第65話 疑念
「え……?」
珍しい確率で、ルセテリはひどく戸惑った。
ただカイランの動物的な感覚に困惑すべきか、それとも感嘆を漏らすべきか、ルセテリは選ぶことができずに瞳だけをキョロキョロと動かした。
「それはどうやってやったんだ?」
純粋に目を輝かせるカイランに向け、ジアは素早く鞄に手を入れ、最初に掴んだものを手に取って目の前に突き出しながら叫んだ。
「軟膏! これ、傷口に塗る軟膏なんだけど、止血効果が抜群なの! これを使ったの!」
「でも傷、あっという間に消えなかったか?」
「ただそう見えただけ。これ、傷に効く薬草ばかりを混ぜて作ったからなの」
どこか故障したようにピタッと止まってしまったルセテリをチラリと見たジアは、カイランに軟膏の容器を押し付けるようにし、ルセテリへ向けられたカイランの視線を逸らすのに必死だった。
「これが止血にもなるって?」
幸いカイランは軟膏から目を離せず、あちこち観察し始めた。
蓋を開けてクンクンと匂いを嗅いでみたり、指でこすって自分の手に擦り込んでみたりと不思議そうにしている姿を見て、ようやく胸をなで下ろしたジアは、ルセテリに鋭い視線を一発お見舞いした。
幸い目は早かったが、勘が鈍くて助かったものの、一歩間違えれば魔法を使っていることがバレるところだった。
止血だけならともかく、当然あるはずのジアの唇の上の傷跡が跡形もなく消え去ったことに、カイランはまだ気づいていない様子だった。
魔法がほとんど消滅した今は、どんなに些細な魔法を使う者でも魔法使い扱いされ、それが見世物になる世の中だった。
一言で言えば、息をするように自由に魔法を操る世界の大行者でありドラゴンであるルセテリの正体がバレたら、どんなことが起きるか想像してみてほしい。
大陸のあちこちから人々が雲霞の如く押し寄せ、魔法であれをしてくれこれをしてくれと頼み込み、ひいては互いにルセテリを奪い合うために戦争でも起こしかねないではないか。
それなのに、何も考えずに人前で魔法を使うなんて。
自分には魔法の使用に厳しくすべきだと言って禁制までかけておきながら、ルセテリ本人はあまりにも平然と人前で魔法を使うだなんて……言語道断だった。
[いや、私には使うなって言ってたじゃないですか。それで魔法の使用制限までかけておきながら、いざご本人はあんなに平気で使っていいんですか?]
[いや、あんなに動物的だとは思わなかったんだ。一体いつの間に見たんだ?]
[論点をすり替えないでください、ルッ様。人前では少しは気をつけてくださいって言ってるんです]
ジアの厳しい指摘にすっかり気が削がれ、ルセテリの肩がすくんだ。
[これはルセテリ様が悪いです]
いつもルセテリの言葉なら、豆でデザートを作って食べると言っても盲目的なまでに従順だったベッシーまでもが、プイッと顔を背けてルセテリを裏切った。
いや、実際に豆で作って食べたデザートは美味しかった。
ほんのりとした甘さがベタつかず、ちょうどいい甘さで何にでもよく合う意外な味だったというか。
ルセテリはその豆をパンの間に挟んでバターと一緒に食べたり、かき氷の上にトッピングして食べたりもした。
そんなこともあり、ルセテリが安楽死の危機からベッシーを救い出したことからも、ルセテリの言葉なら素直に聞いていたベッシーだったが、長旅のせいかどうもルセテリに対する信頼度が急降下していた。
[ああ、全部俺が悪いってことだな?]
ポロリと、ルセテリの目から涙が一滴落ちたように見えたのは、ただの錯覚だろうか?
どこからかこっそり逃げ出そうと……。
ジアの目がツンと細くなり、ルセテリを睨みつけていた。
「ところでさ、これ。うちの商団に売ってくれない?」
あちこち軟膏を観察していたカイランが目を輝かせてジアに近づき、軟膏の容器を差し出した。
「え?」
思いがけないカイランの提案に、こっそりルセテリを睨みつけていたジアは驚いてピョンと一歩後ろへ下がった。
「匂いもいいし、効果も確実だし……これ、すごく売れそうだけど、うちの商団に独占で供給してくれないか?」
ジアは戸惑った。
実は適当に誤魔化すために握らせた軟膏だったのに、突然のビジネスの提案は唐突な出来事だった。
そもそも考えたこともなかったし、まるで万能薬でも見るかのように自分を真っ直ぐに見つめるカイランの眼差しが負担でもあったし……何より、傷口に塗る軟膏ではあったが、カイランが考えているような劇的な効能など存在しなかった。
あるとすればそれは、ルセテリの魔法による効果に過ぎない。
慌てて揺れる瞳でジアはルセテリを見た。
肝心の、このすべての騒動を引き起こした張本人は、グズグズと泣き言を言っている最中だった。
「これは売るために作ったものじゃないんだけど?」
「こんなにいいものをどうして売らないんだよ? これは絶対にすごい代物だぜ! 医学に革命を起こすぞ!」
カイランの称賛に気を良くするのが普通だろうが、反対にジアはどんどん沼にハマっていく気分だった。
適当に状況を誤魔化すために渡しただけなのに、こんなに興奮するとは予想外だった。
「売るほどたくさん作ることもできないし、これくらいならどの薬師のところへ行っても同じように作れるわ」
状況を逃れるための嘘ではなかった。
実際に作り方は難しくなく、5歳の時からルセテリの傍で貧民街の薬師の真似事を手伝いながら、ジアでも簡単に作れる軟膏だったからだ。
軟膏に使われている材料も、特別な秘伝の材料を使った特別なものではなかった。
どこにでもあるような材料をすり潰し、蜜蝋と傷に効くオイルを混ぜて固めるという、作り方さえ簡単なものだった。
つまり、今カイランが感嘆の声を上げて自分に売ってくれと言っている実際の効果は、ルセテリの魔法のおかげだという話だ。
医学の革命だなんて……この軟膏には過分な賛辞だった。
「いや。俺が見る限り、これは偉大な発明だ」
うん、違う。偉大な発明じゃなくて、ただの魔法なの。
事実を打ち明けることもできず、困り果てた。
[もしその軟膏、売るって言ったら、俺がいちいち魔法をかけなきゃいけないのか?]
つまり、そういうこと。
いつの間にか涙を拭ってグズグズ言っていたルセテリが、すっかり乾いた目の下で腕組みまでして、ふんぞり返った姿勢をとっていた。
なぜだかジアは、その姿がとても目障りに感じられそうだった。
「偉大な発明でもないし、そんなに売れるようなものじゃないから」
しつこく食い下がるカイランの商売に対する情熱にも、ジアは最後まで降伏しなかった。
「商売において駆け引きをする時は、時には身を引く術も知るべきでしょう」
気づかないうちに、腕いっぱいにメイズを抱えてカイランの傍に立っていた。
「アカン!」
「これまでついて回りながら、何を学ばれたのですか」
「良い品物を見逃さないのも商人の徳目だろ」
短くチッ、チッと舌打ちをしたアカンは、メイズを横に下ろして火を起こす準備を始めた。
「良し悪しを見極める目を養うことも重要ですが、それよりもっと重要なことがあるとお教えしたではありませんか」
「そ、そうだったか……?」
カイランは頭を掻きながらとぼけた。
「何だったか覚えていらっしゃらないでしょう? 肝心な時にこうして上の空でいらっしゃるのですから、頭の中に一体何を詰め込んでいらっしゃるのやら」
「俺が何だって。それでも重要なことはちゃんと聞いてるだろ」
「聞いているだけですか?」
アカンの核心を突く言葉に、カイランは返す言葉を失った。
「私がそのように申し上げたではありませんか。商人に最も必要な徳目は忍耐だと。耐え忍ぶことを知ってこそ、木も硬くなるものだと言いませんでしたか?」
「俺だって我慢することくらい知ってるよ」
「やれやれ、ご存知の方がダメだという品物をあのように出せと急かすのですか? 誰が見ても強盗かと思うでしょう」
口を尖らせたカイランがすねたように顔をプイッと背けたが、その反対側にはすでにナビルが来て待機中だった。
「私がこのように無作法に教えた覚えはないのですがね」
「ヒイッ」
あっという間にカイランはナビルに首根っこを掴まれたまま引きずられていった。
「まあ、適当に叱られれば戻ってこられるでしょう。これ、一つ召し上がってみますか?」
アカンは鉄板の上でこんがりと焼けたメイズを一つずつジアとルセテリに手渡した。
「熱いので気をつけてお持ちください」
「これがメイズ……」
皮を剥かずに焼いたメイズは、熱い湯気をフーフーと吹きながら皮を剥くや否や、水分をたっぷり含んだパンパンの粒が、触れれば弾けそうにジアを待っていた。
一口、ガブッとメイズをかじると、ぎゅっと凝縮された甘みが口の中いっぱいに爆発するように弾け飛んだ。
「美味いだろ?」
恍惚感に酔いしれるジアの顔を見たアカンは、人の良さそうな豪快な笑い声をガハハと上げた。
「おいひいです」
熱くてまともに言葉を続けられないながらも、ジアは生まれて初めて味わうメイズの新鮮な甘みに夢中になった。
「これも食べてみな」
ムスッとした表情のカイランがナビルにすっかり叱られたのか、ジアに近づいてきてメイズを一つ差し出した。
「カレーパウダーにパプリカとチリパウダーを振りかけて、ギーバターを塗って焼いたんだ。これも美味いぞ」
ジアはメイズを差し出すカイランの顔をじっと見つめた。
どんな意図を持って近づいてきたのかひどく怪しくは見えたが、ともかく耳たぶまで真っ赤にした顔で不意に突き出されたメイズを、ジアは無言で受け取った。
「それで、一つ聞きたいことがあるんだけど……」
やっぱり、何か魂胆があった。
突然カイランが近づいてきて、自分の唇をジアの耳元に近づけた。
「お前、女だろ?」




