第67話 チリパウダー
そのほんの少しの粉がなんだというのか、ほんの一瞬舌先に触れただけなのに、口の中では絶えず火災警報が鳴り響いていた。
ブレスを吐いたわけでもないのに、火が出るほど辛かった。
千年の竜生で初めて、火傷をするというのがどんな感覚なのかを知ることができた。
「ハハ。初めてチリを召し上がった方は皆、同じ反応でしたよ」
アカンがルセテリに水の入ったコップを渡した。
コップを受け取ったルセテリは、一抹の躊躇いもなくゴクゴクとあっという間に飲み干した。
それでも口の中は火傷をしたようにまだ熱かった。
「もっと水が必要ですか?」
いや、そんなこと聞くまでもなく、ただもっとくれ……。
ルセテリは無言で涙ぐみながらコクリと頷き、そっと空のコップをアカンの前に置いた。
大人しくギーバターと塩が振りかけられたメイズをモグモグと食べていたジアは、そっとそのコップに水を注いであげた。
ルセテリの状態を見るに、自分はあのチリパウダーが振りかけられたメイズには手を出すまいと心に誓ったところだった。
「でも、この辛味に一度中毒になってしまうと、これなしでは生きていけません。それこそ、すべての味はチリパウダーの以前と以後に分かれると言われるほど、これは革命なんですよ」
正直革命とまでは分からないが、確かなのは『辛い』というのは味覚ではなく痛覚だという点だった。
これを美味しいと言って食べるなんて、差別するわけではないが南部の人々の味覚に相当な疑念を抱いた。
「初めてだからそう感じるんですよ。この辛味が脂っこさも抑えてくれて、どんなに美味しくない食べ物でも刺激的で美味しくしてくれる魔法の粉なんですから。一度味を占めたら、かえってやめるのが難しくなりますよ?」
アカンの説明はどういうわけか、ルセテリの耳には薬師に薬を売りつける商人の戯言にしか聞こえなかった。
二杯目の水の入ったコップを喉の奥に流し込んで、ようやくある程度痛覚が引いたようだった。
それでもまだ舌先がジンジンしており、完全に痛みが消え去ったわけではないようだった。
「こんなものを美味しいと言って食べるんですか?」
「たかがそれくらいで大袈裟な……。あちらをご覧ください」
アカンが指差した先には、黄色かったメイズがチリパウダーで真っ赤に覆われるほど振りかけられたものを、人々がガツガツと食べている姿が目に入った。
表情はどれも辛さの苦痛に歪んでいるのではなく、額に滝のような汗を流しながらもガツガツと食べる姿が、まるで戦闘を繰り広げている人たちのように熾烈だった。
山のように積まれていたチリパウダーが振りかけられたメイズの器が、あっという間に空っぽになっていった。
商団の人々だけでなく、村の人々もやはり他のものよりもチリパウダーが振りかけられたメイズに手が伸びていた。
なんだ、この苦痛を苦痛として楽しんでいるかのような姿は……?
新種の麻薬でも入っているのか?
もしかしてと思い、ルセテリは穴が開くほどチリパウダーを観察してみたが、ただの特別なことのない赤い植物の粉だった。
もちろん辛くてくしゃみを誘発しはするが。
「やっぱり食べ物は辛くないと美味しくないですよね!」
村人の一人が口の周りに赤い粉をたっぷりつけながら、親指を『グッ』と立てた。
さらに村の子供たちまでもが、真っ赤なメイズを口の周りにつけながら食べるのに夢中になっていた。
いや、みんな拷問官の末裔か何かなのか?
ルセテリは明日の朝の彼らの腸の健康がひどく心配になった。
「慣れれば大丈夫ですよ、慣れれば」
アークがルセテリの背中をバンバン叩きながら大声で笑う声が、ただの冗談だとしか思えなかった。
自分は絶対にこのチリパウダーというものに慣れることはないと、そう確信していた。
ズルッ。
ズルズルッ。
「何してるんですか? ル先生?」
「あ、いや。食べないのかなと思って……」
どういうわけか、ルセテリの手がジアの分として残されていたチリパウダーが振りかけられたメイズの方へ向かっていた。
もちろん、少し前のルセテリの状態を見てチリパウダーのメイズには指一本触れていない状態だったが、だからといって他人のものを欲しがる理由にはならない。
「ル先生が召し上がっていたものは?」
ルセテリの目がチラリと自分の分の皿の上へ向かった。
そこには、とても綺麗に食べ尽くされたメイズの芯だけがポツンと残っていた。
わずか数分前まで、辛いと大騒ぎしていたあのルセテリで合っているのかと疑いたくなった。
「コホン、いや、慣れてきたら大丈夫みたいでな」
空咳をしながらルセテリの視線がもう一度スッとジアの皿の上に置かれたメイズに向かったが、そうはいかない。
ジアは皿を自分の方へ引き寄せた。
好奇心が湧いたのだ。
「だからといって、これはいけませんね」
「ハハハ。先生もチリの味にすっかりハマり始めたようですね」
空の鍋を持ったアカンが近づいてきて、ルセテリの前に置かれた空の皿を見て豪快に笑った。
まるでそうなるだろうと予想していたかのように、彼の笑いはこの上なく爽快だった。
「本当にその通りですね。最初に口にした時はヒリヒリと痛いだけだったのに、時間が経ってみると恋しくなるものですな」
「フフ、それこそがチリというやつの魅力なんですよ」
二人の会話に耳を傾けながら、ジアは目の前に置かれたメイズを一粒むしり取り、誰かに見られる前に素早く口の中へポイッと放り込んだ。
粒がプチッと弾け、甘い汁がチリのスパイシーさと合わさって、独特な魅力に唾液が込み上げた。
「この村のメイズも美味いけど、そのチリこそがうちの商団がこの村に投資する理由なんだ」
カイランが腰に手を当て、誇らしげに堂々とした姿でジアに近づいてきた。
まるで自分の手柄であるかのように自慢する姿がひどく目障りだったが、ジアは軽くカイランを無視して、辛いメイズを少しずつかじり食べていた。
「これからはこのチリがうちの商団の主要商品になるんだからな。俺たちが独占で販売するんだ」
どうだ? すごいだろう? という眼差しのカイランに、ジアは目もくれなかった。
関心を引くのに失敗したカイランの肩が少し下がったかのように見えたが、再び肩をそびやかし、何事もなかったかのように自慢を続けた。
「ここの気候がチリの農業をするのに最適なんだよ。だからうちの商団で積極的に後援することに決めたんだ。俺の眼力、すごいだろ?」
自画自賛に、ジアは呆れ返ったようにカイランをじっと見つめた。
なんて傍若無人な奴がいるんだという目で、カイランを上から下までジロジロと見た。
「それがどうしてカイラン様の手柄になるの? 全部プレシア商団の人たちとアカンのおかげでしょ」
「同じことだろ。この商会は俺たちプレシア家のものなんだから。親父が言ってたぞ。才能のある部下を持つのも能力だってな」
「それなら、シェイク様がおっしゃった、高い地位に就くほど稲穂のように自然と頭を垂れなければならないというお言葉も覚えていらっしゃいますよね」
カイランの厚かましさに呆れたナビルがカイランの後ろに近づいてきて、一言釘を刺した。
「俺くらいなら謙虚な方だろ!」
いや、どこからどう見ても! という声が、ジアの口から反射的に飛び出しそうになった。
「謙虚さは全部ピクニックにでも出かけたみたいね」
聞こえないほど小さな呟きだったが、カイランの目に火花が散った。
「なんだと?」
「そうじゃない。それか、謙虚っていう言葉の意味を間違って覚えてるか」
ジアの核心を突く指摘は正しかった。
横で状況を見守っているナビルが頷き、ジアの言葉に同意していた。
「それとも、俺が直接『謙虚』というものが何か教えてやろうか?」
殺伐とした声で、手には木剣を持ったルセテリがカイランの前に立ちはだかった。
その気迫に押されたようにカイランの足が半歩後ろへ下がったが、すぐに両手をギュッと握りしめたカイランが叫んだ。
「いいぜ! なら、いっちょやってみろよ」
あまりにも自信満々に肩を大きく広げて手で胸を叩くカイランに、ジアは密かに同情の眼差しを送った。
ルセテリが本気を出せばどうなるか、すでにジアはその結果を知っていた。
ジェレミアがまさにあのようルセテリに飛びかかって、完膚なきまでにボコボコに殴られたが、まさにあの二の舞になりそうだった。
まあ、一度くらいそんな経験をしてみるのも、カイランにとって得になりこそすれ、悪くはないだろう。
ジェレミアの場合は最初から根性が腐っていたから無駄だっただけで。
真実を見通す目を持っているというカイランはどうなるのか、ジアは本気で気になった。
ジアの頭の中には、ルセテリが負けるという心配は1ミリもなかった。
当然、世界観最強であるドラゴンにとって、喧嘩で敵う相手がいるはずもないではないか。
「俺の本当の実力を見せて、必ずてめえに認めさせてやるからな」
自信に満ち溢れたカイランは、ルセテリが差し出した木剣を受け取ると、率先して焼け落ちた村のど真ん中へとルセテリを案内した。
「これくらいの広さがあれば、手合わせくらいはできるだろ?」
躊躇のないカイランの場所選びに、ルセテリはプッと吹き出しそうになった。
やはりまだ子供だからか、本心を全く隠す気がないようだった。
誰もがどこからでも見物できる村の中央だなんて……見え透いているではないか。
あの過剰な自己顕示欲、一度くらいはへし折ってやりたかった。
ルセテリは木剣を握る手を握り直し、そっと微笑んだ。
木剣を持って村の中央へ向かう二人を見たアークが、心配になったのか慌てふためいて走ってきた。
「カイラン様。本当にル先生と手合わせするおつもりですか?」
アークは慎重にカイランに尋ねた。
彼はルセテリとの初対面の時から漂っていた尋常ではない彼の気配を本能的に感じ取り、すっかり身を縮めていたところだったのだ。
その気配とは、乗り越えられない巨大な存在感が立ちはだかる、一介の小さな存在に過ぎない人間には到底超えられない強大な気配だった。
「俺の実力知ってるだろ? 心配すんな」
よく知っているからこそ心配だった。
深いため息をついたアークは、ルセテリとカイランの手合わせを見守ることにした。
危険になれば、その時に止めても遅くはないだろうという考えだった。
カイランの実力が優れているとはいえ、それでも10歳の子供に過ぎない。
「なら、勝手にしてくださいよ。俺は知りませんからね?」
もう一度カイランの念押しを受け取り、両腕をサッと上げたアークは二人から離れた。
それを合図に、カイランが先にルセテリの懐へ飛び込んだ。
「ハァッ!」
力強い気合の声と共に、空いていた脇腹に向けてカイランの木剣が飛んできた。




