第70話 テランカナ
カイランの言葉は、ジアを深い悩みに陥れた。
これまでそれが当然の道であり、皇女である自分がすべきことだとばかり思っていたことだったが、蓋を開けてみれば考えている重み自体が違った。
カイランとは違う、自分の方がずっと真剣だと、そう信じていたのに、カイランのその一言は、彼が自身の未来についてどれほど真剣に考えているかを物語っていた。
[チッ、なんだかムカつく]
頬をプクッと膨らませたジアが唇を尖らせた。
[なんで? お前があの足りない奴より劣って見えたからか?]
[そうじゃないわよ。私はただ当然のこととして……皇女なんだから帝国の為に生きるべきだって、それしか考えてなかったの]
[だから? それがどうしたんだ?]
[悔しいの]
ルセテリがよく見てみると、ジアの目尻に小さく涙が滲んでいるところを見ると、どうやら相当悔しかったようだ。
[たかだか7歳の子供が何をしようって出しゃばってるのか、俺の目にはそっちの方が不思議に映るがな]
[カイランだってまだ10歳じゃない]
[あれはただ、あいつが特異なだけだ]
チラリと、ルセテリは目を輝かせながら自慢げに片足を荷馬車に乗せているカイランを見つめながら、竜言を続けた。
[まだ何も決まっていないのが当然なんだ]
厳格な奴が出しゃばったせいで、大切に育てられたジアはすっかり自信を失ってしまった。
見つめたついでに少し、ほんの少しだけドラゴンのフィアーを、わざとじゃないふりをして流し込んでやった。
気づかないほどの極微量だったが、突然理由も分からない寒気を感じたカイランが両腕を抱え込んだ。
キョロキョロと目を動かして辺りを見回し、バッチリとルセテリと目が合うや否や、自分に向けて冷ややかな笑みを浮かべているのが見えた。
ゾクッ。
間違いなく太陽は中天に昇っており、気候が寒いわけではないだろうに……。
そっと顔色をうかがっていたカイランは口をギュッと結び、大人しく両足を揃えて再び元の場所にこそこそと座り直した。
本能が告げていたのだ。
ここでうっかり口を滑らせたら、骸骨の器に水を注がれることになるぞ、と。
突然大人しくなったカイランの態度に、ナビルがチラリとルセテリを見てから、分かるような分からないような薄い笑みを浮かべてみせた。
「私が最も手出ししにくい部分を教えてくださるのですね」
「ただ俺自身が楽をする為ですよ、はは」
しらばっくれて後頭部を掻きながら笑っているルセテリを見て、ジアはすぐに呆れた顔になり、横を向いてしまった。
いくら少し懲らしめるといっても、ドラゴンのフィアーまで流し込むのは反則でしょ。
[私、ゾッとしました。私の背に乗っていらっしゃらなければ、逃げ出したかったです]
ベッシーはほとんど泣きそうになっていた。
無実の子までどうして捕まえようとするのか……ジアはベッシーの首筋をポンポンと撫でてやった。
「大丈夫、大丈夫」
ベッシーの首筋には、冷や汗がびっしょりと流れ落ちていた。
もしかしたら自分が馬肉にされてしまうのではないかと緊張したためだった。
人間の間ではユニコーンの肉が不老不死の妙薬として噂になっているというが、もしかしてそんなことを企んでいるのではないかと不安だったのだ。
「ハァ、いや俺が何をしたってあそこまで……」
ルセテリは苦笑いを浮かべ、理不尽な思いで二人を見つめた。
自由貿易都市、テランカナ。
その名と名声の通り、都市に入る入り口からして賑わっていた。
人の往来が激しい分、検問もそれだけ徹底的に行われていたが、ルセテリとジアはプレシア商団の保証があったおかげか、特に難癖をつけられることもなく無事に通過することができた。
ただ城門を一つ通り過ぎただけなのに、生涯皇宮の外に出たことがなかったジアにとっては、物語の本の中でしか見たことのない異国の風景が広がっていた。
男たちは日焼けした銅色の肌に逞しい体格を持った者が多く、頭には布をぐるぐると巻いていた。
ナビルの説明によれば、強烈な太陽から頭を保護する為の手段として発展した結果だという。
そして例外なく彼らの腰には、大きく湾曲した剣が刺さっていた。
皇城でしか見たことのない、まっすぐに伸びた剣の形とは異なるそれが、何よりもジアの視線を釘付けにしていた。
「我々はシャイフと呼ぶ剣ですが、環境によって武器の形態も変わるものですからね」
不思議そうに剣から目を離せずにいるジアの為に、ナビルが親切に説明してくれた。
「剣があんなに曲がっていたら、使うの難しくないですか?」
「我々はむしろ、まっすぐに伸びた剣や大剣を使う方が難しいです。使う姿勢や技術そのものが違いますからね」
「そうさ。だからあれは、俺の実力が全部発揮されたわけじゃ……」
自慢したくてうずうずしているように、カイランがナビルとジアの会話の間に不意に割り込んできたが、冷ややかなルセテリの眼差しにビビってキャンと鳴き、再び隅っこへ大人しく引っ込んだ。
「南部はどうしても暑くて湿気の多い気候も多く、ジャングルもあるため、まっすぐに伸びた長剣よりは曲線状に湾曲した形態の方が使いやすいので、あのような形態に発展することになったのでしょう」
「ああ、地質学的特性による形態の進化ですね」
「ほう、ウィルソンの生態学的進化論をお読みになったのですか?」
「はい。ル先生が推薦してくださって、読んだことがあります」
「素晴らしいですね! なかなかの大人でも理解するのが難しい本だというのに……」
ナビルの眼鏡がもう一度スッと押し上げられた。
彼の視線は、感嘆を込めてルセテリを見つめていた。
ルセテリはそのような眼差しが負担なのか、ナビルから顔を背けたが、こっそり上がっていく口角までは隠せなかったのか、ジアにバッチリ見つかってしまった。
[あれ、私が勝手に読んだだけじゃない]
そうだった。
ルセテリが推薦してくれた本などなかった。
最初からジアは、ジョゼフ皇帝がジアの為に用意してくれた図書館にあった本を自分で見つけて読んだだけだった。
もちろん、その図書館にはジョゼフ皇帝がジアの為に良いというものを根こそぎ集めておいただけのことだが、ルセテリが関与したことなど一つもなかった。
むしろルセテリは、外へ遊びに行こうと言って本ばかり読んでいるジアを邪魔するのに必死だった。
[称賛はドラゴンをも躍らせるって言うだろ]
ルセテリは思い切りふんぞり返って得意になっていた。
ジアは、それがどうしてルセテリへの称賛になるのかと問い詰めたかったが、ため息をついて見逃すことにした。
問い詰めたところで疲れるのは自分だけだという事実を、これまでの様々な事件を通じてよく分かっていた為、ジアは口を閉ざした。
口論で時間を潰すには、活気に満ちた市場を見物するだけでも惜しかった。
「あれは何ですか?」
奇妙な形をした黄色い胴体にトゲがツンツンと生えている実を持って客引きをしている商人を、ジアは指を指して尋ねた。
「ああ、アナナという果物です」
「果物ですか? あんなに尖ったトゲがたくさんあるのに、食べられるんですか?」
「あのトゲが刺さった皮を剥くと黄色い果肉が出てくるのですが、果汁も豊富で甘いので、かなり高級な果物の部類に入りますよ」
「あの緑色のデコボコしたのは何ですか?」
「パルタという実ですが、収穫した後に火を通すと、中が柔らかくてバターのような風味の味がするんです」
不思議な市場の風景に夢中になって質問を投げかけている間に、荷物を積んだ商団の荷馬車たちが、テランカナの中心にある大きな丸い屋根が印象的な城門の前に到着した。
「それでは、我々はこの辺りで失礼いたします。これまで大変お世話になりました」
一矢報いる隙を与えられなかったせいで、城門の前に到着してからようやくルセテリは口を挟むことができた。
息つく暇もなくテランカナについて説明していたナビルのおかげで、すっかり商団と離れるタイミングを逃してしまったのだ。
「なんと、せっかくプレシア城まで来られたのですから、次の行き先へ向かわれるまでお城に滞在していかれてはいかがですか」
急いで立ち去ろうとするルセテリとジアに、アカンが近づいてきて提案した。
「我が商団がお二人に大きな恩を受けましたので、その恩を返す機会をください。おそらくシェイク様も同じことをおっしゃるはずです」
いや、それが嫌だから逃げようとしていたのに……。
逃げ道を事前に隙間なく遮断してしまうアカンとナビルだった。
[どうやら逃げられそうにないだろ?]
[それが嫌なら、さっき城門を通過してすぐに別れるべきだったじゃないですか]
[お前が市場の見物に夢中になって、タイミングを逃したんだろ]
そこまで言われると、ジアは返す言葉がなくなった。
確かに異国的な風景に魂を奪われ、あれこれと尋ねているうちに、いつの間にか城の入り口まで来てしまったからだ。
別れようと心に決めていたのなら、最初から城門を抜け出した途端に別れるべきだった。
[……分かりました。私が悪かったです]
唇を尖らせながら、竜言でジアはルセテリに謝罪した。
[まあ、あれこれ不思議なものが多いから、その気持ちが理解できないわけじゃないがな]
実はルセテリも、聞いていないふりをして顔に出さなかっただけで、ナビルの説明に誰よりも耳を傾けていた。
そのせいで抜け出すタイミングを逃したというのもあるが、ジアには秘密だ。
「商団を助けてくれた代金は受け取らないとな」
カイランが荷馬車からピョンと飛び降りると、ベッシーの手綱を掴んだ。
行列からこっそりと抜け出そうとしているのを察知したのか、そのせいでルセテリとジアはそのまま城門を通り過ぎ、中庭へと入るしかなかった。
「よく来たな、プレシア公爵の城へ」
カイランはジアを見つめながら、ニヤリと意味深な笑みを浮かべてみせた。
思いがけず拉致のような拉致をされてしまったジアは、呆れてカイランを睨みつけたが、すでに事は起きてしまった。
引き返すには、遠くまで来すぎていた。
「あんた、狙ってたでしょ?」
ジアの甲高い声にも、カイランはニヤニヤするだけだった。
「当然だろ?」
「狂ってるわ」




