲がって入ればいい……んですよ」
わざと早歩きで、カイランは人混みを掻き分けて進んだ。
恥ずかしさで死にそうになりながらしどろもどろになるカイランを見失うまいと追いかけるジアは、ルセテリに向かってブツブツと文句を言った。
路地を抜け、比較的人通りが少ない寂れた場所に入ると、そこには広い鉄板の上に水っぽい生地を薄く広げて何かを焼いて売っている露店が現れた。
「久しぶりだな、パラパ」
「おお、若君。久しぶり。なんだ、もう帰ってきたのか?」
「ハシムが、チャツネが美味くなったって言ってたぜ?」
「そうなんだ。秘伝のレシピを一つ変えたんだけど、それが大ヒットでさ」
パラパという男はニヤリと笑ってみせると、カイランに焼き立ての生地を半分に折りたたみ、いくつか小皿が乗ったお皿を差し出した。
公王の後継者だからといって特別に縮こまることもなく、露店主の態度は気兼ねなく自然だった。
「味見してみてくれ」
「いただくよ。それから、ここのお客さんの分も頼む」
「お客さん?」
カイランが指で後ろを指す素振りをすると、ようやく露店主の視線がカイランの後ろに立っていたジアとルセテリに向けられた。
突然の注目にジアとルセテリはぎこちなく微笑みながら、露店主に向かって手を振ってみせた。
「おおっと、カ……いや、お客様。いらっしゃいませ!」
今この店主、うちらのことカモ(※ネギを背負ったカモ、カモネギ=いいカモ)のお客様って呼ぼうとしなかった?
素早くジアがカイランを睨みつけたが、いつの間にかカイランはジアの手の届かない距離へと逃げてしまっていた。
あとで覚えてなさい。
ジアはギリギリと歯を食いしばった。




