第74話 告白は時期尚早
ドスン!!
バサッ!
何か重いものが落ちる音がして、ジアとカイランは音のした方へと顔を向けた。
そこには、持っていた本を床に落とした衝撃を受けた顔のナビルと、手で額を押さえてうなだれているアーク、そして後ろには表情は見えなかったが瞳が大きく揺れている、白いターバンを巻いた中年の、カイランにとてもよく似た男性が一人立っていた。
「今、何だって?」
突然ジアとカイランの後ろから、ルセテリも不意に現れた。
なんだか顔がすごく怖いのに、満面の笑みを浮かべているのが……ゾッとするんだけど。
「あ、す……」
「す? はっきり言えよ。聞こえないだろ」
「す……ん、んんっ」
カイランが『好き』という言葉を言おうとするたびに、ピタッと唇がくっついてしまうせいで、何かを言おうとする端から赤ん坊の喃語のようにしか聞こえなかった。
自分の状態が理解できないカイランは一生懸命口を開こうとしたが、一度くっついてしまった唇は簡単には離れなかった。
そのおかげで、まともに衝撃を受けていた三人組はすぐに正気を取り戻すことができた。
「ハハハ。カ、カイラン様。と、友達ができて嬉しかったようですね……」
とは言ったものの、戸惑った気配が簡単に消え去ることはないらしく、ナビルが言葉をどもらせた。
あ、それとさっきから後ろで望夫石(※待ちわびて石になった伝説の石)のように固まっていたカイランの父親と思われる公王が、固まっている姿が見えた。
「は、ハハ」
意味のない空笑いまで漏れ出しているところを見ると、魂が家出する寸前らしかった。
それもそのはず、後継者である一人息子が男を好きだと告白する場面を両目で直視している最中に、正気を保てという方が無理な話だ。
『おい、商団の後継者。お前、身の振り方をちゃんと考えろよ?』
間違いなく何も聞こえないはずの耳元に、殺伐とした声が届いた。
ゾワゾワと肌に粟立つ鳥肌はおまけだった。
『お前が見えるからといって、それをそのまま口に出していいって意味じゃないんだぞ? 分かってるな?』
ルセテリの殺気は、隣にいたジアにも伝わってくるほど殺伐としたものだった。
表には見えなかったが、ジアの目にはカイランが滝のように冷や汗を流しているのがとてもよく見えた。
『分かったら、頷け』
深刻な生命の危機を感じたカイランは、小さく首を縦に振った。
今は誤解されることよりも、命を助けることが先決だった。
しかしカイランは、なぜだか理不尽な思いだった。
俺、女の子だから好きだって言ったのに……男の子じゃないのに……。
カイランが心の中で叫ぶ声が聞こえてくるような錯覚に陥った。
「そ、そうなのか……。お前と同じ年頃の友達ができて嬉しいと言った、そういう意味だったのか……」
ハァ、やれやれ。
カイランの父親らしく見える公王が、指を上げてブルブルと震えながら自分を指差しているのをジアは見た。
公王の立場から見れば、自分はただの男の子に見えるだろうから、まさか、まさか、そう信じたいのだろう。
いや、その通りなんだけど。
ああ、もう知らない!
ジアはそれ以上考えるのをやめた。
無駄に深く考えたら最後、後戻りできない川を渡ってしまいそうな気分なのは、ただの気・の・せ・いに決まっている。
「こ、こちらはプレシア公国の首長であらせられるシェイク・ミルザ・ナセル・ビン・プレシア公王閣下でいらっしゃいます」
ナビルはまだ落ち着かないのか、声を震わせていた。
遅ればせながら正気を取り戻し、後ろに立っていた公王をルセテリとジアに紹介したが、そう簡単には衝撃が冷めやらない様子だった。
「薬師のルと申します。こちらは私が面倒を見ている弟子のプーです」
礼儀なら寝ていてもガバッと起きて問い詰めるように振る舞っていたルセテリが、シェイク・ミルザの前では頭を真っ直ぐに上げ、ジアの肩に手を乗せて斜に構えていた。
驚いたジアがルセテリを見上げたが、むしろルセテリは意に介さないようにリラックスしたような表情だった。
「そんなに堅苦しくしなくてもいいですよ。ハハ。ここはアルメニア帝国とは違いますから」
ジアの顔が強張っているのを見たのか、アークがハハハと笑いながら近づいてきた。
「違うんですか? 同じ帝国ですよね?」
「おや、ご存知なかったようですね。南部は比較的自由な気質が強く、格式を重んじるのを嫌うのです。適度に基本だけ守ればいいのですよ」
「本当にそれで大丈夫なんですか?」
「ええ、あのカイラン若君を見ればお分かりになるでしょう?」
なぜか、それだけで一発で納得できるんだけど?
やけにカイランに対する商団の人々の態度が気安いと思っていたが、それはカイランが変わっているからではなく、ただ南部特有の文化のようなものだったらしい。
理解したジアは頷いた。
「ほう、物分かりがいいな」
いつの間にかジアの目の前にシェイク・ミルザが近づいてきて、顎に手を当てながらジアの顔をまじまじと見つめていた。
その負担な視線に、もしかしてカイランのように真実を見通す目でも持っているのではないかと心配そうな目でチラリとルセテリを横目で見やったが、ルセテリはこちらに関心がないように別の場所をじっと見つめていた。
[ルッ様、何してるの?]
[不思議でな]
[何が?]
[あいつの親父だっていうからあいつと同じかと思ったが、それはまた違うみたいで不思議でな]
何が不思議だというのかジアには到底理解できなかったが、ルセテリの縦に長い瞳孔が細くなっているところを見ると、かなり興味深いおもちゃを前にした様子だった。
「あ、父上。ただいま戻りました」
「うむ。コホン」
それにしてもこの二人、親子関係がやけにあっさりしすぎていないか。
南部は意思表示が積極的だとさっきアークが説明していたような気がするが。
ジアがミルザの視線を避け、こっそりアークに説明を求める切実な眼差しを送ったが、アークはそっと顔を背け、わざと知らないふりをしてとぼけた。
「まあ、あの二人も普通の親子関係だということです」
代わりに、ため息混じりのナビルの答えが聞こえてきた。
「我がバカ息子が今回の商行でライバルができたというから出てきてみたが……」
そう言い終えたミルザは、近くでジアを隅々まで細かく観察し始めた。
男の子にしては線が細く、アークの言葉のように腕力があるようには見えなかったが、生まれた時から並外れた武功を披露してきたカイランを屈服させたという言葉が信じられなかった。
カイランを倒したというから、ある程度体格の良いやつだろうと思っていた予想が完全に見当外れだった。
こんな細い手首で剣を持ち、魔獣まで退治したとは……簡単には信じがたかった。
「お前が魔獣から我が商団を守ってくれたと聞いた」
「偶然通りかかった道で出くわしただけです」
「そうか、その偶然が魔獣を退治し、我が息子も叩きのめしたと」
他の人たちは気づかなかったようだが、どういうわけかシェイク・ミルザの声に少し棘があるように感じられた。
ジアは理不尽だった。
カイランを叩きのめしたのは自分ではなくルセテリだったのに……。
「うちの師匠との手合わせでのことです」
大人しく両手を前に揃え、ジアはシェイクの前で礼儀正しい子供のように頭を下げた。
「お前の師匠が勝ったというなら、それも並の腕ではないということだな。我が息子ながら、ドラゴンの守護でも受けたのか、体を使うことにかけては誰にも引けを取らず、懲らしめてやりたいと思ったことなど数百回にのぼるからな」
腰を屈めてジアを観察していたミルザは、腰を伸ばして立ち上がり、アークに手招きした。
「こう見えても我が騎士団長だが、毎回叩きのめすたびに手を焼いているのだ」
口角の片方がそっと上がっているところを見ると、間違いなく息子自慢のように見えるが、話を聞いてみるとまた密かにそうでもないようで、ジアはよく分からなかった。
ジアの首が左右にコテンコテンと動いた。
「我が息子の趣味は別として、何事においてもライバルがいるというのは良いことだ」
ミルザの言葉の端から感じられる何とも言えない不安感に、ルセテリはデジャブを感じていた。
「ハハハ。そうでしたか。用事も適当に終わったようですので、我々はここらでそろそろ……」
「ハハハ、ル先生。このまま帰られては寂しいですよ」
一矢報いて逃げようとした瞬間に、勘の鋭いナビルがルセテリを捕まえた。
「まだ私たちが手間賃もお渡ししていないのに、帰られるおつもりですか?」
「いや、南部まで下ってきたのは初めてなので、外へ出て少し見物でもしたいと思いましてね、ハハハ」
「それなら私たちがご案内いたしますので、食事でもしていかれませんか?」
「いやいや、我々は外で見物しながら食べますので」
「それなら私が一番人気の食堂へご案内いたしましょうか?」
なかなか隙のないナビルの会話の中で、どうにかしてルセテリは抜け出すために冷や汗を流さなければならなかった。
どうもますます、深い泥沼にハマっていくようなそんな感覚的な感覚なのだが……。
「それならいっそ、宮殿で食べる方がマシじゃないか? 南部一の料理人が宮殿にいるのだから」
「そうですね。自分の料理を食べずに外で食べるなんて言ったら、包丁を持って厨房から飛び出してくるんじゃありませんか?」
「クククク、そうだな。だから、お客さんたち。どうだ? 俺の宮殿で食事をしていくのは?」
ミルザの陰険な目が半分に細くなるのを見て、ルセテリはすでに逃げるのは絶望的だと直感できた。
「……そ、それはあまりにも失礼になるのではないかと」
「失礼とは。俺の城に入ったのだから当然俺の客だろう。客へのもてなしが疎かになってはいかんからな」
うん、抜き差しならない状況でルセテリとジアはミルザとその一行に包囲され、大人しく本宮の方へと足を踏み出さなければならなかった。
この最中、カイランは気まずさに耐えきれずに逃げ出そうとしたが、アークに首根っこを掴まれ、ぶら下がりながら引きずられてきていた。
ハァ、さっき市場の露店でグツグツと煮えたぎるシロップに生地みたいなのを入れて煮ていた美味しそうなものが見えたのに……。
顔色をうかがうに、こっそり抜け出すのも無理そうだった。
くそっ。




