第76話 チャイティー
「ハハハ。ナビル様がいらっしゃるではありませんか? ナビル様も十分に良い先生であるようですが」
わざわざ? 俺に? なぜ?
まともなナビルがいるというのに、なぜ俺にカイランの教育を任せると言うのか?
恨めしさを込めてルセテリはナビルの方へ顔を向けたが、ナビルの眼鏡のレンズがキラリと光るだけだった。
「もちろんナビルも立派だ。学問的にはな」
ということは、学問以外のことはからっきしだということか?
「いや、我がバカ息子があまりにも変わり者で、普通では手に負えんのだ」
ああ、そういうことだったのか。
ルセテリはようやく少し理解し始めた。
一言で言えば、放蕩息子を人間らしくしてくれということではないか。
「騎士団長がいるではありませんか。私は先を急いでおりまして……」
「騎士団長は騎士団のことに気を配らねばならんからな」
今度はアークがルセテリから顔を背けるのが目に入った。
どうやらあの二人がグルになっているようだな?
[大変なことになったね? 断れそう?]
[できるわけないだろ? 公王の前で、平民が? あり得ないね]
いくら頭をひねっても、断る適当な名分が思いつかない。
フォンテンの森へ薬材を採りに行かなければならないという言い訳を取り繕うのにも限界があった。
間違いなく、後でゆっくり行けばいいだろうという言葉が返ってくるはずだからだ。
「今すぐ答えを出せとは言わん。ただ、一人の子供の父親として慎重に考え、決断を下すのは遅くはないぞ」
ミルザの言葉を翻訳してみるなら、考えるのもクソもなく、自分の提案を受諾しろという無言の圧力ではないか。
「南部が誇るチャイでも飲みながら、ゆっくり考えてみてくれ」
演奏が終わり宴会場を出ていた踊り子たちが、お盆を手にして再び現れると、それぞれの下に小さなカップに入った飲み物をそっと置いた。
強烈なシナモンとアニス、そしてジンジャーの香りが漂う、不透明な茶色の液体だった。
「チャイですか?」
「南部ではお茶を煮出して飲む方法の一つだ」
強烈な香辛料の香りに惹きつけられるように、ルセテリはチャイの入った茶碗に手を伸ばし、カップを持ち上げた。
暑い南部だから冷たい飲み物を主に飲むだろうという予想に反して、チャイは湯気がモクモクと立ち昇るほど熱かった。
口に運ぶ前、鼻先をかすめる様々な香辛料の香りが先に食欲をそそった。
間違いなくジンジャーの香りにシナモンとアニス、カルダモンが合わさっていた。
香りだけでは何が入っているのか分からず、一口チャイを口に含むや否や、ピリッとしたジンジャーの香りが真っ先に口の中を満たし、各種香辛料が次々と体全体に広がり始めた。
レッドペッパーとブラックペッパー、ナツメグ、クローブ、フェンネル、リコリスの香りがミルクのまろやかさと共に、濃く煮出された紅茶が体を温かく包み込み、息をするのも苦しいほどたくさんの食べ物が詰め込まれた胃を優しく包み込み、消化を促しているようだった。
すっかりリラックスして温まった体の状態に、つい、ルセテリの強張っていた表情が和らいだ。
「暑い気候の中で冷たい食べ物ばかり求めていると、胃腸を壊すことが多いと聞きました。このお茶、ほとんど薬のレベルですね」
「さすが薬師だ、よく分かっているな」
称賛は公王をも微笑ませる。
南部の文化に対する称賛を並べ立てると、ミルザの表情に変化はほとんどなかったが、機嫌が良いのか口角がピクピクと動いているのを捉えることができた。
ルセテリはこの勢いを利用してみることにした。
「我々が探している薬草が、フォンテンの森で今でなければ手に入りにくい薬草なものでして……どうしても……」
「それなら来年でも構わんな」
言葉を最後まで言い終えることもできず、ルセテリの攻撃はミルザのナイフのような反撃の前に虚しく崩れ去った。
「いや、いつまた手に入るか分からない薬草でして……」
「なら、どうしても今でなければ手に入らない薬草というわけではないんだな」
「何の薬草なのか我々に教えてさえいただければ、調査隊を派遣して調べさせましょう。無駄足を運ばせるよりずっといいでしょう」
ミルザの隣にいたナビルがミルザの言葉を後押しし、反論できない条件を提示した。
調査隊の派遣までしてくれるだなんて……これは最初からルセテリとジアをテランカナに引き留めて放すつもりがないという魂胆だった。
無駄に薬草という言い訳をしてしまったという後悔が押し寄せてきた。
いっそ毒草だから直接行って採取しなければならないと言い張れば、逃げ道でもあっただろうに。
後悔したところで、すでに後の祭りだった。
「すぐに精鋭部隊を編成して派遣しましょう」
アークまでもが、ルセテリが逃げ出すかとすっかりがんじがらめに縛り上げるつもりのように見えた。
逃げ道を隙間なく徹底的に塞ぐ必要までないのに、この三人、完全に結託しているようだった。
「息子が外を遊び回るばかりで、頭に詰め込むことを少し疎かにしたせいか、石頭でな。他のことは大きく望まない。後継者になりたいと駄々をこねるのは構わんが、少なくとも頭だけは少しは詰め込まなければならんだろう」
ミルザのため息混じりの苦悩を聞くジアとルセテリは、思わず頷きたくなるような内容だった。
商団の責任を負うという奴が、九九一つまともに覚えられないでどうするというのか。
幸いにも、ジアとルセテリが行動を共にしている間にプライドがひどく傷ついたのか、歯を食いしばったのか、今では九九はある程度言えるようになっていた。
たまに間違った答えを出すこともあったが、初めて会った時に比べれば長足の進歩だった。
「俺、石頭じゃないからな!」
遅ればせながら、ミルザの石頭発言にカイランがどういうわけかムキになって食ってかかった。
あれ、公王のこと怖がってなかったっけ?
驚いたウサギのような目でジアがカイランを見ると、カイランもやはり慌てて両手で口を塞ぎながら戸惑っていた。
「そうだな、俺の息子なのだから石頭とまではいかないだろう。なんとか無理やりにでも詰め込めば、少なくともバカだと言われることはないはずなのに、お前はその努力すらしようとしないではないか」
ミルザの声には厳しさが宿っていた。
反論したくても根拠が乏しいことをよく分かっているカイランは、ただ大人しく膝をついて頭を下げるしかなかった。
「違います。俺、今回は九九も全部覚えたぞ!」
石頭という言葉がよほど傷ついたのか、蚊の鳴くような小さな声だったがカイランは抗弁した。
「そうか……九九。お前は今年でいくつになった?」
「10歳です……」
「10歳。10歳になって、ようやく九九を理解したというわけだな?」
ミルザの指摘に、カイランの顔は瞬く間に真っ赤に熱を帯びた。
カイラン本人も、これまで九九を覚えられなかったということが恥ずかしいことだというのをよく分かっていたようだった。
言葉の終わりに行くにつれて聞き取れないほど小さくなり、もしネズミの穴が目についたならそのままそこへ直行しそうなほど小さく縮こまっていた。
「ただ、いくつか混乱しただけだ」
「10歳でその程度なら、お前がどれほど『努力』というものをしてこなかったか、お前が一番よく分かっているだろう」
「はい……」
反論不可能だった。
カイランは唇をギリギリと噛み締めながら、指をモジモジと動かした。
「これまでナビルとアークが毎回お前を捕まえては勉強させていた時よりも、今回の商行であの薬師一行と共に行動しながらした勉強の方が効果が大きかったと聞いている。違うか?」
「その通り……です」
ふむ、そういえば……。
ミルザの言葉を聞いていたルセテリがじっくりと考えてみると、確かに効率は良かった。
よっぽど負けず嫌いだったのか、ジアがやろうとすることはついて回りながら何でも真似しようとしていたからだ。
あまりにもしつこく追い回すので、旅の終わりにはジアがカッとなって怒り、追い出したほどだった。
もう一つ蛇足を付け加えるなら、カイランが自らジアに倣って本を読み始めると、ナビルがひどく感激して涙を流すことまであったというのは、公然の秘密だった。
少しはミルザの苦悩を理解できるような気がした。
「では、公王陛下は家庭教師をお願いしているのではなく、私にシッター(子守り)をお願いしていらっしゃるということですか?」
「うむ、そういうことになるのか?」
「それもありますが、我々はカイラン様にまともな知識を教えてくれる人も必要としているのです。まさに、ル先生がその適任者なのです」
アークのおべっかたっぷりの発言にも一向に動こうとしないルセテリを見たナビルは、ルセテリの弱点を攻略してみることにした。
「では、こんな条件はいかがですか?」
「こんな条件?」
「テランカナに滞在していらっしゃる間、すべての食費は責任を持ちましょう」
ヒラヒラ。
ルセテリの薄い耳がヒラヒラと揺れ始めた。
かなりそそられる提案ではあったが、ルセテリが丸め込まれるにはまだ弱かった。
これくらいで丸め込まれるルセテリではなかった。
たかが食費だなんて……。
ドラゴンであるルセテリにとって、テランカナに滞在する間の食費などおやつ程度のレベルだった。
ナビルがまだルセテリのまともな食事シーンを見ていないからこそ言える言葉だった。
ジアははっきりと覚えていた。
ブリトルで露店を荒らし回り、ありとあらゆる食べ物を片っ端から食べ尽くして回ったルセテリの姿を。
食費という言葉に関心は示してもビクともしないルセテリに、ナビルは焦った。
「グルメツアー」
「ん?」
「グルメツアーはいかがですか? このテランカナには、帝国では絶対に味わえない珍しい食材がたくさん集まる場所です。それだけ様々な食堂も繁盛しているのですよ」
今回の提案はかなりルセテリの食指を動かしているのか、平静を装っていても口角がピクピクと動いているのをナビルは見逃さなかった。
「現地の人間でなければ、絶対に見つけるのは簡単ではないはずです」
ナビルは最後の一発を大きく狙うように念を押した。
「テランカナにあるすべての美味しい店を?」
「保証します。すべて回り切るまで責任を持ちましょう」
「よし。契約成立だ」
さすが食いしん坊のドラゴンというべきか、グルメツアーなんぞにあっさりと丸め込まれてしまったルセテリに、ジアは片頭痛がしてズキズキと痛み始めた。




